「天坊さんの鼻のあたまに煤がついていたので、それでお糸さんはどうなすったんです」
「それがなあ、金田一先生、天坊さんがお気の毒になりましたもんですけん、この部屋に
はぜったいに抜け穴はございませんから、どうぞご安心なさいますようにって、何度も何
度も、あの、その、そうそう、力説したんですぞな。力説をなあ、そうそう、力説、力
説……」
お糸さんは力説という言葉を思いついたのが満足らしく、たいへんご機嫌である。
「なるほど、あなたが力説なすったら、天坊さんもご安心なすったんですか」
「あのかたそうとう疑い深いかたですからね。すっかりというわけではなかったようです
が、いちおうはまあ納得はなさったようでした。それであたしが鼻の頭に煤がついている
ことを申し上げると、これから風呂へ入るつもりだからいいとおっしゃいますでしょう。
それならいいものを持ってきてあげましょうと、お帳場へとってかえして、あのバス・ク
リニックとやらいうお薬を持ってきて差し上げたんでございますぞな。そしたら天坊さん
たらまたドアに鍵をかけていらっしゃるんでございますよ」
「なるほど、なるほど。天坊さんよほど神経質になっていられたんですね」
「そうなんでございますよ。こんどもまたあたしだということがわかると開けてください
ました。それであたしお薬を渡し、その効能や使いかたなどについて、いろいろ説明申し
上げたんでございますよ」
「天坊さん、さぞお喜びだったでしょう」
「ところがねえ、金田一先生、ああいうかた疑いぶかいというのか、まあ、昔のかたです
から、新しいものにたいして懐疑的というか、そうそう、懐疑的、懐疑的……」
お糸さんはまた懐疑的という言葉を思いついたのが得意らしく、二、三度その言葉をく
りかえしたのち、
「なかなか信用なさらないんですよ。かえってありがた迷惑みたいな顔なさいましてね
え、あたし腹が立ったくらいでございますよ」
「しかし、ああして使用していらっしゃるところをみると、内心やっぱり喜んでいらっ
しゃったんじゃないでしょうか」
「ほんと。しかし、ああいうかたなかなか思うことを、素直にお顔にお出しにならないも
のですからなあ」
「お糸さん、あなたはどうです。思うことがあると素直に顔色に出るほうですか」
「それはもう、金田一先生、あたしなど人間が正直にできておりますけんな、思うことが
あればすぐ色に現れるほうなんでございますよ。それでございますから先々代様にも、お
糸は人間が正直でいいと、お糸、お糸と眼をかけていただいたんでございますよ」
「ほんとうか、ばあさん」
「ああらま、こちらの刑事さんの疑いぶかいこと。どうせそうでございましょうね。デカ
なんて商売を長くやっていると、ひとのいうこといちいち裏があるんじゃないかと、疑っ
てかかるんでございましょうなあ。まあ、すかん」
「いいよ、いいよ。ばあさんにすかれなくてもな。これでもあなたじゃなきゃ夜も日も明
けぬという女おな子ごもいるんだから」
「それはそうでございましょうとも。蓼たで食う虫もすきずきと申しましてな。ほっほっ
ほ」
「いったな、ばばあ」
「まあ、いいですよ、いいですよ」
金田一耕助はおかしさをかみ殺しながら仲裁に入った。
「それで、お糸さんはあの鑵を渡して部屋を出られたんですね」
「とんでもない。部屋を出たなんてもんじゃござんせんのよ。それは最初のときは部屋へ
入れてくださいました。ところが二度目のときなどドアのところの立ち話でしょう。あた
しの手から鑵を受け取ると、わかった、わかったとおっしゃりながら、あたしを外へ押し
出すと、なかからガチャリでございましたよ」
「ああ、天坊さんまた中から鍵をかけられたんですね」
「そうなんですのよ、金田一先生、いかに神経質になっていらっしゃったとはいえ、それ
ではあんまりでございますわなあ。あたしもう腹が立って、腹が立って……」
「それ何時ごろのことでしょう。正確にはおわかりにならんでしょうねえ」
「いいえ、ちゃんと存じておりますよ。十一時三十分でございました。あなたがたがお帰
りになるまで起きておらねばと思ったもんですけん、時計を見たんでございますよ。お帳
場の時計は毎朝ラジオに合わせておりますけん、そう間違いはないはずですぞな」
それから十五分ののち天坊さんの時計はとまっているのである。十五分という時間は使
いかたによっては有効に利用できるだろう。それにしても犯人はどこから入り、どこから
出たのか。あの部屋に抜け穴がないとすると、犯人はドアから入ったにちがいないが、お
糸さんの話によると天坊さんはおそろしく神経質になっていたという。ドアに破られた痕
がないとすると、天坊さんが招じいれたにちがいないが、それほど神経質になっていた天
坊さんが、なんの危き懼ぐもいだかずに部屋へいれたとすると、あいてはよほど親しい人
間にちがいない。