「それはね、美禰子さん、お父さんの遺書がはさんであった、ウィルヘルム・マイステル
のおかげですよ」
「ウィルヘルム・マイステル──?」
美禰子は、はっと顔色を動かした。
「そう、おわかりになったでしょう。あのなかにお互いにそれと知らずに兄と妹が恋にお
ちて、子供が出来て、三人それぞれ不幸な境遇に落ちていく遺族のことが書いてあるで
しょう。私はお父様の性格を考えて、あの当時のお父様の言動には、何かしら、すべて含
みがあるのだと解したのです。したがってマイステルをあなたにすすめたことについて
も、そこに何か意味があるのじゃないか──と、読んでいくうちにあのショッキングなロマ
ンスにぶつかったんですね。それにまあ、その他いろいろな事情を綜そう合ごうして、三
島東太郎即ち河村治雄なる人物は、一彦君と兄弟であると同時に、あなたの兄妹でもある
のじゃないかと考えたわけです。しかし、もうその話はよしましょう」
「ええ、よしましょう。金田一先生、有難うございました」
不思議なことに、こういう暗い事実を知らされたあとだったにもかかわらず、美禰子の
身辺からは、最初金田一耕助を訪ねて来たときのような、あのいまわしい、黒い陽炎かげ
ろうは消えていた。──
ところで、三島東太郎即ち河村治雄はどうしたのであろうか。
それをお話しするためには、筆者がわざと途中でうち切っておいた、第二十八章火焰太
鼓の出現の項を、もう少し語りつづけなければならぬ。
三島東太郎は一切の犯行を自認したのち、一彦のほうへ向きなおってこういった。
「一彦、その一番下積みになっている、スーツケースを開いておくれ。そのなかに、黄金
のフルートが入っているはずだから」
一彦は金田一耕助と等々力警部の顔色をうかがったのち、東太郎に示されたスーツケー
スのなかから、黄金のフルートを取り出した。
東太郎はそのフルートを受け取ると、手袋をぬいで、
「金田一先生」
と、耕助のほうへ向きなおった。
「あなたはなぜ、『悪魔が来りて笛を吹く』のあの曲を誰かに──一彦にでも吹いてもらわ
なかったのです。もし、それを吹奏するところを御覧になったら、椿子爵のいう悪魔とは
なにびとであったか、一目瞭りよう然ぜんだったはずなんです。ひとつ私が吹いて見ます
から、よく指の動きを見ていてください」
東太郎はフルートの歌口に口をあてると、やがて、あの恐ろしい曲を吹奏しはじめた。
それこそ、一世を震しん撼かんさせた、この陰惨な大事件の終幕を飾るには、もっとも
適切な伴奏だったろう。
しめきった、ほの暗い応接室のなかに、あの呪のろいと憎しみにみちみちた、物狂わし
い曲が、しだいに調子をたかめていったとき、ひとびとは幾度か眼にした、血みどろの死
体よりもまだ恐ろしい、凄せい然ぜんたる鬼気にうたれずにはいられなかった。
だが、そのとき、金田一耕助の胸をはげしく打ったのはそのことではなかったのだ。
曲がすすみ、なかばに達し、さらに終わりに近づいていくというのに、半分失われた東
太郎の中指と薬指は、まだ一度も使われないのだ。
金田一耕助はとつぜん、真赤に焼けた鉄てつ串ぐしを、脳天からぶちこまれたような
ショックをかんじた。
ああ、それでは「悪魔が来りて笛を吹く」という曲は、右手の中指と薬指を使わなくて
もすむように作曲されていたのか。椿子し爵しやくはそれによって、悪魔とは何者である
かを暗示していたのか。
驚きのあまり、耕助が何かいおうとした瞬間、三島東太郎は黄金のフルートを口に当て
たまま、朽ち木を倒すように床に倒れた。
相棒の飯尾豊三郎が天銀堂で使った薬で、みずからの生命を断ったのである。
こうして、椿家を突如訪れた悪魔は、笛を吹き終わると同時に、この世から去っていっ
たのであった。