「いやあ……」
と、金田一耕助が寝床のうえから半身起して、ショボショボとした眼で笑ってみせる
と、
「それじゃ、警部さん」
「ああ、そう」
と、磯川警部が障子をしめると、やがてふたりの足音があわただしく、離れの縁側から
渡り廊下のほうへ遠ざかっていった。
いったい何事が起ったのか──と、金田一耕助が枕まくら下もとにおいた腕時計をみると
もう二時を過ぎている。
耳をすますともなく聞き耳を立てていると、ひろい宿のむこうのほうで、なにかしら、
ただならぬ気配がしている。宿のすぐうしろを谿けい流りゆうが流れているのだが、上流
のほうで雨でもあったのか、今夜はひとしお岩を嚙かむ谿流の音が騒々しいようだ。
なにか事件があったとすると、それは宿のものか、それとも泊りの客か、いや、そうそ
う、宿の隠居のお柳さまというのが、半身不随でながく寝ているということだが、そのひ
とになにかまちがいでも起ったのではないか。たしかさっきの磯川警部と貞二君との立話
のなかに、お柳さまという名が出たようだが……
と、そんなことを考えているうちに、金田一耕助はハッとさっき見た異様な情景を思い
出した。
そうだ、ひょっとするとこの騒ぎは、さっきじぶんが目撃した、あの異様な光景となに
か関係があるのではないか。……
それは一時間ほどまえのことだった。金田一耕助は便意を催して、寝床を出て廁かわや
へいった。磯川警部はよく眠っていた。金田一耕助は廁に立って、いい気持ちで用を足し
ながら、なにげなく廁の窓から外をみていた。
今こ宵よいは仲ちゆう秋しゆう名めい月げつのうえに、空には一点の雲もなく、廁の外
には谿流をこえて、奇岩奇樹が直昼のような鮮かさでくっきりとした影をおとしていた。
眉まゆにせまる対岸の峰々も、はっきりと明暗の隈くまをつくりわけてそそり立ってい
る。眼をおとすと、宿の下を流れる谿流が、月の光にはてしない銀ぎん鱗りんをおどらせ
て、そこからほのじろい蒸気がもうもうと立ちのぼっている。
名月にふもとの霧や田のけむり
柄にもなく金田一耕助はふと芭蕉の句を思い出したりした。
あれはたしか芭蕉の紀行文にあった句だが、いったいどこへの旅のおりの句だったか──
と、ぼんやりそんなことを考えながら用を足していると、忽こつ然ぜんとして、この静寂
な俳句の世界へわりこんできた人物があった。
おや……?
と、用をおわった金田一耕助が身を乗りだすようにして瞳をこらすと、いま眼前にあら
われたのは女であった。
年齢は二十六、七であろう。
髪を地味な束そく髪はつに結って、フランネルのようなかんじのする寝間着を着てい
る。月光のせいで、その寝間着がまっしろに見えた。いや、まっしろにみえたのは寝間着
ばかりではない。髪も手も素足も(その女ははだしだった)……髪の毛さえも、白いとい
うより銀色にかがやいていた。
それにしてもいまじぶん、若い女がどこへいくのだろう。……
金田一耕助はふしぎそうに、女の動きを眼でおっていたが、そのうちにハッとあること
に気がついた。そして、にわかに興味を催したのだ。
その女のあるきかたに、尋常でないものがあるのに気がついたからである。まるで雲を
踏むような歩きかただった。顔を少しうしろに反らし、両手をまっすぐに側面に垂れ、わ
き眼もふらずにひょうひょうとして歩いていく。その歩きかたにどこか非人間的な匂にお
いがあった。