「まあまあ、警部さん、出来たことはしかたがない。秌子は逃げもかくれもしやあせん。そ
れより、ひとつ、どうじゃな」
目賀博士のついで出すグラスをとって、警部は、無意識にのんでいる。その警部の視線
のさきには、三島東太郎が立ったまま、せっせとサンドウィッチを頰ほお張ばっている。
ふいに警部がウィスキーにむせた。あわててグラスを下におき、はげしく咳せきこんで
いたが、やっとそれがおさまると、東太郎にむかって何かいいかけたが、そのせつな、金
田一耕助がすばやく口をはさんだ。
「ああ、ときに菊江さん、さっきの話ですがね。ひとつ、つぎを聞かせてください。秌子奥
さまは、どうしてきゃっとおっしゃったんですか」
「えっ?」
警部はぎょっとしたように、金田一耕助の顔をふりかえる。それに対して耕助は、手み
じかに事情を語ると、
「そういうわけで、秌子奥さまがなぜだしぬけに、きゃっとさけばれたか、それをこれから
お伺いしようというわけです。菊江さん、ひとつ、そのときの模様を話してくださいませ
んか」
菊江はいくらか蒼あお白じろんだ顔色で一同の顔を見まわしていたが、ちょっと眉をあ
げると、
「ええ、お話ししますわ。でも、あたしにも秌子奥さまが、なぜあのようにびっくりなさい
ましたのか、なにをあのように怯おびえられたのか、その理由はわかりませんのよ」
「そ、そんなにひどく秌子奥さまは怯えられたんですか」
「ええ、とっても。あたしにはそう見えましたけれど、華子奥さまや美禰子さんは、どう
いうふうにお感じでしたかしら」
「あたしも、母があんなに怯えるのを、見たことはございません」
言下に美禰子がキッパリいって、さぐるように、目賀博士の顔を見る。
「なるほど、なるほど」
金田一耕助はがりがり頭をかきまわしながら、
「それじゃ、そのときの模様を、詳しく話してみてください。いったい、どういうきっか
けで、秌子奥さまが、そんなにひどく怯えられたか。──」
「どういうきっかけって、とにかく秌子奥さまは、いちど、今日御出発なさることをお諦あ
きらめになったんです。そこで、みんなして、ここでお茶をのんでたんですわ。三時半ご
ろでしたので。──秌子奥さまはそのときそのソファ──」
と、部屋の中央の少し窓よりにあるソファを指さしながら、
「そのソファに、お信し乃のさんとならんで坐すわってらっしゃいました。あたしたち
は、めいめい勝手なところに席をしめていたんです。ところがだしぬけに秌子奥さまが、
あっというような、それこそ、とても深刻な声をお立てになったんです。あたしびっくり
して、奥さまのほうをふりかえると、奥さまはまるでなにかに取り憑つかれたような眼つ
きで、目賀博士を見ていらっしゃいました」
「いや、あれはなにもわしを見て……」
「先生、ちょっと。……とにかく菊江さんの話を聞かせてください。それから……?」
「ええ、あたしにも奥さまが、何を見ていらしたのか、はっきりわかりません。しかし、
少なくともその視線は目賀先生にむけられていたんです。奥さまの御様子があまりおかし
かったので、一瞬、あたしどもは呼吸をつめて、奥さまのお顔を見ていました。すると、
突然、奥さまがきゃっとさけんで、お信乃さんの胸に縋すがりついて……そのとき、うし
ろ手に目賀先生を指さしながら、お信乃、お信乃、悪魔……と、そうおっしゃったように
聞こえたんですけれど。……」
「ええ、あたしもはっきりそう聞きました」
美禰子がまたキッパリといいきった。