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発端 二(2)
日期:2023-12-22 15:39  点击:276

 それも、一人伯の羽振りのよいうちはまだよかった。かれはおのれの妻を貧窮のどん底

から救ってやったのだという、たぶんに恩恵的な気持ちで、この美貌の妻にのぞむことが

できた。

 ところが事業の蹉さ跌てつやら、金融恐慌の余波やらで、たとえ御殿のようなうちとは

いえ、この草深い田舎いなかに起居しなければならなくなって以来というもの、かれはし

だいに、この若くして、しかもこのうえもなく美しい妻にたいして、劣等感をいだくよう

になったらしい。かれはまず、加奈子を冷たい女だと思いはじめた。それから彼女は自分

に満足していない、自分を軽けい蔑べつしているのだと信じはじめた。そして、だからこ

そ彼女は子供ができないのだときめてしまった。妻が自分を軽蔑していると一人伯が思い

はじめたのは、故なきことではなかったのである。加奈子自身夫を軽蔑していたかどうか

は不明だけれど、ここにひとり一人伯を猛烈に軽蔑していた人物があった。

 それは名琅荘のヌシともいうべき糸女という老婦人である。

 糸女はもと先代種人伯爵の妾めかけだったのだけれど、三十をこえてお褥しとねを辞退

すべき年ごろになると、数多い伯爵の妾の世話係に転身していた。彼女は目から鼻へぬけ

るような利口な女で、一人伯に似て女性的で、陰性で、しかも老来ますます、気むずかし

くなる傾向にあった先代種人伯爵のご機き嫌げんをとりむすぶのに、彼女ほど上じよう手

ずに立ちまわれるものはなかった。ノミといえばツチというか、かゆいところへ手がとど

くというか、御前様のご気性のすみからすみまでのみこんでいて、口に出していわれない

まえに、さきからさきへと立ちまわって働いた。ことに伯爵の女にたいする好みをよく

しっていて、その取り持ちに妙をえていた。それにはさすがの伯爵も、

「糸めにはかなわぬ」

 と、いつも苦笑していたそうである。

 明治四十五年、伯爵が他界したとき、糸女は四十にちかい年ごろだったが、おおくの妾

にお暇が出たなかに、彼女だけは生しよう涯がい御前様をおしのびして、名琅荘のお守り

をして暮らしとうございますという願いがとどけられ、そのままそこに住んでいた。

 継嗣一人伯も後年そこがおのれの本宅になろうとはゆめにも思わなかったので、別荘番

かなにかのつもりで、うっかりそれを差し許したのが後日の悔恨のタネだった。

 昭和三年、東京を追われるようにして、一人伯夫婦が名琅荘へうつり住んだとき、糸女

はすでに六十歳になんなんとしていたが、奉公人どもから御後室様とよばれて、隠然たる

勢力をもっていた。

 利口な彼女はけっしてこの不遇な主人にたいして盾つくようなことはなかった。表面は

あくまで臣事の礼をとっていた。しかし、一人伯の眼からみればそれはいわゆる慇いん懃

ぎん無礼とかんじられ、彼女の一言一動が、一人伯の神経をかきみだすタネにならざるは

なしというていたらくだった。

 こちらへひきうつってから間もなく、いったいこの家の主権はだれにあるのだろうと、

疑わずにはいられないような場面に、一人伯はいっさいならず遭遇した。一人伯はなるほ

ど御前様だった。しかし、この御前様はたんなる床の間の置き物にすぎず、いっさいの采

さい配はいは御後室様とよばれる糸女から出るのであった。

 御後室様──というこの呼びかたからして一人伯の気にくわなかった。なにが御後室様

だ、たんなる父の妾ではないか。父のタネでもうみおとしていればまだしものこと、終生

父の玩がん弄ろう物ぶつ、性的玩具にすぎなかった女ではないか。それが御後室様などと

は僭せん上じようの沙さ汰たもはなはだしい。

 しかも、さらに一人伯の気にくわぬことは、妻の加奈子がおいおい糸女にまるめこまれ

ていくらしいことである。彼女はいつか糸女のことをおばあ様と呼ぶようになっていた。

「おばあ様などと呼んではいけない。はっきり糸と呼びすてにしなさい」

 一人伯がにがりきって命令すると、加奈子は素直に夫のまえでこそ、糸と呼びすてにし

ていたが、かげにまわるとやはりおばあ様と呼んでいるらしいのが、夫をないがしろにす

るもほどがあると、いよいよ一人伯の癇かんにさわった。

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09/21 08:03
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