「幸庵さんの眼がさめるとええのじゃが、この調子じゃあてにならんな」
そのときだった。突然、奥のほうでけたたましい悲鳴のようなものがきこえた。たしかに、早苗の声らしかった。おりがおりだけに、一同はぎょっと腰をうかしかけたが、それにつづいてきこえてきた、床を踏み鳴らすような物音と、野獣のようなうなり声をきくと、かえって腰をおちつけて、
「ああ、今夜病人がえろう暴れるようじゃな」
和尚がつぶやいた。
「ええ、そうよ。今朝から気ちがいさん、とてもきげんが悪いわ」
「わてらがわきへ行くと、猿さるみたいに歯をむき出しておこるわ、わてきらい、あんな気ちがい」
耕助はそれではじめて了解した。床屋の親方の話によると、千万太の父の与三松は、気が狂って、もう長いこと、座ざ敷しき牢ろうにいるということである。その気ちがいがあばれ出したのだろう。狼おおかみの遠とお吠ぼえのようなあらっぽい咆ほう哮こうと、がたぴしと格子をゆすぶる音をきいていると、耕助は心がさむざむと凍えると同時に、いまさらのように、この一家のうちにのしかかっている、暗い重圧を思わずにはいられなかった。
間もなくお勝がかえってきた。少しおくれて早苗も入ってきた。早苗の顔はすっかり血の気をうしなって、円つぶらな眼が、ものにおびえたように大きく拡大していた。
「早苗さん、病人が悪いようじゃな」
「え──? ええ、そう、このごろなんだか気があらくなって。──おばさん、花ちゃんは?」
早苗の声は消え入りそうであった。顔の蒼あおさや、妙におどおどした眼の色にも、尋常でないものがあった。ところで花子は結局どこにも見えなかったのである。一同の不安はいよいよ決定的なものになってきた。「それじゃ、村長、あんたは村のほうを探しておくれ。竹蔵と了沢は、分鬼頭へ行いて、鵜飼という男に会って、花ちゃんを見なんだかきいてみてくれ。わしは寺へかえってみる。まさか、いまごろ、寺にいるはずはないと思うが」
「和尚さん、ぼくにもなにか、できることはありませんか」
耕助が横から口を出した。
「金田一さん、あんたはわしといっしょに来ておくれ。──ああ、いや」
と、和尚は幸庵さんに眼をとめて、
「すまんがあんた、幸庵さんを送っていってやってくださらんか。これじゃどうも、途中が危ない」
「承知しました」
手くばりがきまって、一同が席を立ったのは、もうかれこれ十一時だった。表へ出ると、外はかなりの風である。空は真っ黒に曇っていた。長屋門を出ると、村長だけは一同に別れて坂を下っていった。ほかの五人はひとかたまりになって、坂をのぼっていったが、坂をのぼりきったところで、耕助だけは別れなければならなかった。幸庵さんの家は、そこから左へ行ったところにある。
「それじゃお客さん、すみませんがお願いいたします」
それまで幸庵さんをかついできた竹蔵が、耕助の肩へ酔っ払いを渡した。
「金田一さん、気をつけておいで、転ぶと危ないぞな」
「なに、大丈夫です」
幸庵さんの家は、そこから二町ほど行ったところにある。泥酔しているとはいえ、正気を失っているわけではなく、ひょろひょろしながらも、幸庵さんは、自分で歩く意志を持っているのだから、荷物のほうは大したことはなかったが、夜道の暗いのには耕助も弱った。うっかり提灯ちようちんを吹っ消されたら、崖がけから転げ落ちないものでもない。右に提灯、左に幸庵さんをかかえた耕助は、向かい風とたたかいながら、それでもやっと幸庵さんの家までたどりついた。