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第二章 大惨劇--夜歩く人(2)
日期:2023-12-20 13:17  点击:254

「あたし、いやだわ。あたし怖こわくなったわ。あたし、もうこの家にいられないわ」

 お喜多婆アが現われてから三日目のことである。珍しく、警官たちの監視の眼からのが

れた私たち、私と直記と八千代さんの三人は、洋館の食堂でお茶をのんでいたが、だしぬ

けに八千代さんがそういって、ガチャンとコーヒー茶ぢや碗わんを皿のうえにおいたの

で、私と直記は驚いて彼女のほうを振りかえった。

 八千代さんはこみあげて来る恐怖とたたかおうとするかのように、頭を二、三度、強く

左右にふっていたが、やがて光のない眼を私たちのほうに向けると、

「ええ、警察ではあたしのことを疑っているのよ。いいえ、警察ばかりじゃないわ、あな

たも、あなたも……」

 と八千代さんはお喜多婆アと同じように、ひとりひとり私たちを眼で見ながら、

「あなたがたもあたしを疑っているのよ。いいえ、かくしたってよくわかっているわ。奥

歯にもののはさまったような眼で、この二、三日、あたしをジロジロ見てばかりいるじゃ

ないの。それでいて、何を訊たずねるのかと思ったら、そのままプイと顔をそむけてしま

う。ああ、たまらない、あたしたまらないわ」

 八千代さんの言葉は噓うそではなかった。私はちかごろ、八千代さんの面おもてを正視

するにたえられないような気持ちなのである。お喜多のあの恐ろしい暴露以来、私の心に

ふいと宿った疑いは、日をへるにしたがって濃くなるばかりである。八千代さんは何かし

らこの事件の計画にふかい関係があるのだ。それでなければキャバレー『花』のあの一件

はとても説明がつかないではないか。あの小事件は、決して八千代さんの泥酔から起こっ

た、発作的な狂態ではなかったのだ。あのころからしてすでに、今度の事件はもくろまれ

ていたのだ。八千代さんはまさかその計画者ではあるまい。しかし、計画者の仲間か、あ

るいは道具に使われていることは疑う余地もない。

 私はこのとき、直記が詰問してくれればいいのにと希ねがっていた。しかし、どういう

ものか、直記はこれに触れることが恐ろしいのか、ちかごろではわざと八千代さんを避け

ているようにしか見えない。それでいて、八千代さんの気の付かぬとき、彼女を見る直記

の眼には、殺気にも似た恐ろしい熱烈さがあるのだが……。

「ああ、また、……また、そんな眼であたしを見て……そんなに疑ってるなら、なぜ口に

出してきかないの。なぜ、はっきり、疑問の点をたしかめてみようとなさらないの。あた

し、黙ってジロジロ、疑いの眼で見られるのいや。ああ、たまらない、たまらない、たま

らない」

「八っちゃん」

 直記がひくい声でたしなめるようにいった。咽の喉どの奥に魚の骨でもひっかかってい

るような声だった。

「大きな声を出しちゃダメだ、むやみに昂こう奮ふんするのはお止し。壁に耳ありという

が、いまじゃこの家は耳だらけだからね、はっはっは」

 直記は自ら嘲あざけるように咽喉の奥でひくくわらうと、急に体を乗り出して、

「それじゃ、八っちゃん、訊ねるがね。キャバレー『花』の事件ね」

 そのとたん、八千代さんはびくりと体をふるわせた。

「あれは偶然だったのかい。それとも、あれには、はじめから計画みたいなものがあった

のかい」

 八千代さんの眼は急に光をうしなった。放心したように遠いところをぼんやり眺めてい

たが、やがて、その眼を直記にもどすと、

「そのことは、あたしにもよくわからないの。でも、いまからかんがえるとあのことは、

やっぱり偶然じゃなかったのね。あれはちゃんと、筋書のなかに入ってた出来事なのね」

「八っちゃん、それはどういう意味だい。蜂屋を狙そ撃げきしたのは君自身じゃないの

か」

「そうよ。あたしよ、蜂屋さんを撃ったのは……」

「それだのに、どうしてそんな曖あい昧まいなことがいえるの」

「だって、だって、あたしにも、よくわからないんですもの」

 八千代さんの声は茫ぼう然ぜんとしている。それはさながら、夢の世界にいる人の声の

ようであった。

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