「ちょっとここを御覧、ほら、その足跡。蝙蝠こうもりみたいな格好をした傷がついてい
るでしょう。それは土のぐあいでそうなったのかな。それとも靴の裏にそんな傷がついて
いるのかな」
「ああ、なるほど、その足跡は右ですね。ちょっと待ってください」
耕助も身をかがめて、踏みにじられた足跡のなかから右の靴跡を探していたが、
「清水さん、それはやっぱり靴の裏についた傷らしいですよ。ほら、そこにもここにも
──」
なるほど、耕助の指さすところを見ると、右の靴跡には濃淡の差こそあれ、どれにも蝙
蝠のような格好をした傷跡が、爪つま先さきのところについていた。
「ふうむ、すると犯人のはいてる右の靴の裏には、こういう傷がついてるんですな。い
や、こういう靴をはいたやつこそ犯人なんですな。ふむふむ、これはなによりの証拠です
て」
清水さんは自分の発見に大満足の体ていだったが、そのときなのである。金田一耕助が
はじかれたようにぎくっと身を起こしたのは。──その反射運動があまり急激だったので、
清水さんは、びっくりしたように耕助の顔を見直した。
「金田一さん、どうしなすったのかな」
しかし、耕助はそのことばも耳に入らないかのように大きくみはった眼で、じっと虚こ
空くうのある一点を見つめている。清水さんの顔には、ふいと疑いの影がかすめてとおっ
た。
「金田一さん、金田一さん、あんたどうしなすった。ひょっとするとあんたは、こういう
靴をはいた男を御存じじゃないのかな」
「ぼくが──?」
耕助はぼんやりと清水さんのほうをふりかえったが、相手の眼のなかにある疑惑の色を
見てとると、にわかに首を左右にふって、
「め、めっそうもない。そ、そんなことがあるもんですか」
「しかしあんたはいま、この靴の跡を見てひどくびっくりなすったようじゃが」
「そうじゃないんですよ、清水さん、そうじゃないのです。ぼくがいまびっくりしたの
は、──いや、その話はいずれ後にしましょう。それより外のほうを探してみようじゃあり
ませんか」
清水さんの顔には、いよいよ疑惑の色が濃くなった。耕助はその視線をさけるようにし
て、こそこそと露地から外へ出ていったが、そのときかれは、この人のいい清水さんの心
に疑惑の影を落としたままにしておくことが、後にいたっていかに重大な意味をおびてく
るか、夢にも気がついていなかったのである。もしそのことに気がついたら、かれはなん
のためらいもなく、いま発見した事実を清水さんに打ち明けたことだろう。耕助が発見し
た事実──それはこうなのである。
いま、清水さんにいわれて右の靴跡を探しているうちに耕助はふと、内へ向いた足跡の
ほうが、外へ向いた足跡より、はるかに多いことに気がついた。それのみならず、内へ向
いた足跡のなかには、たしかに外へ向いた足跡のあとから踏みつけたと思われるものさえ
あった。
と、すればこれはいったいどういうことになるのだろう。足跡の主は外からやってきて
また出ていった。そこまではよいが、この足跡でみると、それからまた引き返してきてい
るのである。さて、引き返してきた男は、それからどこへ行ったのだろう。二度出ていっ
た足跡がない以上、そいつは庫く裏りのなかへ入っていったことになる。そして。──
と、そこまで考えてきたとたん、耕助の頭にさっとひらめいたのは、ゆうべ梅の古木を
とりまいて立っていたときの、和尚の妙な素振りである。あのとき和尚は禅堂のほうを向
いて立っていたが、なにに驚いたのか、不意にからんと音をたてて重い如によ意いを取り
落とした。如意を拾いあげるときも、和尚の指先はひどくふるえているようであった。
ひょっとするとあのとき和尚は、禅堂のなかに何者かが──すなわち犯人が、いることに気
がついたのではあるまいか。