「造作ねえとおっしゃいますと……?」
「あの部屋にも抜け穴があるんだ。ダリヤの間とヒヤシンスの間は、あのストーブで往来
できるようになってんだ。あしたはあの部屋をぶっこわしてでもその抜け穴を捜し出して
やる。おお、捜し出してみせるとも」
井川刑事はいきまいたが、温厚な田原警部補はハラハラしながら、
「金田一先生、このひとを堪かん忍にんしてやってください。このひとだってまさか本気
であんなこといってるんじゃないんです。しかし、これじゃなにがなんでも刺激が強すぎ
る」
「主任さん、ご安心下さい。わたしだってまさかこのご老体が……」
「ご老体たあなんだ。ご老体たあ。失敬な」
「あっはっは、これは失礼。じゃ訂正します。わたしだってまさかまだうら若く意気さか
んなこの刑事さんが、本気であんなこといってらっしゃるんじゃないことくらいはわかっ
てます。その証拠にはこのひとさっきからしきりにわたしの顔色を読んでらっしゃる。
かってな妄もう想そうを吐きながら、わたしの反応をたしかめようとしていらっしゃる。
ところがあいにくわたしゃポーカー・フェースときてましてね」
それから金田一耕助は椅子から立ち上がると、
「井川さん、あのヒヤシンスの間はぶっこわす必要はありませんよ。もしお望みならわた
しゃ抜け穴なんかなくっても、鍵のかかったあの部屋から、まんまと首尾よく抜け出して
ごらんにいれますよ」
「あんたがあ……?」
井川刑事は疑わしそうな眼をいからせて、ブルドッグのようにほえたてた。
「お疑いならわたしといっしょにいらっしゃい。さいわいみんな寝しずまったころあいで
す。わたしのつたない実験をお眼にかけるには打ってつけの時刻のようです。主任さんも
ぜひ」
金田一耕助は部屋を出ると、廊下のあとさきを見回しながら、
「わたしはこの実験を家人のだれにも知られたくないんです。ですからできるだけ静粛に
ねがいます」
赤い絨じゆう毯たんを敷きつめた大理石の階段を、足音に気をつけながら登っていく
と、階下の陽子の部屋から灯ひがもれているのが見えた。
夜にはいって陽子は危機を脱して、意識の回復も時間の問題といわれている。彼女の寝
室には森本医師と深尾看護婦が詰めているはずである。柳町善衛の部屋の灯は消えている
らしい。かれはもう寝ているのであろうか。廊下のところどころに警官が立っているだけ
で、いま広大な名琅荘は深沈たる夜気にとざされて、深い眠りに落ちているようだ。時刻
は深夜の十二時十五分。
ヒヤシンスの間とダリヤの間の中間の廊下に、警官がひとり立っていた。どちらの部屋
にも異状のなかったことをたしかめて、田原警部補がヒヤシンスの間のドアを開いた。そ
れはお糸さんから預かっている控えの鍵である。井川刑事が壁際のスイッチをひねると、
この部屋本来の鍵がマントルピースのうえにおいてあるのが眼にはいった。この部屋はま
だけさ事件が発見されたときのまま、手つかずで保存されているのである。
「さあて、金田一先生、あんたこの部屋からどうして脱出してみせてくださるんですな。
抜け穴もなく、ドアには鍵がかかっており、しかも鍵はあのマントルピースのうえにあ
る。おまけに窓という窓は内部から掛け金がかかっている。ひとつおまはんのお手並み拝
見といきましょうかな」
井川刑事のその調子は、まるで松の廊下で浅野内たく匠みの頭かみをいびる、吉き良ら
上野介こうずけのすけの口跡のようである。しかし、じっさいは金田一耕助がこれから
行ってみせるという実験にたいして、期待と好奇心に燃えているのである。