「あれまあ、旦那さんの──まあまあまあ」
幸庵さんは男やもめで、婆やとふたり暮らしである。その婆やの仰ぎよう山さんに驚いたり、礼をいうのをきき流して、耕助はすぐに引き返した。風はしだいに吹きつのってくる。ひとりになると、波の音の高いのが、にわかに耳につき出した。空は墨を流したように真っ暗である。うしろから吹きつける風に追われるように、耕助は小走りに走っていた。
なにかある? いや、なにかあったにちがいない。この闇やみ、この風──花子のような幼い娘が、こういう晩に、いまごろまで外で遊んでいるとは思えない。なにかある。いや、なにかあったのだ。──
耕助ははげしい胸騒ぎを感じながら、間もなく、さっき一同と別れた三つまたまで来た。そこを突っきって東へ進むと、暗い夜道の向こうにポッツリと提灯の灯が見えた。こっちへやってくるのは、どうやら竹蔵と了沢のふたりづれらしかった。
耕助は間もなく、あのつづら折れのふもとまで来た。そこで待っていると、向こうから来たのは果たして、竹蔵と了沢だった。
「どうでした。わかりましたか」
「いや、知らんというんで。──」
「鵜飼という人はいるんですか」
「へえ、もうさっき寝たといいます。起こしてもろて、話をきこうと思うたんですが、なにしろ剣もホロロのあいさつで。──」
「おかみさんが出てきたんですか」
「いいや、女中で──なんしろ私はあそこの家は鬼門なんで」
竹蔵は苦笑いをしていた。
潮つくりの名人竹蔵を、自己の陣営にひきこもうとして、お志保が躍起になっていることは、耕助もこのあいだ、床屋の親方からきいた。本鬼頭に義理を立てて、竹蔵はあくまでそれを突っぱねている。分鬼頭では儀兵衛もお志保も、それですっかりきげんを損じているのである。
「竹蔵さん、あんたこれからどうします」
「さあ、このままほうっておくわけにゃいきません。本家は女ばかりだから──早苗さんがかわいそうだ」
竹蔵はうめくようにいった。そして不安そうにガタガタ胴ぶるいをした。
「ああ、和尚さんがあそこへかえっていく」
いままで提灯をもったまま、黙ってふたりのそばにひかえていた了沢が、そのとき、ふっとつぶやいた。なるほど真っ暗なつづら折れのなかほどを、提灯がひとつ、ポッツリと宙に浮いたように歩いていく。それを見ると竹蔵は、急に心をきめたように、
「もう一度和尚さんに会うてみよう、わしゃどうしてよいかわかりませんで」
「それがいいでしょう。じゃ、いっしょに行きましょう」
三人は肩をならべて、つづら折れにさしかかった。さきへ行った提灯も、こちらに気がついたのか、提灯を高くさしあげて振ってみせた。耕助がそれにこたえて提灯をふると、向こうの提灯はまたぼつぼつと歩き出した。だれからともなく足をはやめて、三人はそれを追うていた。海から吹きつける風が、はげしく赤松の枝を鳴らして、西を向いて歩くときには、面おもてもあげられないくらいだった。
ひと曲がり、ふた曲がり、三曲がり。──前を行く提灯は見えたりかくれたりする。三人が例の地神様のお堂をすぎたころには、まえの提灯はすでに石段にさしかかっていた。和尚は年寄りだから、この石段はかなり難儀なのである。ゆっくり登る和尚の体のかげになって、提灯が見えつかくれつした。三人が石段の下の一本道にさしかかったころ、和尚はやっと石段を登り切ったとみえて、提灯のあかりがふうっと見えなくなった。