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明智小五郎(1)
日期:2023-10-08 10:57  点击:257

明智小五郎


 蘭子はからだを(くく)(ざる)のように丸く縮めて、脱衣室の隅っこに小さくなったまま、じりじりと迫ってくる怪物の恐ろしい形相(ぎょうそう)を、まるで眼に見えぬ糸で視線をつながれでもしたように、まじろぎもせず見つめていた。
「ワハハハハ」
 怪物は長い(きば)をむき出し、ヌメヌメした赤い唇を(ふる)わせて、身もだえするように哄笑(こうしょう)した。
「蘭子、今おれがどんな気持でいるか、君にわかるかね。おれは恐ろしく愉快なんだぜ。とうとうとっつかまえたねえ。もうどんなことがあったって、放すもんじゃない。だが、ずいぶん苦労をさせたぜ、君は」
 振袖姿(ふりそですがた)の恩田は、そんなことを言いながら、両手の指で空気を(つか)恰好(かっこう)をして、隅っこの蘭子の上へ、巨大なけだもののように、のしかかって行った。
「キャア……助けてえ……」
 蘭子は顔じゅうを口にして、死にもの狂いの悲鳴をあげた。
「ワハハハハハ」
 怪獣は相手が(こわ)がれば怖がるほど、一そう歓喜に燃えて、なまぐさい哄笑(こうしょう)をつづけるのだ。
 長い(つめ)()せた指が、今一寸(いっすん)で蘭子の肩に触れようとした。だが彼女はまだ気力を失ってはいなかった。
「ワア……」と、今にも殺されそうな悲鳴を発しながら、相手の手の下をスルリと抜けて、白いタイルの浴室へ、(まり)のようにころがり込んで行った。
「ワハハハハハ、いよいよ袋の(ねずみ)だぜ。知っているかね。この風呂場には、窓というものがないんだよ。君はつまりおれの注文にはまってくれたというもんだ」
 そして、野獣らしい黒い裸身が、四つん()いになって、ノソリノソリ、タイルの階段を降りていった。
 蘭子はいつの間にか、浴槽(よくそう)の中に首までつかっていた。
 人間(ひょう)は、鼠をもてあそぶ(ねこ)のように、急に襲撃するでもなく、タイルの洗い場にうずくまったまま、ずうっと首を低くして、ギラギラ光る青い眼で、いつまでもいつまでも、さも楽しげに、湯の中の餌食(えじき)(にら)んでいた。
 同じ屋敷のそとでは、蘭子の恋人神谷芳雄が、ガラスのかけらを植えつけたコンクリート(べい)のまわりをグルグルと(まわ)り歩いていた。
 彼は蘭子の女中奉公を、別の自動車で見送って、彼女が邸内にはいるのを見届けてからも、なんとなく気掛りなものだから、三十分あまりも、屋敷の前にたたずんだり、裏手に廻ったり、どこか隙見(すきみ)でもする箇所(かしょ)はないかとさがしたり、そこを立ち去りかねていたが、いつまでそんなことをしていても仕方がないと(あきら)めて、通りすがりの自動車を呼びとめた。
 ちょうど彼が自動車に乗りこんだ時分、邸内では、あの浴場の悲劇がはじまっていたのだが、広い邸内の密閉された湯殿の中とて、蘭子がいかに叫ぼうとも、その声は塀のそとまで届こうはずはなかった。それとも知らぬ神谷が、人間豹の眼から恋人を完全に隠しおおせたつもりで、安堵(あんど)して帰途についたのは是非もないことであった。
 だが、虫が知らせたのであろうか、走る自動車の中で、神谷の心は妙に落ちつかなかった。これでいいのかしら、何をいうにも相手は魔性(ましょう)の人間豹だ。嗅覚(きゅうかく)のするどい野獣のことだから、長いあいだには、蘭子の隠れがを突きとめまいものでもない。蘭子の安全のためには、彼女を隠すことなどより、人間豹そのものを、一日も早く捕まえてしまうのが最善の策である。そうして、牢獄(ろうごく)にぶち込むなり、死刑に処するなりにしてしまえば、蘭子ばかりではない、世間全体の安堵である。動物園の(おり)を抜け出した野獣みたいなやつが、ノソノソ町を歩いていたのでは、東京じゅうの人が(まくら)を高くして寝ることができないわけだ。
 それについて、神谷は数日以前から考えていたことがある。警察力が頼むに足らぬとすれば、もうほかに手段はない。一縷(いちる)の望みは有力な民間探偵(たんてい)の力を借りることであった。私立探偵といえば、たちまち思い浮かぶのは明智小五郎だ。彼なれば、警察が手古(てこ)ずった難事件をやすやすと解決したという話を幾つも聞いている。(こと)に人間(ひょう)のような怪犯人には、明智こそ似つかわしいのではあるまいか。

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