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第十三章 金田一耕助西へ行く(4)
日期:2023-12-06 14:55  点击:235

「はあ、この本がどうかしましたか」

「先生」

 美禰子は言葉に力をこめて、

「この本はこの春、あたしの机のまわりにおいてあったんです。それをなにも知らずに書

庫のなかへしまってしまったんですけれど、父がまさか、書庫にしまってある本に、遺書

をはさんでおくとは思われませんわね。そんなことしたら、たくさんある御本ですもの、

いつあたしの眼につくかわかりませんもの。だから、父がこの遺書を、『ウィルヘルム・

マイステル』の下巻のあいだにはさんだのは、きっとこれがまだ、あたくしの机のまわり

においてあった時分のことにちがいございません。そういえばこの本は、父のすすめに

よって、この春あたしが読みはじめたものなんです」

「なるほど、なるほど、そうですか。しかし、それが……」

「それですから、先生、問題はこの本がいつお蔵の書庫へしまわれたかということなんで

す。あたし、いままでついうっかりしていたんですけれど、昨日、あんな事件が起こった

ものですから、もう一度父が失踪した当時のことを調べてみようと思って、自分の日記を

ひっくりかえして見たんです。すると先生」

 と、美禰子はまたハンドバッグのなかから、一冊の本を取り出した。それは赤い表紙の

婦人用の日記であった。

「先生、ここのところを御覧下さい」

 ふるえる指で美禰子が指さしたところを見ると、二月二十日の項に、

 ──午前中に『ウィルヘルム・マイステル』読了。

 ──午後、思い立って机のまわりを整理。読みおわった本などを書庫にしまう。

 と、美しい紫インクで書いてある。

「なるほど、するとこの本が書庫へしまわれたのは二月二十日、したがって、お父さんが

遺書を本のあいだにはさんでおかれたのは、それよりまえということになりますね」

「そうなんです。ところが先生。父が天銀堂の容疑で、はじめて警視庁へひっぱられたの

が、やはり二月二十日のことなんです」

 美禰子の焦こげつくような視線をまともに浴びて、金田一耕助はしばらくぽかんとして

いたが、急にぎょっと大きく眼を瞠みはると、思わず、ちゃぶ台のうえから乗り出した。

「な、な、なんですって。す、す、すると、お父さんは天銀堂事件の嫌疑をうけるまえ

に、すでに、自殺の決心をしていたとおっしゃるんですか」

「先生!」

「す、す、すると、お父さんが自殺を決意されたのは、天銀堂事件のせいではなかったん

ですね」

「そうなんです。先生、この遺書が本のあいだにはさまれた日から考えると、そういうこ

とになるんですわ。父は天銀堂事件のために自殺したわけではなく、むしろ、天銀堂事件

は父の自殺を、逆に十日ほどおくらせたことになるんです」

 美禰子の眼はみるみるうちに濡ぬれてくる。彼女はその涙を拭ぬぐおうともせず、

「その日記によると、あたしはこの本を、二十日の午前中に読みあげたことになっており

ます。だから、父が遺書を本のあいだにはさんだのは、きっとその午後、あたしがこれを

書庫にしまうまでの間だったにちがいございません。父はそれからすぐに自殺行に旅立つ

つもりだったのでしょう。ところがそこへ警察のひとがきて、父を引っ張っていってし

まったものですから、そのため三月一日まで自殺行がおくれたのでしょう。なにがなんで

も天銀堂事件の容疑を背負ったままで死にたくなかったので、父はきっと、それが晴れる

のを待っていたんでしょう」

 金田一耕助の胸は嵐あらしにもまれる小舟のように波打っている。この発見は美禰子に

とって、はげしいショックであったと同様、金田一耕助にとっても大きな驚きだった。

「それじゃ、お父さんが自殺を決意されたのは、天銀堂事件のせいではなく、ほかに動機

があったんですね」

「ええ、そういうことになります。父には天銀堂事件がなくても、自殺する動機はいくら

でもあったでしょうが、ただ、わからないのはその遺書なんです。父はこれ以上の屈辱、

不名誉に耐えていくことは出来ない。由緒ある椿の家名も、これが暴露されると泥沼のな

かへ落ちてしまう。先生、あたしはこの屈辱、不名誉、暴露すると椿の家名を泥沼におと

してしまうという秘密、──それを、父が天銀堂事件の容疑者と目されたことだとばかり

思っていたんです。しかし、この遺書が、天銀堂事件の容疑で引っ張られるまえに書かれ

たということになると、そうでないことになります。先生、父がそんなに恐れていた屈

辱、不名誉、椿の家名を泥沼におとしいれてしまうような事実……そのために、父を絶望

させ、自殺に追いやった秘密というのは、いったい、どんなことなんでしょう」

 金田一耕助は、鮨すし詰づめの二等車のなかで、ウィッチのように黯くろずんで歪ゆが

んだ美禰子の顔を思い出す。美禰子のからだを包んで、ゆらゆらと立ちのぼる冷たい鬼気

が、まだ自分のからだのどこかにしみついているような感じであった。

 金田一耕助が今度の旅行を思い立ったのはひとつは、そのためであった。

 一月十四日から十七日へかけての、椿子爵の謎なぞの旅行。

(もし、それが真実の椿子爵であったとしたら)──そこにこそ、すべての謎の鍵かぎが秘

められているのではないかと思われたからである。

 汽車はいま真っ暗な夜の闇やみをついて、西へ西へと走っている。

 喧けん騒そうをきわめる闇商人や買い出し部隊もどうやら、思い思いに寝しずまったよ

うだ。それらのいかがわしい人物にまじって、金田一耕助と出川刑事は、いま重大な使命

を秘めて西へ走っているのだが、もうひとり同じ列車にこの事件に大きな関係を持つ人物

が乗りこんでいようとは、さすがの耕助も夢にも気がつかなかったのである。

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