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車井戸はなぜ軋る--本位田一家に関する覚え書(2)
日期:2023-11-24 14:39  点击:253

 お柳はおとなしいもの静かな女で、縹緻きりようも悪くなく、村の娘をあつめてお裁縫

をおしえたり、お茶やお花の師匠をしたり、秋月の旦那には過ぎたものだという評判だっ

た。善太郎はそれを憎んだ。

 妻は自分に満足していない。──自分を軽けい蔑べつしている。

 そう考えると、善太郎の残忍な血がたぎりたち、なんでもないことに妻を打ちよう擲ち

やくし、どうかすると髪の毛をとって、ひきずりまわしたりすることがあった。そんなと

きお柳は、外聞をはばかって高い声さえ立てなかった。善太郎はそれをしぶといといい、

ふてくされていると罵った。

 夫婦の間には、おりんという女の子がひとりある。縮れっ毛の、愛あい嬌きようにとぼ

しい、陰気な子供であった。

 大正六年、おりんが六つの年に、善太郎は中風で倒れて半身不随になってしまった。そ

れまでは微禄しながらも、なんとなく面目をたもって来た一家の生計は、こうなると長年

の無理がたたって火の車になった。病人をかかえて、お柳は身も心もやせ細った。

 見るに見かねて大三郎が、ちょくちょく見舞いに来るようになり、来るとかならずいく

ばくかの金を包んでいく。大三郎が来ると善太郎は大喜びで、歯の浮くようなお追従をな

らべたが、大三郎がかえっていくと、掌てのひらをかえしたように罵った。それでいて大

三郎のおいていった金をかえせとはいわなかった。

 善太郎が中風でたおれた翌年、即すなわち大正七年に、大三郎の妻とお柳が、ほとんど

同時にみごもった。そして翌年の春、ほとんど同時に男子を出生した。うまれたのは秋月

家のほうがひとつきほど早かったが、善太郎はその子がうまれた七日目の夜、不自由なか

らだで寝床を這はい出し、車井戸に身を投じて死んだ。

 お柳がうんだ赤ん坊を見たものなら、なぜ善太郎が身投げしたかすぐうなずけた筈はず

である。その赤ん坊は両眼とも瞳どう孔こうが二ふた重えになっていた。ところで本位田

大三郎も、この珍しい二重瞳孔の持ち主なのである。大三郎がうまれたとき当時まだ生き

ていた祖父の弥助が、大喜びでこんなことをいったという。

「この子は瞳ひとみが二重になっている。将来かならず本位田家の家名を、天下にあげる

やつじゃ。大事にそだてなければならぬ」

 若くして本位田家をついだ大三郎が、わがままいっぱいにふるまいながら、ひとに乗じ

られることもなく、立派にやっていけたのは、身にそなわった器量にもよるが、ひとつは

この伝説からくる威圧が、かれを一種特別な存在として奉っていたからである。

 このことと、善太郎が中風で倒れていらい、夫婦の交わりもなかったであろうことを思

いあわせれば、お柳のうんだ子が大三郎のたねであろうことは明らかであり、善太郎がこ

のあまりにも明めい瞭りような、不義のあかしを見せつけられて、憤死したのは無理もな

いといわれた。

 田舎いなかではこういう問題はかなりルーズにあつかわれる。ことに男の場合は、不問

に付される場合が多いのだが、さすがに女のほうには風当たりが強かった。ことに良おつ

人とがそのために憤死したとあっては、お柳に対する非難は大きかった。お柳はそういう

嵐あらしのなかを、じっと怺こらえて一年いきた。そして伍一(それがお柳のうんだ子供

の名前である)が乳ばなれするのを待って、当時八つになっていたおりんとともに遠縁の

老女にたくし、おのれは良人の一周忌の晩に、おなじ車井戸に身を投じて死んだ。書置き

はなかったが、罪の清算をしたのであろうといわれている。

 大三郎の妻のうんだ子は、大助と命名された。五つ六つになると大助と伍一が兄弟であ

ることは、誰の眼にもハッキリとわかった。母を異にしながら、それほど二人はよく似て

いた。ただ伍一が二重瞳孔を持っているのに大助にはそれがないという相違はあったけれ

ど。だから二人がいちばんよく似ていた小学校の五、六年ごろには、ふたりを見分けるに

は眼を見るよりほかなかったという。

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