耕助は悪夢をふるい落とすように体をゆすって、それからぼんやり眼をあげた。ポンポ
ンポンポン、眼の下の入り江に連絡船が入ってくる。このあいだ、耕助の乗ってきた白竜
丸である。入り江から三、四艘そうの小舟が、バラバラと漕こぎ出した。小舟はすぐ白竜
丸にとりついた。連絡船と小舟のあいだで、なにやら声高に応答しているらしいが、声ま
では聞こえなかった。やがて連絡船のなかからかつぎ出されたものを見て、耕助は思わず
眼をみはった。
吊つり鐘がねだった。
「ああ、吊り鐘がもどってきたな」
耕助は船着き場を眼で探してみたが、和尚の姿はどこにも見えなかった。そこでまた、
かれは一歩一歩坂をのぼり出した。ほんとうをいうと、この道はちがっているのである。
寺へまっすぐかえるつもりなら、床屋を出てから、左へ行くべきだった。それを右へとっ
たのは、分鬼頭の屋敷がこっちにあるからである。
本鬼頭と分鬼頭とは、谷をへだてて向かいあっている。千光寺を将しよう棋ぎの駒こま
の王将とすると両鬼頭家は飛車と角の位置にあたっていた。両家のまえを走っている二つ
の道は、いくうねりかした後に、やがて谷のいちばん奥で一つに合している。そしてそこ
からまた、つづら折れの道をのぼったところに、千光寺の高い、急な石段がそそり立って
いるのである。
お志保さんでも出ていないかな。──分鬼頭のまえへさしかかったとき、耕助は、わざと
歩調をおとしてみたが、そうは問屋がおろさなかった。その代わりかれは、ゆっくり、屋
敷の構えを見てとることができた。
花か崗こう岩がんでたたんだ崖がけ、腰板うった白壁の塀へい、長なが屋や門もん、す
べてが本鬼頭と同じだが、規模の大きさにおいて、だいぶ劣るのは是非もない。塀のうち
にそびえている、紋もん瓦がわらの勾こう配ばいにも、本鬼頭ほどの雄大さはなかった。
土蔵もそれほどたくさんはなさそうだった。
分鬼頭のまえをのぼると、道が急に右へ曲がっている。それをたどっていくと、また左
へ道が曲がっているが、その曲がり個所にちょっとした台地があって、そこに立つと、眼
下に付近の海面を見晴らすことができる。天てん狗ぐの鼻と島の人がよんでいるところで
ある。その台地にお巡まわりさんが、一人立って、双眼鏡で海のうえをながめていた。
耕助の足音をきくと、お巡りさんは双眼鏡を持ったまま、こちらのほうをふり返った。
「やあ!」
と、いうような微笑が、ひげだらけのお巡りさんの顔にひろがった。
島には、駐在所が一軒しかない。お巡りさんはひとりである。しかも、そのお巡りさん
は陸上と水上の両警察を受け持って、モーター・ボートを一艘持っている。漁区の監視、
漁期の注意、漁師の鑑札調べなど、島のお巡りさんは陸上よりもむしろ水上のほうに仕事
が多いのである。獄門島のお巡りさんは、清し水みずさんといって、四十五、六のいつも
無精ひげをはやした好人物である。耕助とはもうなじみになっていた。
「なにかありましたか、海のうえに……?」
「なにね、また、海賊が現われたから、警戒を厳重にしろと、電話でいってきたもんです
からな」
清水さんはひげのなかから、白い歯を出してわらった。
「海賊──?」
耕助は思わず眼をみはったが、これまた、すぐにわらい出した。ちかごろ、瀬戸内海に
海賊が現われるということは、久保銀造のところに滞在しているあいだに、耕助も新聞で
読んだことがある。