行业分类
本陣殺人事件--本陣の末裔(2)
日期:2023-11-21 19:10  点击:273

 この良介という人は賢蔵たちとすっかりタイプが違っていて、学校は小学校を出たきり

だが、算数の道に明るく、世故に長たけているので、一柳家の管理人としてはもって来い

の人物だった。だから糸子刀自なども偏屈な長男や、家にいない次男や、頼りない三男よ

りこの人が一番気がおけなくて、よい相談相手になるらしかった。さて、良介の妻の秋子

だが、これは毒にも薬にもならない、良おつ人とのいうなりになるような平凡な女であ

る。

 本家分家を合わせて以上の六人、即ち糸子刀自、賢蔵、三郎、鈴子、良介、秋子と、こ

れだけが、封建的な空気の中に、ともかくも平穏無事の生活をつづけていたのだが、そこ

へ突如大きな波紋を投げかけたのが、長男賢蔵の結婚問題だった。賢蔵が結婚しようとい

う相手は、当時岡山市の女学校の先生をしていた久保克かつ子こという婦人だが、この結

婚に一族こぞって反対したのは、克子自身に申し分があったわけではなく、克子の家柄に

難点があったのである。

 農村へ入って見給え、都会ではほとんど死滅語となっている「家柄」という言葉が、い

かにいまなお生き生きと生きているか、そしてそれがいかに万事を支配しているかを諸君

は知られるだろう。今度の敗戦以来の社会の混乱から、さすがに農民諸君も地位や身分や

財産などには、以前ほど叩こう頭とうしなくなった。それらは今、大きな音を立てて崩壊

しつつあるからである。しかし家柄は崩壊しない。よい家柄に対する憧どう憬けい、敬

慕、自負は今もなお農民を支配している。しかも彼らのいうよい家柄とは、必ずしも優生

学や遺伝学的見地から見た、よい血統を意味するのではないらしい。旧幕時代、代々名主

を勤めたとか、庄屋であったとかいえば、たといその家から、遺伝による疾病が続出して

いても、よい家柄で通るのである。現在の革新時代においてすらそれだから、昭和十二年

頃ごろの、しかも本陣の家筋であることを、何よりの誇りとしている一柳家の一族が、い

かに家柄の尊厳を重視したか、多くいうを要すまい。

 久保克子の父はかつてこの村の小作人であった。しかしこの小作人にはいささか骨が

あったと見えて、村の生活に見み限きりをつけると、弟と二人でアメリカへ渡った。そし

て向こうの果樹園で働きながら、何万円か溜めると、故国へ帰って来て、この村から十里

ほど離れたところで、兄弟してアメリカで習得して来たところの果樹園をはじめた。兄弟

はそこで晩おそい結婚をすると、兄の方は克子を産み、そして死んだ。克子の母は良人が

死ぬと実家へかえったので、だから克子は叔お父じの手で育てられたのである。彼女はた

いへん勉強好きの娘であった。叔父も彼女の学費に金を吝おしまなかった。克子は東京の

女高師を出た後、郷里に近い岡山市の女学校に奉職したのである。

 彼女の父と叔父が共同ではじめた果樹園はたいへん成功していたし、叔父は厳重に、彼

女の分となるべき金を取りのけていたから、克子が女学校の先生をしていたのは、生活の

ためではなく、彼女の自覚によるものだった。彼女は自分の財産を持っていた。しかし、

一柳家の一族から見れば、彼女がいかに教育があり、聡明であり、財産を持っていたとし

ても、小作人の子は小作人の子であった。彼女は氏も素性もない昔の水みず吞のみ百姓、

久保林吉の娘なのである。

 賢蔵が彼女を識しったのは、克子が肝きも煎いりしていた倉敷の若い知識人の集会に、

講演を頼まれた時かららしい。その後、克子は外国語の本などで分からないところがある

と、賢蔵のところへ訊ききに来た。そういう交渉が一年ほどつづいた後、突然、賢蔵が彼

女との結婚の意志を発表したのである。

 一族こぞってそれに反対した事は前にも言ったが、その急きゆう先せん鋒ぽうが糸子刀

自と良介であったことも首肯出来るところである。兄弟の中では妹の妙子が、猛烈な反対

の手紙を兄にあてて寄越した。それに反して弟の隆二は母にあてて、兄さんの好きなよう

にさせてあげたい、いったん言い出したら後へひかない人だから、という意味の手紙を寄

越したきりで、直接賢蔵にあてては何も言って来なかった。

小语种学习网  |  本站导航  |  英语学习  |  网页版
09/25 01:21
首页 刷新 顶部