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第一章 汝夜歩くなかれ--八千代と守衛(1)
日期:2023-12-19 16:21  点击:260

八千代と守衛

 お柳さまの頭には、そのときどんな考えがやどっていたのだろう。われわれがふりかえ

ると、彼女はつと眼をそらして、池のほうへむき直った。池のふちでは仙石鉄之進が、源

造にたすけられて、よたよた這はいあがって来るところであった。しかし、お柳さまの眼

は、そういう浅間しい愛人のすがたを見ているのではない。彼女はあきらかに眼のすみか

ら、まじまじとわれわれの様子をうかがっているのである。その美しい横顔に、ふいと謎

なぞのような微笑がひろがっていく。なんとなくそれは、みだらな、好色らしい印象をひ

とにあたえる微笑であった。

「おい、いこう」

 突然、あらっぽく直記は私の腕をつかまえると、

「あの牝め狐ぎつねめが……」

 と、吐き出すように呟つぶやいた。

 お柳さまのすがたを尻しり眼めに見ながら、日本座敷の角をまがると、ふいにピアノの

音がたかくなった。

 考えてみるとこのピアノは、庭へとふみこんで来たときから聞こえているのである。こ

とに木の根につまずいて仰向けざまにひっくりかえった蜂屋のうえから、さっと日本刀が

ふりおろされた瞬間、爆発するように高くなって、座敷中をひっかきまわしたのをおぼえ

ている。そのピアノの音はいま静かな呟きとためいきに変わっている。

 わたしたちがポーチから入っていくと、女がひとり、こちらに横顔を見せて、ピアノを

ひいていたが、その横顔があまりにもお柳さまによく似ているので驚いた。むろんお柳さ

まは古風である。まるで歌か舞ぶ伎き芝居に出て来る御ご後こう室しつといった恰かつ好

こうをしている。それに反して八千代さんはあくまで尖せん端たん的だ。髪をアップにし

て、真まっ紅かな花をさしている。眉まゆをながくひいて、横向きになっていると、睫ま

つ毛げがびっくりするほど長い。唇をまっかに塗って、アフタヌーンも燃えるように赤

い。よほど赤という色が好きと見えて、スリッパまで真っ赤である。

 しかし、それでいて彼女とお柳さまの相似はおおうべくもない。思うに八千代さんの生

地はお柳さまと同じく、古風な純日本式の顔立ちなのだろう。それを巧みな化粧によっ

て、近代的な感覚にもりあげているのだろう。『花』の事件が起こった際、ある証人は彼

女を古風な美人だといい、ある証人はまた彼女を毒々しいまでに近代的な美人だったと、

正反対の証言をしたのも無理はない。見るひとによってどちらともとれるのが八千代さん

の顔であり、そこに彼女の化粧の魔術があるのだろう。

 さて、われわれが部屋へ入っていくと、そこにもうひとり男のいるのに気がついた。そ

の男はこちらに背を向け、ピアノによりかかるようにして八千代さんの顔をのぞきこんで

いる。おりおりその男がなにか囁ささやいているらしく、八千代さんはうっとりした眼で

微笑する。その笑顔までがお柳さまにそっくりだった。

 私はうしろ姿からして、てっきりその男を蜂屋小市だとばかり思っていた。その男も小

市と同じような姿だし、それに服装などもほとんど小市とかわらなかった。私は小市に対

して、嫉ねたましさといまいましさがこみあげて来るのをどうすることも出来なかった。

 直記は眉をひそめ、一種異様な眼まな差ざしで男女ふたりのこの活人画を見守ってい

た。私はいまでもそのときの直記の眼差しをありありと思い浮かべることが出来るのだ

が、するとゾクリと冷たい戦せん慄りつが、背筋をつらぬいて走るのを禁ずることが出来

ないのだ。あのとき、かれはいったい何を考えていたのだろう。あの熱っぽい、ギラギラ

光る眼光は、いったい何を意味していたのだろう。それはふいと心をかすめてとおった疑

惑のあらわれだったろうか。

 それとも軽けい蔑べつと嘲ちよう笑しようだったろうか。いやいや、ひょっとするとか

れもまた、私と同じような嫉しつ妬とに胸をかまれていたのではあるまいか。

 だが。……

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