行业分类
第十章 浴槽の貴族 二(4)
日期:2023-12-26 16:10  点击:253

「天坊さまがなにか……?」

 たゆとうようにつぶやきながら、夫の顔を凝視するとき、この能面の女もさすがに緊張

のせいか、肌き理めのこまかな頰の筋肉が、かすかに痙けい攣れんしているのがうかがわ

れた。

 慎吾はしかしそれには答えず、居間を抜け、寝室をとおり、脱衣場と浴室のあいだのド

アのまえに立ち止まると、そこでまた倭文子のほうを振りかえった。相変わらずシャワー

がはげしい音を立ててほとばしっている。

「バス・タンクのなかをのぞいてごらん」

 夫が体をひらいたので、倭文子は背伸びをするようにして、浴槽のなかをのぞきこんだ

が、ひとめそこを見た瞬間、おそろしい痙攣が倭文子の全身をおそった。

 倭文子は体をこまかくふるわせながら、まじろぎもしないで、浴槽のなかのものをみつ

めていたが、つぎの瞬間、身をひるがえして脱衣場をとび出し、寝室までくると、やっと

のことでベッドの頭の鉄柵で身を支えた。肩で大きな息をしている。額から脂汗が吹き出

していた。慎吾はわざと浴室のドアも、脱衣場の扉も開けっ放しにしたまま、寝室へとっ

てかえすと、無言のまま倭文子の荒い息使いを見守っている。

「あなた!」

 だいぶんたってから倭文子はあえぐような声をかけた。

「天坊さまは……天坊さまは死んでいらっしゃるのですか」

「ああ、御覧のとおりだね」

 慎吾の声は乾いていて、そこには鋼鉄のような堅さと冷たさがあった。

「けさこの部屋にはドアに鍵がかかっていた。しかも、鍵はむこうのマントルピースのう

えにある。われわれはお糸さんの保管している、合鍵でここへはいってきてあれを発見し

たんだ。窓という窓にはごらんのとおり、全部なかから掛け金がかかっている。それにつ

いて君はどう思う」

「どう思うとおっしゃいますと……?」

 倭文子はまだベッドの鉄柵につかまり、慎吾に背をむけたまま肩で息をしている。

「天坊さんには心臓発作の持病でも、おありだったようかね」

 倭文子はちょっと考えたのち、

「いいえ、そんな話、うかがったことございません。健康があのかたのなによりの御自慢

でいらっしゃいました」

「そう、わたしもそう聞いていた。と、すると、これはどういうことになるのかな。い

や、取り越し苦労はよそう。死因はいずれ解剖の結果、判明するだろうからね」

「解剖……?」

 倭文子の全身はまた細かく痙攣したが、やがてくるッと夫のほうを振り返ると、

「それじゃ、あなたはあれを他殺だとおっしゃるんですか」

「だから、解剖の結果が、それを教えてくれるだろうといってるんだ」

 慎吾は窓のそばへよって妻に背をむけた。斜め右方にきょうも富士山がよく晴れてい

る。

 倭文子はベッドの鉄柵から身をはなして、かたわらの回転椅子に腰をおとすと、ゆっく

りと夫のほうにむきなおった。たくましい慎吾の背中に眼をやりながら、

「でも、あなたはいまおっしゃいました。ドアには鍵がかかっており、鍵はこの部屋のな

かにあったと。では、だれがどうして……?」

「だからさ、この部屋にもどこかに抜け穴があるんじゃないか」

「あなた!」

 倭文子はヒステリックな調子で叫んだ。

「あなた、本気でそんなこと考えていらっしゃるんですか」

「どうだかな。なにしろ辰人さんのお祖じ父いさんが造った、八や幡わたの藪やぶ知しら

ずみたいな建物だからな。あっはっは」

 慎吾はくるりとこちらを振り返ると、

「まあ、お聞き。ゆうべ金田一先生たちはあの抜け穴のなかで、片腕の男とおぼしい人物

を発見なすったそうだ」

 このことは初耳だったとみえ、倭文子の美しい眉が大きくつりあがった。

「それ、いったいだれですの」

「だれだかわからない。取り逃がしてしまったそうだからね。だからそいつはわたしかも

しれないし、柳町さんかもしれないし、奥村君かもしれないんだ」

「そんなバカな!」

「そう、わたしもそう思う。しかし、そいつがわたしたちでないとすると、ここにひと

り、正体不明の片腕の男というのが実在することになる。しかもそいつは変幻自在、抜け

穴から抜け穴へと出没するらしい。だからそいつにとっては、鍵のかかった密室であろう

がなかろうが、問題ないんじゃないのかな。あっはっは!」

 さいごの笑い声には聞くものをして、ゾーッとさせるような薄気味悪いものがあった。

「あなた、そんな気味の悪いことおっしゃらないで……それよりあなた!」

 倭文子は回転椅子から腰をうかした。そのとき表のドアが開いて、だれかがはいってこ

なかったら、おそらく倭文子は夫の胸にむしゃぶりついていたであろう。

 お糸さんはきっちり十分おくれて、田原警部補と井川老刑事を案内してきた。

 それから約十五分のちに、金田一耕助が富士駅から、奥村秘書の運転する自動車で急き

ゆう遽きよ引き返してきたというわけである。

小语种学习网  |  本站导航  |  英语学习  |  网页版
09/20 20:21
首页 刷新 顶部