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第一章 悪魔が来りて笛を吹く(5)
日期:2023-12-05 15:24  点击:295

 家を出るときの服装は、地味なグレーの背広のうえに、おなじく地味なグレーのオー

ヴァを着て、古いステットソンの中折れ帽をかぶっていた。

 家人はまさか失踪とは思わず、……と、いうよりも思いたくなかったので、二日待ち、

三日待ち、むろんそのあいだあらゆる知人親しん戚せきに手をまわして、子爵の行く方を

もとめたが、なんら得るところがなかったので、ついに四日の午後、警視庁へ保護願いを

出し、ここにはじめて悲劇の露頭が顔を出したのである。

 遺書はなかった。

 しかし、当時の子爵の様子から、自殺の公算が大きかったので、警視庁では近県各地に

わたって手配をすると同時に、翌五日の朝刊には、いっせいに子爵の写真がかかげられ

た。それがいま私の手もとにある、あのハガキ大の写真である。

 遺書がなかったので、子爵の失踪が自殺行としても、その動機は明めい瞭りようではな

かった。しかし、だいたいのことは誰にも想像することが出来た。

 子爵は激動するこの社会のなかに身を処するには、あまりにも生活力がかけていたので

ある。子爵は善良で、むしろ女性的ともいうべきほど、温厚な紳士だったそうだが、それ

だけに生活的には無能にちかい人物だったらしい。終戦までは宮内省につとめていたが、

宮内省が廃止されて、その機構が縮小されると同時に免官になった。宮内省における地位

なども、あまり芳かんばしいものではなかったらしい。

 それにその当時の家庭の環境も、子爵の失踪の動機のひとつとなっていたようだといわ

れている。

 麻あざ布ぶ六ろつ本ぽん木ぎにある子爵の邸宅は焼けなかった。しかし、焼けなかった

がために、子爵は多くの不幸を背負わねばならなかった。終戦後同じ邸内に、焼け出され

た夫人の兄、新宮子爵の一家と、同じく焼け出された夫人の伯お父じ、玉虫伯はく爵しや

くの一家が同居することになった。このことがセンシブルな椿子爵の神経には、耐えられ

なかったのであろうといわれている。

 麻布六本木の家はたしかに椿子爵の邸宅である。しかし、実際は夫人 あき子この名義に

なっていた。

 椿家というのは堂上華族で、公く卿ぎようとしてもかなりたかい家柄だそうだが、維新

以来傑物があらわれなかったと見えて、爵位はもらったものの、年々微禄していく一方で

あった。ことに英輔氏の青年時代は窮乏のどん底にあり、ほとんど子爵の体面も保ちかね

るくらいであった。そこを新宮 子との結婚によって救われたのである。

 子の里方新宮家は、大名華族だが、代々の主人が貨殖のみちにたけていたと見えて、華

族間でも有名なものもちだった。そのうえ新宮家には玉虫伯爵という大きなバックがあっ

た。玉虫伯爵は 子の母の兄にあたるが、戦前は研究会を牛耳って、貴族院のボスであっ

た。いちども大臣になったことはないが、政界には隠然たる勢力をもっていた。

 椿英輔氏はよく、自分のようなものになぜ玉虫伯爵が、可愛い姪めいをくれたのだろう

と述懐していたというが、伯爵のほうでもこの結婚には後悔していたのか、英輔氏のこと

を笛ばかり吹いている無能者と、ののしっていたそうである。

 伯爵のような脂あぶらっこい人物には、社会的な勢力に、未練も執着も持たぬ英輔氏の

ような人物は、ことごとく無能者に見えたのであろう。それでいて、自分の甥おいの新宮

利彦の、人生におよそ酒と女とゴルフしかないみたいな生活振りを見ても、あいつはさす

がにお殿様らしいと褒ほめていたというのだから、玉虫伯爵という人物が、いかに脂っこ

い人物であるかわかるだろう。

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