「おばさん、どうしました。幸庵さん、なにかあったんですか」
「わしゃ知らん、お勝つぁんにゆり起こされて眼がさめたが、なにを言うているのかさっ
ぱりわからん」
幸庵さんはきょとんとした顔で、あきれたようにお勝さんを見つめている。山羊ひげの
さきをよだれがだらしなく伝うている。
「お勝さん、しっかりしねえか。なにがどうしたというんだよ。えっ、猫……? 猫がど
うしたというんだ。おいおい、お勝さん、いい加減にしねえか。こっちは、こんなに心配
してるんだ。猫どころじゃねえやな。なになに奥の座ざ敷しき牢ろう……気ちがいがいね
えと」
一同は、ぎょっとしたように顔を見合わせた。了沢君の蒼あお黒ぐろい顔がいよいよ蒼
黒くなった。
「おい、まあちゃん、銀さん、おまえたち奥へいって、ちょっと座敷牢を見てこい。座敷
牢……知ってるだろう」
二人の若者はすぐ座敷から出ていった。
「お勝つぁん、なにもそれしきのことでワアワア泣くことはねえじゃねえか。よしんば気
ちがいが抜け出したにしてもよ。この陽気だ。気ちがいだってたまにゃふらふら出歩きた
くなるさ。なに、それだけじゃねえ? なにかほかにあったのか。猫……? ちっ、また
猫のことをいやあがら、猫がいったい……えっ、月代さんが奥の祈き禱とう所しよ
で……?」
了沢君と若者は、ぎょっとしたように顔を見合わせた。歯をくいしばって、シーンと黙
りこんでしまった。その耳にきこえてくるのは、リーン、リーンという鈴の音。
「おばさん、どうしたというんです。月代さんなら奥の祈禱所で鈴をふっているじゃあり
ませんか」
だが、それに対して勝野さんは、はげしく首を左右にふった。そして必死となってなに
かいおうとするらしかったが、必死となればなるほど呂ろ律れつがみだれて、ことばはい
よいよわからない。
そこへ座敷牢を見にいった二人の若者が、顔色をかえてかえってきた。
「いけねえ、座敷牢はもぬけの殻だ。気ちがいはどこにもいねえ」
「祈禱所へ行ってみましょう。祈禱所にもなにかあるにちがいない」
了沢君がいちばんに座敷からとび出した。そのあとから三人の若者もどやどやとつづい
た。幸庵さんは相変わらず狐につままれたような顔をしてきょとんとしている。勝野さん
は腰を抜かしたまま、ワアワアと泣きつづけている。
まえにもいったように祈禱所というのは、庭のおくの一段小高いところにある。神式と
も仏式ともわからないような建て方で、三方にめぐらした廊下のうちがわには、杉の戸が
半分ほどひらいている。正面の廊下には幅のひろい階きざはしがついていた。
了沢君はその階の下まで駆けつけると、
「月代さん、月代さん」
と、呼んでみた。
返事はなかったが、その代わり、リーン、リーンという鈴の音が、はずむようにきこえ
た。
「月代さん、出ておいでなさい。みんな心配しているから、いい加減に出ておいでなさ
い」
しばらく返事を待ったが、相変わらず月代の声はきこえなかった。それでいて、鈴の音
ばかりはリーン、リーンとはずんでいる。それがふうっと一同の胸に不安な影を落とし
た。
「いいから踏みこんでみましょう。なあに、かまうことはねえやな。しかられたらあやま
るだけのことさ」
若者のひとりが階段を駆けあがると、がらりと杉の戸をひらいた。
祈禱所のなかは十畳敷きぐらいである。そして正面の奥いっぱいに、高さ三尺ばかりの
ひろい壇があって、壇のうえには大小さまざまの、醜怪なかたちをした仏像が、ところせ
まきまでにおいてあり、それらの仏像のあいだには、香炉、線香立て、花はな筒づつ、燭
しよく台だい、種々雑多な鉦かねの類、いずれも古びて、くすんで、妖よう気きをおびて
いる。壇のうえにはほのぐらいお燈とう明みようがふたところ、にわかに吹きこんできた
風に、狼ろう狽ばいしたようにゆらゆらゆれている。そして室内一面、眼にしみるような
線香の煙。