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裏の裏(1)
日期:2023-10-08 11:18  点击:231

裏の裏


 一方明智探偵事務所では、明智が人間(ひょう)に変装して、自動車に文代さんの身代り人形を乗せて出発すると、事件依頼者の神谷青年も()()ず自宅に引き上げて行ったので、あとには明智夫人の文代さんと助手の小林少年と女中の三人きりであった。
 文代さんは小林少年に表と裏の戸締まりを厳重にするように命じておいて、自分は二階の寝室へとじこもり、内側から(かぎ)をかけて万一の用心をしていた。ベッドの枕元の小卓には、たまをこめた拳銃(けんじゅう)さえ用意してあった。
 異様に緊張した長い長い夜であった。主人の思い切った計略はうまく図に当たるであろうか。もしや失敗するようなことはないだろうか。恩田ばかりでなく、その父親までも一と晩のうちに(とら)えようなんて、あんまり(よく)ばってはいないかしら。明智の手腕を信じきっている文代さんではあったが、さすがに案じないではいられなかった。
 夜の十時頃、出先の明智から電話があって、小林少年が電話口に出ると、「恩田は首尾よく捕えたから安心せよ。これから父親の方を捜索に出かける。少し遅くなるかもしれない」ということであった。電話が非常に遠くて、よく聞き取れないほど低い声であったが、小林少年は別に疑うこともなく、それを二階の文代さんのところへ取り次いだ。
 ところが、ちょうどその電話のベルが鳴った時には、読者も知るように、(とう)の明智小五郎は、人間(ひょう)になりすまして、すぐ事務所の前の暗い道を往ったり来たりしていたのだ。それはいうまでもなくにせ電話であった。だが、何者がなんのために、そんないたずらをしたのであろう。このいたずらの奥には、どのような恐ろしい意味が隠されていたのであろう。
 それはともかく、また一時間ほどたったころ、玄関のベルがけたたましく鳴り響いた。この夜ふけにお客様があるわけはない。先生がお帰りに違いないと思うと、小林少年は飛ぶように玄関に()けつけてドアをひらいた。
 そこに立っていたのは、果たして明智探偵であった。だが、これはまあなんという変てこな風体であろう。出かけて行った時そのままの、醜悪な人獣のメーク・アップ、薄黒く塗って(くま)をつけた骨ばった顔、まっ赤な唇、(きば)のような入歯を含んだ恐ろしい口。その異様な風体の上に、小脇(こわき)には一人の洋装の女がグッタリと抱えられている。
 小林少年はそれを見ると、ハッとして思わず逃げ腰になったが、よく考えてみれば、実はなんでもないことであった。明智が抱えているのは、生きた人間ではない。恩田を捕えるために(おとり)に使ったマネキン人形にすぎないのだ。
「お帰りなさい」
 小林少年は丁寧(ていねい)に主人を迎えた。
「この人形をね、さいぜんの木箱の中へ入れておいてくれたまえ。あとから人形屋が取りにくるんだからね」
 明智は小林に人形を渡すと、(くつ)を脱いで上にあがった。
 人形の木箱は、暗い廊下の突き当たりに置いてある。小林がエッチラオッチラ、マネキンを運んで、その木箱のところへ行くうしろ姿を、明智はなぜかじっと(なが)めていたが、やがてツカツカとそのあとを追って行って、うしろから少年に抱きつくような恰好(かっこう)をしたかと思うと、そこのドアをひらいて、女中部屋へはいっていった。
 探偵は一体なんのために、そんなまねをしたのか。実に奇妙なことであったが、しばらくすると、彼は一人で女中部屋を出て、二人の寝室へあがって行った。
「あら、お帰りなさい」
 階段の上で、パッタリと文代さんに出会った。彼女は主人の帰宅らしい様子なので、とじこもっていた寝室をあけて、お迎えのために今下へ降りようとしていたところであった。
 明智は「ああ」と答えたまま、先に立って寝室にはいって行った。
「小林も誰もいませんでして?」
 文代さんはけげん顔に尋ねる。
「いや、小林には少し用事を言いつけたんだよ。いいからここへ来たまえ」
 変装用の入歯のために、明智の声はまるで別人のように聞こえた。
「いやですわ、そんな恐ろしい姿で。早く顔をお洗いなさるといいわ」
「いや、それどころじゃない。ともかく部屋へはいりたまえ。君に話があるんだ」
 そして、二人は寝室へはいった。寝室と言っても、そこは文代さんの居間と兼用になっているので、部屋をカーテンで仕切って、一方にベッド、一方にはデスク、テーブル、化粧鏡、数脚の椅子(いす)などが整然と(なら)んでいた。それをデスクの上の卓上燈が、薄ぼんやりと照らし出している。
「いや、そのままでいい。暗い方がいいんだ」
 文代さんが、壁のスイッチを押して天井の電燈をつけようとすると、明智はなぜかそれを止めて、大きな肘掛(ひじかけ)椅子に腰をおろした。文代さんはそれに相対して、小型の椅子につく。
「お疲れなすったでしょう。でも、人間(ひょう)の身代りがうまくいきましたのね」
 文代さんが、大胆不敵な計略を讃美するように言った。
「ウン、僕が運転台を飛び降りて、やつの前に現われた時は、実に痛快だった。そっくりそのままの人間豹が二匹、顔と顔とを見合わせたんだからね」
 明智は、シェードの(かげ)になった醜怪な人間豹の顔で、ニタニタと笑った。
「驚きましたでしょう」
「ウン、みじめな顔をしたぜ。それに、僕のピストルが(ねら)いを定めているんで、やっこさん手も足も出ないのだ。そのまま合図をして、待ち伏せていた刑事たちに引き渡したんだがね」
「じゃ、今頃は警視庁の地下室でうめいていますわ」
「君はそう思うかい」
 明智が変な言い方をした。
「でも、そうとしか――」
「ウフフフフフ……ところが、そうじゃないんだよ。君に話したいというのは、そのことなのよ。実はね、恩田は逃げたのだよ」
「まあ……」
 文代さんの美しい顔が、ギョッとしたように話し手を見つめた。
「恩田はね、高手小手に(しば)られ、五人の刑事に守られて、あの自動車で警視庁へ、連れて行かれるところだったのさ。しかし、警官の捕縄(ほじょう)は、少なくとも人間豹には、少し弱すぎたんだね。恩田が両腕に力をこめて、ウンとやると、プッツリ切れちまった。それは自動車が貯水池の横の(さび)しい場所にさしかかった時だったがね。刑事たち驚くまいことか、アッと言って飛びかかってきたが、自由になった人間豹に、五人だろうが六人だろうが、(かな)いっこはないからね。それにやっこさんたち、悲しいことに飛び道具を持っていなかった。そこで、刑事たちは散々な目にあって、一人残らず自動車からほうり出されてしまったんだよ」
「じゃ、恩田は、その自動車を操縦して逃げましたのね」
「そうだよ。実にいい心持で逃げ出したのだよ」
「でも、そのとき、あなたは、どこにいらっしゃいましたの?」
「僕? つまり明智小五郎だね。その僕は森の中で恩田を刑事たちに引き渡すと、今度は恩田の父親を探しに出掛けたというわけさ」
 文代さんは、妙な顔をして、マジマジと話し手を見つめた。入歯のせいとはいえ、今夜の明智は、なんだか他人のように思えて仕方がなかった。それに、この変てこな話しぶりはどうしたのであろう。

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