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睡れる花嫁 三
日期:2023-12-14 13:47  点击:241
 渋谷道玄坂付近に、天命堂という病院がある。そこの三等病室に入院していた河こう野
の朝あさ子こという女が、十一月二日の正午ごろに死亡した。
 病気は結核で、そうとう長い病歴をもっていたが、天命堂病院で気胸の手術を受けてい
たのがかえって悪かったらしく、にわかに病勢が悪化して、半月ほどの入院ののち、とう
とういけなくなったのである。
 河野朝子は渋谷にあるブルー・テープという、あんまりはやらないバーの女給だった。
いや、女給というより、ブルー・テープを張り店にして、客をあさる時間外の稼か業ぎよ
うのほうが、本職のような女であった。
 彼女には東京に親しん戚せきがなかったので、ブルー・テープのマダム水木加か奈な子
こがその亡なき骸がらを、引き取ることになっていた。加奈子はお店へ亡骸を引き取っ
て、形ばかりでもお葬とむらいを出してやるつもりだといっていた。
 ところがその死体について妙なことが起こったのだ。
 病院では死体移管の手続きを終わって、ブルー・テープから受け取りにくるのを待って
いたが、すると、二日の夜おそく、加奈子の使いのものだと称して、男がひとりやってき
た。
 その男は中肉中骨で、鳥打帽子をまぶかにかぶり、大きな黒眼鏡をかけ、風邪でもひい
ているのか大きなマスクをかけていた。その上に外套の襟をふかぶかと立てているので、
顔はほとんどというより、全然わからなかった。
 その男は事務室へ、水木加奈子の手紙を差し出した。文面はこのひとに、河野朝子の死
体をわたしてほしいというのだが、この手紙はのちに加奈子の筆跡と比較された。そし
て、それが全然違っており、贋にせ手紙であることが立証された。
 しかし、病院ではそんなこととは気がつかなかった。まさか死体を盗んでいこうなどと
いう、ものずきな人間があろうとは思わなかったのだ。
 ただ、あとになって、死体引き渡しに立ち会った山本医師と沢村看護婦の語るところに
よると、
「そういえば、病室へ入っても帽子もとらず外套も脱がず、失敬なやつだと思っていまし
た。それにほとんど口もきかず、こちらが型どおりおくやみを述べるとただうなずくだけ
で、冷淡なやつだと思っていましたが、まさか死体泥棒だったとは……」
「わたしも、死体が盗まれたとわかってから気がついたんですが、なんとなく陰気なひと
で、ゾーッとするような印象でしたね。病室から死体運搬車で玄関まで死体を運んだんで
すが、そのあいだもひとことも口をきかずに……そうそう、左の脚が悪いらしく、少し跛
びつこをひいていたようです」
 その男は玄関まで死体を運んでもらうと、雑役夫にたのんで、死体を表に待たせておい
た自動車へ運びこませた。そして、みずから運転して立ち去ったというが、だれもこれが
贋使者と知らないから、車体番号に注意を払うものもなかった。
 ところが、この自動車が立ち去ってから、一時間ほどのちのことである。
 水木加奈子の代理のものから電話がかかって、今夜は都合が悪いから、死体の受け取り
は明日にしてほしいといってきたから、病院でもへんに思った。
 そこで、さっき使いのものがやってきたので、死体をわたしたと話すと、電話口へ出た
水木加奈子の代理の女は、ひどく驚いたらしかった。
 そんなはずはない、ママは今夜、自分で受け取りにいくつもりだったが、宵よいから胃
い痙けい攣れんを起こして苦しんでいるので、使いなどを出した覚えはないといいはっ
た。そこでさんざん押し問答をしたすえ、それじゃ、ともかくママと相談して、誰かが出
向いていくからと、代理の女は電話を切った。
 それから半時間ほどたって、水木加奈子の養女しげると、死んだ朝子の朋輩原田由美子
というふたりの女が、天命堂病院へ駆けつけてきたが、やっぱり加奈子に使いを出した覚
えはないと聞いて、病院でも驚いた。
 試ためしに使いの持ってきた手紙を見せると、ふたりとも言下に加奈子の筆跡ではない
と否定した。それから騒ぎが大きくなって、警視庁から等々力警部が出張し、病院の関係
者はいうにおよばず、ブルー・テープのマダム水木加奈子、加奈子の養女しげる、さらに
通い女給の原田由美子が取り調べられたが、死体泥棒の正体については、だれもこれと
いった証言を提供することはできなかった。
 その日も、ブルー・テープは平常どおり開業しており、客もそうとうあったが、それら
の客のなかには、朝子の死体が今夜おそく帰ってくることを、しげるや由美子から聞いて
いったものもあるというから、あるいはそれらの客のうちのだれかが悪戯いたずらをした
のかもしれなかった。しかし、だれも左脚が不自由で、跛をひいている男に、心当たりは
ないという。
 マダムの加奈子は、十時ごろには死体を引き取りにいくつもりだったが、その一時間ほ
どまえから胃痙攣が激しくなったので、店のほうはしげると由美子にまかせておいて、自
分は離れになっている寝室へしりぞいた。ところが、いつまでたっても胃の痛みが去らな
いので、あまり病院を待たせてもと、十一時ごろ、養女のしげるに電話をかけさせたのだ
という。
 これが二日の夜の出来事で、それ以来、警察のやっきとなった捜索にもかかわらず、杳
ようとしてわからなかった朝子の死体が、はからずもS町のいわくつきのアトリエから発
見されたのである。しかも、世にもあさましい睡れる花嫁として……。
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