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第二章 大惨劇--夜歩く人(4)
日期:2023-12-20 13:18  点击:245

 八千代さんはそれをきくと、弾はじかれたように身を起こしてドアのほうへふりかえっ

たが、その顔色はみるみる紙のように真っ白になっていった。

 ドアのところにお喜多婆アが、石像のように無表情なかおをして立っている。しかし、

その無表情な眉まゆの下に、私は復ふく讐しゆう者のドスぐろい憎悪をハッキリ見ること

が出来たのである。

 私があの、世にも意外な、そしてまた、世にも変へん挺てこな発見をしたのはその晩の

ことであった。

 その夜、私は眠れなかった。八千代さんのあの不思議な告白が、耳鳴りのように私の頭

脳のなかをかけめぐって脳細胞のひとつひとつをガンガン叩たたいているような気持ちで

あった。私はあてがわれた寝室のベッドの中で、いくどか寝返りをうってみたが、あせれ

ばあせるほど眼が冴さえて来る。しまいには室内の空気の重苦しさに、呼い吸きがつまり

そうになって来た。

 私はとうとう部屋を出て階段をおりていった。それからいつか直記といっしょに入って

来たポーチから庭へ出た。

 しばらく庭を歩いて来たら、この重っ苦しい耳鳴りがなおりはしないかと思ったのであ

る。

 月はもうだいぶかけはじめていたが、それでも庭は明かるかった。私はいつか鉄之進が

村正をふりかぶって蜂屋を追っかけまわしていた池のほとりを歩いてみた。

 それにしても、これはなんという不思議な事件だろう。殺されたのが蜂屋にしろ、守衛

さんにしろ、それではもう一人はどうしたのだろう。どちらが犯人にしろああいう人目に

つきやすい体をしているのだから、いつまでもかくれているなんてことは出来るものでな

い。その一人、守衛さんか蜂屋か、かれはいったいどこへいったのだろう。

 そこまで考えて来て、私は突然、ギョッとして立ち止まった。立ち止まったまま、しば

らく動くことが出来なかった。

 心臓がガンガン鳴って、呼吸をするさえ苦しくなった。いまにも嘔おう吐とを催しそう

な気持ちだった。

 その時、私の脳のう裡りにとびこんで来た奇妙なかんがえというのはこうである。

ひょっとすると、二人のうちの一人はほんとうの佝僂ではないのではないか、守衛さんか

蜂屋か二人のうちの一人は、擬装した佝僂なのではあるまいか。しかし、守衛さんが佝僂

であったことは疑う余地はない。幼いときからいっしょに育った直記や八千代さんが、そ

う長くゴマ化されている筈はずはない。

 だが、蜂屋は……?

 蜂屋については私は何も知らなかった。だいたい蜂屋という男は、戦後、急に現われた

人物で、誰もかれの前身を知っているものはなかった。ただ、風変わりな絵をかく新進画

家という以外は、誰もかれが、戦前どのような生活をしていたか、知っているものはな

かった。それに私はこういうことをきいたことがある。蜂屋は自分の肉体の醜さを知って

いるから、決して入浴するところを、ひとに見せたことがないと。そしてまた、かれと深

い関係を結んだ女たちにしても、一度もかれの裸体を見たことはないと。……

 私は急に恐ろしさがこみあげて来た。体中が一瞬ゆだったように熱くなったかと思う

と、つぎの瞬間、氷のように冷えきっていくのをおぼえた。

 その時だった。私があの軽い足音をきいたのは。……

 私はぎょっとしてふりかえった。池の向こうから、誰やらこちらへちかづいて来る。全

身におぼろの月光をあびて、フワリフワリと宙をふむような足どりで、私のほうへちかづ

いて来る。その足どりからして、私はすぐにこの間の夜の、八千代さんの姿を連想した。

しかし、それは八千代さんではない。ちかづいて来るにしたがって、それが男であること

がはっきりして来た。ネルの寝間着に細ほそ紐ひもをしめている。そしてネルのまえを恐

ろしくはだけて、……ああ、それは直記の父、鉄之進ではないか。

 鉄之進は飄ひよう々ひようとした足どりで、私のほうへちかづいて来る。その眼はわき

眼もふらず恍こう惚こつとして前方を視みつめている。私のすぐまえ三尺ほどのところへ

迫ったが、それでもかれは、私の存在に気づかなかった。

 私の心臓ははげしく鳴った。全身からねっとりとした汗がふき出すのをおぼえた。

 一瞬、私は身をひるがえしてかれのまえに立ってみた。そして、すぐ鼻先で両手をふっ

てみせた。しかし、鉄之進はわずかに歩調をゆるめただけで、すぐまたフワリフワリと歩

き出した。あの雲をふむような、飄々たる足どりで。……

 ああ、何んということだ。仙石鉄之進、かれもまた夢遊病者だったのである。……

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