「で、そのこと、昨日申し上げておいたはずなんですよ。いずれ主人がよくなりました
ら、ごあいさつにお伺いしますって。和尚さんには、そのこと通じてなかったのでしょう
か」
「ああ、そ、そうですか。じゃ、きっと、和尚さん、忘れたんですね。し、失礼しまし
た」
「いいえ、こちらこそ。──でも、和尚さん、ひどいわねえ」
「はあ?」
「だって、あなたをお使いによこすなんて」
「なに、ぼ、ぼくはどうせ遊んでいるんですから」
「金田一さん」
「はあ」
「あなたは、これから本家へいらっしゃる?」
「ええ、行きます。なにか御用がありましたら──」
「いいえ、それじゃお引き留めできないわね。じゃまた、改めてお遊びにいらっしゃい
な。あなた本家へちょくちょくいらっしゃるんでしょう?」
「ええ、行きます、千万太君の本があるから、借りにいくんです」
「こっちには本がありませんけれど、でも、なにかお相手はできますわ。たまにはいらっ
してくださいよ。分鬼頭にだって、鬼や蛇が住んでいるわけじゃありませんのよ」
「はあ、いや、そんなわけじゃ──、じゃ失礼します」
「あら? そう、では和尚さんによろしく」
分鬼頭の長屋門を出たとき、耕助はわきの下にびっしょり汗をかいていた。玄関を出よ
うとするとき、奥からきこえてきた男たちの笑い声が、少なからずかれの自尊心を突き刺
したのである。むろん、それは偶然だったろう。かれをわらったわけではなかったろう。
しかし、それでも耕助は、いやあな気持ちを払ふつ拭しよくすることはできなかった。そ
の笑い声は酔っ払っていた。だから儀兵衛が痛風にしろ、痛風でないにしろ、少なくとも
酒の相手はできるのである。ひょっとすると、自分も飲んでいるのかもしれない。──
寺へのぼるつづら折れまで引き返してきたとき、うえからおりてきた三人づれにばった
り出会った。先頭に立った了沢君は提灯をともしていた。そのあとから、了然和尚と竹蔵
が、話しながらついてきた。
「ああ、金田一さん、すまんすまん。分鬼頭へは本家から通知が行ってたんじゃそうな」
「はあ、御主人が御病気で、手がはなせないからというようなごあいさつでした」
「ああ、そう、まあええ、まあええ」
本鬼頭のまえまで来ると、死んだ嘉右衛門さんの妾めかけだったというお勝つぁんが、
長屋門のまえに立って、うろうろあたりを見回していた。
「お勝つぁん、どうかしたんか。なにをうろうろしてるんじゃ」
「あ、竹蔵さん。花ちゃんを見やあしなかった?」
「花ちゃん。花ちゃんはさっきそこらをうろうろしてたがな」
「それが、急に見えなくなって。──和尚さん、いらっしゃいませ。さあさあどうぞ」
「お勝つぁんや。花子が見えんのかな」
「いえ、あの、ついさきまでそこらにいたんですが、──どうぞ奥へおいでになって」
竹蔵とお勝つぁんをそこに残して、三人が玄関へ入ると、奥からラジオがきこえてき
た。兄のかえりを待ちわびて、早苗が復員便りをきいているのである。