「ま、そうじゃな、下げ手しゆ人にんは」
と、幸庵さんは古風ないいかたをして、
「ぶん殴ってたおしただけでは心もとなかったので、念のために絞殺したのじゃな。絞殺したのは手ぬぐい──日本手ぬぐいというようなしろものじゃないかと思う」
「ところで、殺されてからどれくらいの時間がたっていますか」
「さあて、もっと詳しいことを調べてみんとわからんが、だいたい五時間か六時間、それよりも長うもなければ短うもあるまい。ときにいま何時じゃな」
耕助が腕時計を見ると、ちょうど十二時半であった。
「ふむ、するときょうの──、いや、もう昨夜ということになりますかな、昨夜の六時半から七時半までのあいだということになるな」
それは自分の推定ともぴったり一致しているので、この古風な山羊ひげのお医者さんも案外正確なことをいうわいと耕助は改めて相手を見直したことだ。
金田一耕助は医者ではない。しかしまんざら医学の心得がないでもなかった。
久保銀造の後援で、アメリカのカレッジで勉強していたころ、耕助は夜間だけ、病院に勤務して、看護夫見習いみたいなことをやっていたことがある。それはむろん、銀造の補助だけを当てにしているのが、うしろめたくて、いくらかでも、自力でかせぎ出そうという意識もあったのだろうが、それと同時に、そのころすでに、後年身のなりわいとなったところの、あの風がわりな職業が念頭にあって、多少なりとも、医学的な経験をつんでおきたいという、殊勝な心がけの手伝っていたことも争われない。
そういう経験があるうえに、数年間の前線生活だ。耕助はいやというほど、人間の死ぬところを見てきた。爆死もあれば病死もあった。それらの死体を、つねに注意ぶかく見まもることを忘れなかった耕助は、死後硬直の状態について、一種の鋭い勘を持っていた。そして、花子の死について、その勘の教えるところは、幸庵さんの推定と、ぴったり一致しているのである。
すなわち、花子は十月五日の、午後六時半から七時半までのあいだに殺されたのである。その点については、もうまちがいのないところだけれど、では、花子はいつこの寺へのぼってきたのか。それについて耕助はもう一度、宵からの記憶をたぐってみる。 生きている花子の姿を、最後に人が見たのは、労働ニュースのはじまる時刻であった。それは六時十五分後のことだが、そのとき花子は家をぬけ出して、この千光寺へあがってきたのだろう。
ところで、耕助が寺を出たのは、ちょうど六時二十五分であった。そのことは、和尚が提灯を持っていけといったことから、腕時計を見たので、耕助はよく覚えている。耕助はそれから山を下っていったが、つづら折れのなかほどで、下からあがってきた竹蔵に出会った。あれはたぶん六時二十八分ごろのことであったろう。
耕助はそれから竹蔵に別れて分鬼頭へ行った。
そこでちょっと手間どったが、分鬼頭を出て、つづら折れのふもとまで引きかえしてきたところで、うえからおりてきた和尚と了沢と竹蔵の三人づれに出会った。そして四人つれだって本鬼頭へ行ったのだが、そのとき早苗が復員だよりをきいていた。その復員だよりも耕助たちがつくと同時に終わったようだ。
ところで、その時分のラジオのプログラムによるとこうである。
一、六時十五分──労働ニュース。
一、六時三十分──気象通報、今晩の番組。
一、六時三十五分──復員だより。
一、六時四十五分──カムカムの時間。