「そ、それじゃ殺されたというのは、玉虫もと伯爵だったのですか」
「そうですよ、金田一さん、あんたは誰だと思っていたんです」
じっさいのところ、金田一耕助にも見当がつきかねたのだけれど、美禰子の電話をきい
たせつな、いちばんに脳のう裡りにうかんだのは、 あき子こ夫人の面影だった。
写真班が死体をめぐって、さかんにフラッシュをたいている。金田一耕助はその妨げに
ならぬように、部屋のすみに身をよけながら、死体の様子を観察する。
玉虫もと伯爵は後頭部に裂傷をうけていると見えて、あの綿のように白い髪が真しん紅
くに染まっている。そして、そこから流れ出した血が、じっとりと床の絨じゆう緞たんを
そめている。しかも、死体から一メートルほど離れたところにくろずんだ仏像のようなも
のがころがっており、その仏像にも、赤黒いしみがべったりとこびりついていた。
それでは玉虫もと伯爵は、あの仏像で殴り殺されたのであろうか、いやいや、それには
疑問がある。
疑問の種というのは、玉虫もと伯爵が首にまいた襟巻きである。それは黒い絹の襟巻き
だったが、それが食い入るようにもと伯爵の細い首に巻きつき、真結びに結ばれている。
どうやら玉虫老人は、その襟巻きによって絞殺されたもののようである。
金田一耕助は仰向けにひっくりかえった玉虫もと伯爵の顔に眼をやった。するとなんと
もいえぬはげしい悪お寒かんが背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかった。玉虫老人は死
の直前に、いったいなにを見たのであろうか。かっと見開かれた両眼といい、歪ゆがんだ
まま、なかばひらいた口といい、断末魔における、なんとも名状することの出来ぬ恐怖
を、まざまざと物語っている。その昔、研究会を牛耳って、貴族院のボスといわれたこの
老ろう獪かいな政治家に、これほどまでに深刻な恐怖をあたえたのは、いったいなんで
あったろうか。
金田一耕助はそれからついで死体の状態に眼をうつす。玉虫もと伯爵は殺されるまえに
かなり抵抗したものらしく、帯がゆるんでまえがはだけ、裾すそがまくれあがって、メリ
ヤスのズボン下をはいた右脚が、太ふと股もものあたりまで露出している。そして、はだ
けた着物の胸から腹へかけて、点々として血が滴っており、足には白の夏足た袋びをはい
ているが、スリッパは両方とも、死体からかなり離れたところへ飛んでいた。
「警部さん、どうでしょう、これくらいで」
「やあ、結構結構。それじゃテーブルのうえと部屋全体を、詳細に撮とっておいてくれた
まえ」
「承知しました」
死体の撮影がおわったので、金田一耕助がそっとそばへ寄ってみると、死体のまわりに
はいちめんに砂がこぼれている。そして、その砂のうえやあいだに、点々として血が飛び
散っていた。
金田一耕助は死体の顔をのぞきこんで、
「警部さん、被害者は最初、顔面をなぐられたんですね」
「どうもそうらしい。だから着物や胸や腹を染めている血は、鼻血じゃないかと思うんだ
がね」
死体の顔の、ちょうど鼻柱のところに蒼あおい痣あざが出来ていた。
「しかし、それにしちゃ顔に血がついていないのは不思議ですね」
「拭ふきとったらしいんですよ。ほら、見たまえ。あそこにハンケチが落ちている」
警部の指さすところを見ると、ひっくりかえった椅子の下に、真紅に染まったハンケチ
が、丸くまるめて放り出してあった。
金田一耕助は眼をまるくして、
「拭きとったって誰が……」
「さあ、それは誰だかわからない。犯人がやったとすれば、なんのためにそんなことを
やったのかわからないが、しかし、とにかく血を拭きとろうとしたことはたしかですよ。
ほら、ごらん、着物についてる血なども、拭きとろうとしたようになすった跡がある」
そういわれてみればそのとおりであった。