「なるほど、それで関係者全部のアリバイが立証されたというわけですな」
磯川警部はいよいよもって、やりきれないというように肩をすくめた。すると、耕助が
すぐにことばをひきとって、
「いや、そういうわけではありません。ただ一人、ここにまだ、アリバイのはっきりしな
い人物があります」
「ただ一人? だれですか、それは……?」
「座敷牢のなかにいるあの気ちがい。清水さん、あの気ちがいだけは、あなたがたの関心
の外にはみ出していたんでしょう。あなたはまさかあの気ちがいを、はじめから終わりま
で、見張っていたわけじゃないでしょう」
「金田一さん」
清水さんは急に大きく息をはずませた。
「すると、あなたはあの気ちがいが……?」
「いやいや、そういうわけではありません。ぼくはただ、あらゆる可能性を考えているん
です。そして気ちがいといえども、われわれの関心から、除外したくないのです」
耕助がことばを切るとともに、シーンと凍りついたような沈黙が、ふたたび三人のあい
だに落ちこんできた。それはなんとも名状することのできない恐ろしい沈黙だった。
座敷牢をぬけ出した気ちがいが、暗い夜道を彷ほう徨こうしている姿を、清水さんは
ふっと頭に描いてみる。気ちがいの小わきには、絞め殺された雪枝の体が抱かれている。
眼もさめるばかり鮮やかな、雪枝の振ふり袖そでの色彩と、地獄の獄卒のようにドス黒
い、気ちがいの色との、歯ぎしりの出るような恐ろしい対照。──気ちがいの顔つきは、憎
悪と悪念と邪知との権ごん化げである。雪枝をかかえて気ちがいは、闇やみのなかを走り
走り走り走る。しぶく雨、吹きすさむ風、獄門島は真っ暗だ。……
「いや、たびたび話の腰を折ってすみません。それではまた、さっきのつづきをお願いし
ましょうか」
耕助の声に、清水さんははっとしたようにわれにかえった。それからいまのドスぐろ
い、地獄絵巻をふりはらうように、ブルブルと体をふるわせると、はげしく瞬またたきを
しながら、
「ああ、いや、失礼しました。つい考えごとをしていたものですから。……さあてと、つ
まりそういうわけでわれわれは、明け方ごろまで、まんじりともしないで、本鬼頭の奥座
敷に座っていたんですが、そのうちにとうとう夜が明けて、東が白んできたので、分鬼頭
の三人がかえっていったのです。ええ、そのときにはまだ残り雨が霧のようにしょぼしょ
ぼ降っていましたよ。ところが、本鬼頭を出ていった三人は、すぐまた顔色かえて引きか
えしてきたんです。吊り鐘の下から、娘の振り袖がはみ出している!……と、そういうわ
けでわれわれは、びっくりしてあそこへ駆けつけていったというわけで。……と、これ
が、つまり、昨夜から今朝へかけてのわたしの経験した出来事のいっさいなんで。……」
清水さんはそこまで語ると、まるで鯨くじらが潮を吐くように、フーッと長いため息を
ついた。それはまるで、腹の底にたまっていた、昨夜からの夢魔のかたまりを、いっきに
吐き出すような調子であった。
「なるほど、ところで分鬼頭の三人だがね、ひょっとすると、そのとき、死体を吊り鐘の
なかへ押しこんだのじゃないのかね。そうしておいてもどってくる……」
「いや、それはおそらく不可能でしょう。本鬼頭を出ていってから、ひっかえしてくるま
では、実に短い時間だったんですからね。とてもその間に、吊り鐘を持ちあげたり、死骸
を押しこんだりすることはできません。それにその時分は、相当明るくなっていました
し、あそこは海からも入り江からもまる見えなんです。漁師というやつは朝の早いもので
すから、うっかり、そんなことをしていたら、いつなんどき、だれに見つからないもので
もありません。まあ、それは大丈夫でしょう」
警部はそこでまたウーンとうなったが、県の刑事課から、第二のランチがやってきたの
は、それから間もなくのことであった。こんど着いたランチには、刑事課嘱託の木下博士
とその助手や、鑑識の連中が乗っていた。死し骸がいは現場で解剖されるのである。