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第十章 浴槽の貴族 二(2)
日期:2023-12-26 16:09  点击:309

 お糸さんのふるえはすぐとまった。彼女はゆっくり花瓶台から廊下へおりた。

 まえにもいったとおり、この部屋のまえの廊下はT字型になっており、縦の棒の下方か

ら、正面玄関へおりる階段につうじているのだが、横の棒の左右の端から、裏階段が下り

ており、そこを下りると正面玄関をとおらずに、調理場や奉公人のたまり場、さらに右翼

の建物の日本家屋へ通うようになっている。

 お糸さんはその裏階段の右のほうをおりていった。天坊さんのとなりの部屋の真下が篠

崎慎吾の部屋になっていることはまえにもいっておいた。ドアをノックすると、すぐ中か

らひらいて慎吾が顔を出したが、お糸さんの顔色をみるとふしんそうに眉をひそめて、

「お糸さん、どうかしたのか」

 いかに沈着なお糸さんでも、このときばかりは心の動揺をおおうべくもなかったらし

い。

「旦那様……」

 と、いってからお糸はついほかのことをたずねた。

「タマ子をご存じじゃございませんか。けさから、姿が見えないんでございますけれ

ど……」

「タマ子……? いいや、知らないね。あの子がどうかしたのか」

「けさからさっぱり姿が見えないんでございますの。それから……」

「それから……?」

「このうえのヒヤシンスの間でございますけれど‥…」

「ヒヤシンスの間……? ああ、天坊さんのお部屋だね。それがなにか……?」

「シャワーが出しっぱなしなんですの。ひょっとすると……」

「ひょっとすると……?」

「ゆうべから出しっぱなしじゃないかと思うんですけれど」

 お糸さんはそこでやっと落ち着きをとりもどした。自分がいま不安をかんじているゆえ

んを申しのべると、慎吾の眼がみるみる大きく見開かれた。

 ものもいわずにお糸さんのからだを押しのけると、おおまたに裏階段をのぼっていっ

た。セルの着物に兵児帯をしめたその結び目が、猫じゃらしみたいにゆれて、大きなお尻

が躍動していた。

 ヒヤシンスの間の外に立つと、はげしくドアをたたきながら、天坊さんの名をよびつづ

けたが、あいかわらず返事はなかった。ドアをたたくのをやめ、耳をすますと、たしかに

きこえてくるのはほとばしるシャワーの音である。

 お糸さんの話を思い出し、黒檀の花瓶台の上へあがって、半開きになった回転窓からな

かをのぞくと、斜め右前方にみえるマントルピースのうえにあるのはたしかに銀色の鍵で

ある。花瓶台からおりて、ドアをガチャガチャいわせているところへ、ひと足おくれて、

駆けつけてきたお糸さんが、

「旦那様。鍵を……」

 合鍵を鍵穴へさしこみそれをまわすまえ、慎吾はもういちど大声で天坊さんの名前をよ

んだ。返事のないのをたしかめてから鍵をまわした。そして、お糸さんとともに寝室を抜

け、浴場へ入り、浴槽のなかのものを見たのである。

 それからあとの慎吾は、事務家としての本領を遺憾なく発揮した。かれはお糸さんの手

を引くと、爪先立つようにして浴室をあとにした。

「旦那様、シャワーは……?」

「あのままにしておく。なにもかもあのままにしておくんだ」

 慎吾は窓という窓を調べてみたが、全部掛け金がなかからしまっており、異状はなかっ

た。寝室から居間をぬけて、ドアの外へ出るとき、お糸さんはなにかを捜し求めるよう

に、きょろきょろあたりを見回していた。寝室をとおるとき、彼女はベッドの下までのぞ

いてみた。そして、そこに求めるものを発見できなかったとき、彼女はいっぽうでは安心

し、いっぽうではさらに不安がつのるふぜいであった。

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