「ああ、どうぞ。……でも静かにしてくださいね。伯父さま、よく寝ていらっしゃいます
から」
「ああ、ふむ、よう心得とる」
和尚は早苗のあとについて渡り廊下をわたっていく。清水さんがそれにつづこうとする
と、耕助がぐいっと肘ひじをとって引きもどし、なにごとか耳のそばでささやいた。それ
をきくと清水さんはびっくりしたように眼をみはり、あわてて渡り廊下のしたをのぞい
た。
「じゃ……お願いしましたよ」
耕助は清水さんをそこに残したまま、ひとりで渡り廊下をわたっていった。渡り廊下が
つきると、そこで廊下は鉤かぎの手に曲がっており、それを曲がったところに与三松の座
ざ敷しき牢ろうがあった。
座敷牢、──と、こういうことばから、耕助がなにか陰惨な風景でも予期していたとした
ら、かれは失望しなければならなかっただろう。もちろん座敷いっぱいに太い格子がは
まっており、そのこと自身が陰惨であることはいなめないが、座敷のなかは思ったよりも
はるかに小ザッパリとしており、通風採光とも申し分がない、広さも十畳ぐらいはたっぷ
りあり、床の間もあるし床とこ脇わきのちがい棚だなも気がきいている。つまり廊下をへ
だてる格子さえなかったら、ふつうの──と、いうよりもむしろぜいたくな座敷であった。
おまけに、板戸をひらけばその向こうに、便所や洗面所もついているらしく、座敷牢とし
てはおそらく最上のものであろう。
与三松はその座敷牢の中央に、枕まくら屛びよう風ぶを立てて眠っていた。ひげは少し
のびているが、髪は刈ってあるし、あかもついていないし、そうして静かに眠っていると
ころを見ると、気の狂った人間のようには見えなかった。仰向きに寝ている横顔や鼻のた
かいところが、復員船のなかで死んだ千万太によく似ている。
早苗は格子のそとにぶらさがっている、うぐいす竿ざおのような長い竿をとりあげた。
その竿のさきには鉤かぎの手に曲がった金具がとりつけてあって、物をひっかけるように
できている。早苗はそれを格子のあいだから突っこむと、与三松の枕元にある盆の取っ手
にひっかけた。盆のうえには灰皿と煙草入れがのっかっている。早苗は竿をたぐって、す
るすると盆をてまえにひきよせた。格子をひらくまでもない用事のときには、彼女はいつ
もこうして用をたしているらしい。盆が格子のそばまで来ると、早苗は煙草入れをとり、
無言のまま、それを耕助にわたした。煙草入れのなかには煙草が六本、
「ついでに灰皿も……」
耕助がささやくと、早苗はすぐ灰皿をとって耕助にわたした。耕助は灰皿のなかの吸い
殻を懐紙のうえにあけながら、
「この灰皿を掃除したのは……?」
「昨日の夕方、煙草を巻いてわたすとき……」
「そのときわたした煙草は二十本ですね」
早苗はこっくりうなずいた。耕助はうれしそうにがりがり頭をかきまわしながら、
「ところが、ごらんなさい。煙草は六本、吸い殻は五つ、合計十一しかありません。それ
に……」
だが、そのときである。ふたりのささやきが耳に入ったのか、与三松がむっくり寝床の
うえに起きなおった。
「あら、伯父さま、……お眼覚めになりまして?」
「与三松さんや、気分はどうじゃな」
和尚は大きな体で耕助の姿をかくすようにした。