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車井戸はなぜ軋る--本位田一家に関する覚え書(4)
日期:2023-11-24 14:40  点击:310

 昭和十六年大助は、学校を出るとすぐに結婚した。戦争がいよいよきびしくなったの

で、相当の家ではどこでも息むす子こを早く結婚させたのである。大助の妻は梨り枝えと

いって、隣村の没落士族の娘だったが、一説によると、梨枝は伍一と恋仲だったのが、思

いがけなく本位田家の跡取り息子から求婚されると、一も二もなく牛を馬に乗りかえたの

だという。もしその噂うわさにして真実ならば、伍一の大助に対する憎しみは、いよいよ

油をそそがれたことだろう。

 昭和十七年、大助と伍一は同時に召集をうけ、同じ部隊に入隊した。はじめ二人は揚子

江沿岸にいたようだが、異境にあっては伍一もさすがに旧怨を忘れたのか、たいへん仲よ

くやっていたらしい。そのころ大助からの妻の梨枝に寄越した手紙によると、二人は部隊

で双生児のマスコットと大事にされているとあり、二人ならんでうつした写真が同封して

あったが、この写真こそ、のちに起こったあの事件に、非常に無気味な影を投げかけたの

である。

 私も一度その写真を見たが、あの事件とかれこれ思いあわせると、戦せん慄りつせずに

はいられなかった。

 相似がまた二人の肉体によみがえって来たのである。おそらく戦地という同じ環境が、

二人の肉体を平均に地ならししたのだろう。応召まえの大助は、肉付きゆたかに色も白

かったのに、戦地の苦労がかれの体から適当に肉を削そぎおとし、顔もたくましく日にや

けていた。

 それに反して伍一のほうは、応召以前より肉付きもよくなり日焼けはかえって色があ

せ、こうして両方から歩みよった結果、二人はそれこそ瓜二つといってよいほどよく似て

いた。ただひとつ、伍一の眼の二重瞳孔から来るあの異様に無気味なかがやきをのぞいて

は。……

 昭和十八年には本位田家の次男慎吉が、学徒出陣で出ていった。しかし、このほうは半

年もたたぬうち胸をやんで召集解除になった。かれは一年あまり自宅で静養をしていた

が、戦争がすむと間もなく、K村から六里ほどはなれたH結核療養所へ入った。

 慎吉たちの母は、二人の息子がつぎつぎと兵隊にとられたので気落ちがしたのか、十八

年の秋に亡くなったので、慎吉が療養所へ入ると、本位田家のひろい屋敷には祖母のお槇

と嫁の梨枝と、孫の鶴代、ほかに昔からいる老婢のお杉と、鹿蔵という知恵遅れの下男

と、五人きりになってしまった。

 だから慎吉は、療養所へ入ってからも月に一度か二度はかえって来て、二、三日泊まっ

ていくようにしていた。K村と療養所は、さしわたしにして僅わずか六里のみちのりだっ

たが、乗り物の便利の悪いところで、汽車の少ないローカル線から、軽便鉄道、さらにバ

スに乗りかえていると、どうかすると朝早く出て、夕方までかかることがある。日帰りは

絶対に無理だった。

 慎吉は妹を愛した。かれは文学青年で、自分も文学者として立つつもりだったが、自分

よりもむしろ妹の才能を高く買っており、たとえば「嵐が丘」の作者、エミリ・ブロンテ

のような作家に、妹を仕立てあげようと思っていたらしい。

 鶴代はうまれつきの心臓弁膜症で、一歩も家を出ることが出来ない体質で、いつも土蔵

のなかの一室で本を読みくらしているような娘だったが、強い感受性と鋭い観察眼をもっ

ていた。

 慎吉はこの妹に、用があってもなくても、時折り療養所の自分あてに手紙を書くように

命じた。それは筆ならしと同時に、ものを視みる眼をきたえさせようという意味であった

らしい。鶴代はこの兄の命令を守って、せっせと慎吉に手紙を書きおくった。

 昭和十九年のおわりから、昭和二十年のはじめへかけて日本のどこの村でもそうであっ

たように、K村にも多くの変化があった。都会の空襲がはげしくなるにつれて、村から町

へ出ていったものが、おいおい疎開でひきあげて来たからである。そのなかに小野の一家

があった。

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