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第一章 汝夜歩くなかれ--八千代と守衛(2)
日期:2023-12-19 16:22  点击:280

 直記はふと私の視線に気がつくと、あわてて、はげしく瞬きをし、それからぐいと顔を

そむけた。そして煙草を出して口にくわえると、ライターを出してカチッと鳴らした。そ

の音に、ふたりの陶酔境はハッと破れたのである。

 男も女もはじかれたようにこちらをふりかえった。そして、そのとき私ははじめて自分

の思いちがいに気がついたのである。

 男は蜂屋小市ではなかった。なるほど体つきや服装は蜂屋によく似ていたけれど、顔は

まるでちがっている。この男も佝僂とはいえ、蜂屋と同様なかなか美男子である。しか

し、その美び貌ぼうの性質はすっかりちがっていて、蜂屋のずうずうしい、押しの太い面

つら魂だましいと正反対、この男にはどこか内面の脆もろさを思わせるような、弱々しさ

と空虚さがあった。そのことはかれの眼を見ればすぐわかる。それはまるで虐しいたげら

れた犬のようにオドオドしている。それでいて、その臆おく病びようそうな表情のなか

に、何かしら、一種異様なひらめきが漂うていた。ちょうど追いつめられた野獣が、突然

むきをかえて飛びついて来ようとする、あの瞬間の殺気にも似たかがやきが……。いうま

でもなくこれが古神家の当主守もり衛えにちがいない。

「あら、いやアなひとね。いつ入っていらしたの」

 ピアノのよこへ立って、くるりとこちらをふりかえった八千代さんの顔には、一瞬バツ

の悪さをおしかくすような頼りなげな微笑が動揺している。私はそこではじめて彼女の顔

を正視することが出来たのだが、すると、今まで彼女の容貌をくるんでいた、あの古風な

お柳さまの面影は一瞬にしてくずれて、そこにはいきいきとした、悪戯いたずらっぽい、

それでいて、どこか心の平衡をうしなっているような、美しい小悪魔が躍動しているので

ある。白痴美というのは、こういう美人のことをいうのかも知れないと、私はその時かん

がえた。

「いや」

 直記はにべもなくいいはなつと、ゆっくりとライターの火を煙草にうつした。

 守衛はピアノのそばをはなれると、コトコトと向こうのソファへ歩いていったが、その

後ろ姿がビクビクはげしくふるえているところを見ると、この男の内心の怒りが思いやら

れる。さっき眼底からほとばしり出た殺気といい、また、この凄すさまじい痙けい攣れん

といい、この一見無能力者かに見える男が、いかに恐るべき激情家であるかがわかるの

だ。

「八っちゃん、ありゃアいったいどうしたんだ」

 直記は守衛のほうには眼もくれなかった。きっと八千代さんの顔をにらみながら、詰問

するような調子だった。

「あれってなアに?」

 八千代さんは鼻のあたまに皺しわを寄せて、かるく首をかしげた。それでいて、眼も口

も、そしてからだまでが笑っているのである。

「おやじのことさ。おやじと蜂屋のあの醜態さ。ありゃアいったいなんのざまだ」

「ああ、あれ」

 八千代さんはフフフとわらうと、遠いところを見るような眼つきになって、

「あれは蜂屋さんが悪いのよ。もっともおじさんのくせを知らないんだから無理もないよ

うなものね。お酒を飲みすぎて、しつこくお母さんにからみついたのよ。あのひと、酒を

飲むととてもしつこくなる。そのくせが出たのね。おじさんのまえでお母さんの手をに

ぎったり、頰ほおを寄せたり……むろん、本心じゃないわ。いやがらせよ。あのひとには

ひとのいやがるところを見てよろこぶくせがある。いやなくせね。ところがお母さんとい

うひとがあんなひとでしょう。誰でもいいのよ。若い男がちやほやすればよろこんでン

の。だからしゃあしゃあとしておじさんのまえで、蜂屋さんのおもちゃになっていたわ。

おじさんも、はじめのうちは面白そうに見ていらしたが、蜂屋さんがあんまりしつこいも

ンだから、とうとう爆発したのね。どっちもどっちよ。つまらない話……」

「八っちゃん、君はそれを見ていたのかい」

「ええ、見てたわ。バカバカしくなったから途中でこっちへひきあげて来たのよ。直記さ

ん、蜂屋さんどうかして?」

 まるでそれは、ひねりつぶされた蠅はえの安否でも気づかうような調子であった。

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