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睡れる花嫁 二 (2)
日期:2023-12-14 13:46  点击:301

「おい、こないか」

 相手のそばへ立ちよって、その手をとろうとした山内巡査は、どうしたのか、突然、

「ううむ!」

 と、低い、鋭いうめきをあげると、そのまま骨を抜かれたように、くたくたとその場に

くずれていった。見ると、樋口邦彦と名のる男の右手には、血に染まった鋭い刃物が握ら

れている。

 黒眼鏡の男は相手が倒れるのを見ると、ひらりとその上を飛びこえて、そのまま闇やみ

のなかを逃げていく。

 山内巡査は腰のピストルに手をやったが、もうそれを取り上げる気力もなかった。

 あのアトリエの隣家(と、いってもまえにもいったとおり百メートル以上も離れている

のだが)に住む、村上章三という人物が、その場に通りかかったのは、それから五分ほど

のちのことである。

 村上氏は門柱のそばに落ちている懐中電灯の光に眼をとめて、不思議に思って立ちよっ

てきた。そして、そこに血ち糊のりのなかにのたうちまわっている山内巡査を発見したの

だ。

 さいわい、村上氏のうちには電話があったので、ただちにこの由が警察へ報告され、係

官が大勢どやどやと駆けつけてきた。山内巡査の体はすぐにもよりの病院へかつぎこまれ

たが、そのころにはまだ山内巡査の生命もあり、意識もわりにはっきりしていたので、樋

口邦彦なる人物を、職務訊問した顚末が虫の息のうちにも語られた。山内巡査はそれを語

り終わって、不幸な生涯をとじたのである。

 そこでただちにこの由が警視庁へ報告され、警視庁から全都にわたって、樋口邦彦の指

名手配がおこなわれたが、いっぽう例のアトリエは、S署の捜査主任井川警部補と、二、

三の刑事によって取り調べられた。そして、そこに世にも驚くべき事実が発見されたので

ある。

 いったい、建物というものは、住むひとがないと、かえっていっそう荒廃するものだ

が、そのアトリエも御多分にもれず、ものすごいほどの荒れようだった。雨もりが激しい

らしく、したがって床のある部分はぼろぼろに腐ふ朽きゆうしていて、うっかり脚を踏み

こもうものなら、そのままめりこんでしまうおそれがあった。蜘く蛛もの巣が一面に張り

めぐらされ、壁土はほとんど剝はげ落ちていた。

 井川警部補と三人の刑事は、順にかかる蜘蛛の巣を、気味悪そうに払いのけながら、懐

中電灯をふりかざして、このアトリエのなかへ入っていったが、突然、刑事のひとりが、

「あっ、主任さん、あんなところに屛びよう風ぶが張りめぐらしてある!」

 と、叫びながら懐中電灯の光を向けた。

 見ればなるほど、アトリエのいちばん奥まったところに、屛風が向こうむきに張りめぐ

らしてある。

 この荒廃したアトリエと、日本風の屛風。この奇妙な取り合わせが、警部補や刑事に一

種異様な戦せん慄りつをもたらした。一同はぎょっとしたように、しばらく顔を見合わせ

ていたが、

「よし、いってみよう」

 と、警部補は先頭に立って、屛風の背後へ近よると、その向こうがわへ懐中電灯の光を

さし向けたが、そのとたん、

「ううむ!」

 と、鋭くうめいて、はちきれんばかりに眼をみはった。

 屛風の向こうには、いささか古びてはいるけれど、眼もあやなちりめんの夜具が敷いて

あり、夜具のなかには高島田に結った女が、塗り枕まくらをして眠っている……。

 いや、いや、それは眠っているのではない。死んでいるのだ。しかも、死後そうとう

たっているらしいことは、そこから発する異様な臭気から察しられる。女は紅べに白おし

粉ろいも濃厚に、厚化粧をしているけれど、顔のかたちは、はやいくらかくずれかけてい

る。

「畜生!」

 井川警部補はするどく口のうちで舌打ちした。

 樋口邦彦という男が、かつてこのアトリエのなかで、どんなことをしたか知っている警

部補は、今夜ここから逃げ出したその男が、腐乱しかけたこの女の死体に、いったいなに

をしかけたのか、想像できるような気がするのだ。

 警部補はなんともいえぬいまわしい戦慄を感じながら、金屛風のまえに横たわった、花

嫁すがたの女の死体をみつめていたが、そのとき、突然刑事のひとりが、しゃがれた声で

注意した。

「主任さん、主任さん、こりゃ、あの女ですぜ。ほら手配のあった写真の女……天てん命

めい堂どう病院から盗まれた死体の女……」

 井川警部補はそれを聞くと、さらにはちきれんばかりに眼をみはって、女の顔を見つめ

ていたが、

「ううむ!」

 と、またもや鋭くうめいた。

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