耕助は地じ団だん駄だをふみ、こぶしをかためてドアをたたき、あらん限りの悪態をつ
いていたが、やがてそういう自分がしだいに滑こつ稽けいになってきた。清水さんの妙な
勘ちがいが愉快になってきた。はてはおかしさがこみあげて、とうとうその場にわらいこ
ろげてしまった。
だから、それから間もなくお種さんが、晩飯を差し入れに来てくれたときにも上きげん
であった。かえってお種さんのほうが、薄気味悪く思ったくらいである。晩飯をくってし
まうと、清水さん特別のはからいであるところの寝床をのべて、ごろりと寝ころんだ。す
ると昨夜の睡眠不足も手伝って、すぐかれは深い眠りに落ちてしまった。だからその晩、
どんなことが起こったか、かれは少しも知らなかったのである。
その耕助がふと眼をさましたのは、けたたましい電話のベルをきいたからである。
「ああ、電話が通じたな」
耕助がむっくりと首をあげると、まぶしいばかりの陽の光がきらきら窓からさしこんで
いる。夜が明けて、しかも今日は上天気である。耕助はのんきらしく手足をのばして、せ
いいっぱいあくびをしたが、すぐ気がついて電話の声に耳をすました。早口になにかしゃ
べっているのは清水さんらしいが、ことばの意味はききとれなかった。やがて電話がきれ
ると、コツコツという靴音が近づいてきて、間もなく清水さんの顔がのぞき穴のむこうに
あらわれた。
「あっはっは、清水さん、ひどいよ、ひどいよ。だまし討ちは卑ひ怯きようだよ」
清水さんはむずかしい顔をして、探るように耕助の様子を見つめていたが、やがてぎご
ちなくせきをすると、
「金田一さん、あんたゆうべ、ここから出やあせんだろうな」
「ぼくがここを……? あっはっは、冗談いっちゃいけませんよ、あなたがちゃんと錠を
おろしていったのじゃありませんか。ぼくは忍術つかいじゃないから……」
だが、そこで耕助ははたと口をつぐむと、清水さんの顔を見直した。清水さんはおそろ
しく憔しよう悴すいしている。無精ひげはいつものことだが、眼がおちくぼんで血走って
いるのは、ゆうべ寝ていない証拠である。
「し、し、清水さん、な、な、なにかまたあったんじゃ……」
そのとたん、清水さんの顔が、ベソをかくようにゆがんだが、すぐガチャガチャと錠を
はずす音がきこえた。
「金田一さん。わしはあんたにすまんことをしたのかもしれん。とんでもない勘ちがいを
していたのかもしれん……」
「清水さん、そ、そんなことはどうでもいい。それよりなにが起こったのです。ど、どん
なことが持ち上がったのです」
「いっしょに来てください。来ればわかります」
駐在所を出るとふたりは分鬼頭のほうへむかった。行き交うひとびとの顔色から、なに
かまた椿ちん事じが持ち上がったらしいことが、耕助にもすぐ感じられた。分鬼頭のまえ
の坂をのぼっていくと、天てん狗ぐの鼻といって海に面した平地のあることはまえにも
いっておいた。いつか清水さんが双眼鏡で海賊の見張りをしていたところである。その岩
のうえにおおぜいひとがむらがっているのが見える。
和尚の了然さんもいる。村長の荒木さんもいる。医者の幸庵さんもいる。幸庵さんは、
どういうわけか、左腕を首からつるしている。早苗もいる。勝野さんもいる。竹蔵もい
る。了沢君もいる。それから少しはなれたところにお志保さんもいる。鵜飼君もいる。お
志保さんと鵜飼君のあいだに立っている人物は、耕助もはじめてだったが、おそらくそれ
が儀兵衛さんであろう。胡ご麻ま塩しお頭のずんぐりとした人物で、日やけした顔のなか
で太い眉まゆ毛げだけが真っ白なのが、いかにも因いん業ごうそうな印象をひとに与え
る。
だが、あの人たちはなぜあのように黙りこくっているのであろう。なにをあのようにま
じまじと見つめているのだろう。
耕助はやっと天狗の鼻までたどりついたが、そのとたん、思わずそこに立ちすくんでし
まったのである。
半円をえがいて立っているひとびとの中心に、大きく吊つり鐘がねが伏せてある。復員
して来た千光寺の吊り鐘である。寺へはこぶ途中、ここまでかつぎあげたものである。千
光寺へのぼるには、本鬼頭のまえを通るほうが近いのだが、坂はこっちのほうがゆるやか
なのである。耕助はその吊り鐘の下から、世にも恐ろしいものがはみ出しているのを見
た。振ふり袖そでなのである。
「雪枝さんの……雪枝さんの振り袖ですよ」
清水さんが汗をふきふきささやいた。
「それじゃ……それじゃ……雪枝さんはこの吊り鐘の下に……?」
だれもそれにこたえる者はない。重っくるしい無気味な沈黙のなかに、だれもかれも、
圧倒されそうな顔をしている。陽は美しくきらきらとかがやいている。海はおだやかに凪
ないでいる。微風がそよそよと一同の頰をなでる。それにもかかわらず耕助は、全身に
ねっとりした汗がふき出すのを覚え、思わずぶるると身をふるわせた。
──と、そのとき、和尚の了然さんが引導をわたすような声でつぶやいた。例によって例
のごとく和尚のくせの俳句である。
「むざんやな冑かぶとの下のきりぎりす」