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二十七 ドンカスターの殺人
日期:2024-04-23 10:20  点击:306
  二十七 ドンカスターの殺人
  ポワロのすぐ後につづいてはいったので、わたしは、クローム警部の言葉の尻尾しっぽ の方を耳にはさんだ。
  かれも署長も、困り切って、まいっているような様子だった。
  アンダースン署長は、うなずいて、わたしたちを迎えた。
  「よく、いらっしゃいました。ポワロさん」と、かれは、ていねいにいった。かれは、クロームの言葉が、わたしたちの耳にはいったと思ったのだろう。「また、大打撃を受けましたよ」「また別のABCの殺人ですか?」
  「そうなんです。まったくもって大胆不敵な仕業です。のしかかって、背中から刺したのです」「こんどは、刺したのですか?」
  「そうです。すこしずつ、手を変えるというんですかね? 頭をなぐるかと思うと、首をしめて、こんどは、ナイフというわけです。なかなか多芸な奴ですね――え? ごらんになるのでしたら、ここに、医師の報告書もあります」かれは、ポワロの方へ書類を押しやって、「ABCが、被害者の足もとに落ちていました」と、かれは、つけ加えていった。
  「被害者の身許は、わかりましたか?」と、ポワロはたずねた。
  「わかりました。ABCの奴、こんどは、しくじったようでね――まあ、それが、いくらかでも、われわれの気休めにでもなればですが。殺されたのは、アールスフィールド(Earlsfield)――ジョージ·アールスフィールドという男で、職業は、理髪師です」「おかしいですね」と、ポワロがいった。
  「文字を一つ、飛ばしたのかもしれませんね」と、署長が考えをいい出した。
  わたしの友人は、疑わしそうに、首を横に振った。
  「つぎの証人を呼びましょうか?」と、クロームがたずねた。「家に帰りたがっているのですが」「そう、そう――そうしてくれたまえ」
  案内されてはいって来たのは、「不思議の国のアリス」に出て来る、蛙かえる の下男にそっくりの中年の紳士だった。かれは、ひどく興奮していて、その声は、強い感動から、かん高くなっていた。
  「こんなにぞっとするような思いをしたことは、いままでありませんでした」と、かれは、きいきい声でいった。「わたしは、心臓が弱くて――非常に弱いんです。もうすこしで死ぬところでした」「お名前を、どうぞ」と、警部がいった。
  「ダウンズ。ロージャー·エマニュエル·ダウンズです」「職業は?」「ハイフィールド男子学校の校長です」
  「では、ダウンズさん、あなたの口から、事件をお話し願いましょうか」「ごく簡単に、お話ができます、みなさん。映写がおわると、わたしは、席から立ちあがりました。わたしの左の席はあいていましたが、もう一つ先の席には、一人の人がすわっていて、眠りこんでいるようでした。その人が脚を前へ突き出していて通れないものですから、通してくれと声をかけたのです。それでも、動かないものですから、わたしは、繰り返して――ええ――もうすこし大きな声で、たのみました。それでも、返事をしないのです。それで、肩をつかんで、ゆり起こしたんです。ところが、いっそう、体が落ちこんで行くので、前後不覚に眠っているか、ひどく病気が悪いか、どちらかだなと、わたしは、気がついたのです。それで、『この人は病気のようですから、守衛を呼んでください』と、どなったわけです。守衛が来ました。その前に、その人の肩から、手を離したとたん、わたしは、手が濡れていて、まっ赤なのに気がついたのです……それで、その人が刺し殺されているのだと、わたしは、感じたのです。と同時に、守衛がABC鉄道案内に気がつきました……わたしは、はっきりいえますが、みなさん、そのショックは、おそろしいものでした! どうなることかと思いました! わたしは、長年、心臓を患っているものですから――」アンダースン署長は、奇妙な顔つきで、ダウンズ氏を眺めていた。
  「あなたは、ご自分がどんなに幸運な方か、おわかりでしょうね」「わかります。心悸亢進しんきこうしん さえも起こしませんでしたしね!」「わたしの申しあげている意味がすっかりおわかりではないようですね。ダウンズさん。あなたは、一つ席をあけてすわっていたと、おっしゃるんでしょう?」「ほんとうは、はじめは、殺された人のすぐ隣りにかけていたんです――そのうちに、空席のうしろになるように、席を移したんです」「あなたは、被害者と、同じ背恰好をしておいででしょう、それに、同じような毛織の襟巻えりまき をしておいでだったでしょう?」「よく、おぼえていませんが――」と、ぎごちなく、ダウンズ氏は、いいかけた。
  「わたしが申しあげるのはですね」と、アンダースン署長が、「あなたの幸運は、そこにあったということなんです。とにかく、犯人は、あなたの後をつけて、はいって行ったとたんに、間違えてしまったのですね。かれは、間違えて、ほかの人の背中を刺したのです。わたしは、なんでも賭けますよ、ダウンズさん、あのナイフが、あなたを狙っていたのでないとすればね!」ダウンズ氏の心臓は、はじめの試練にはどうやら耐えられたのだが、こんどは、ひとたまりもなかった。ダウンズ氏は、ばたっと椅子の上にへたばると、はっはっと息を切らし、顔が紫色になってしまった。
  「水」と、かれは、あえぎあえぎいった。「水……」コップを持って来てくれて、それをすすっているうちに、かれの顔もだんだん元どおりになってきた。
  「わたしを?」と、かれはいった。「どうして、わたしを狙うのです?」「そうらしいということです」と、クロームはいった。「実際、ほかに説明のつけようがないのです」「すると、あなたは、この男が――この――この人間の姿をした悪魔が――この血に餓えた気ちがいが、わたしの後をつけて、機会を狙っていたとおっしゃるんですね?」「そうだったろうと、申しあげなければならないですね」「でも、いったい、どうして、わたしを?」と、無法に腹を立てた校長先生は、ききただした。
  クローム警部は、「どうして、あなたではいけないんです?」といいたかったが、ようやく、その誘惑をしりぞけて、「残念ながら、気ちがいのすることに理由を求めても、どうにもならないでしょうな」といった。
  「やれやれ、驚きましたよ」と、ダウンズ氏は、ほっとして小声でいった。
  かれは、立ちあがった。急に年をとって、よぼよぼになったようだった。
  「もうご用がないようでしたら、みなさん、帰らせていただきたいのですが、わたしは――わたしは、どうも気分がひどくよくないものですから」「結構ですとも、ダウンズさん。巡査に送らせましょう――間違いがあるといけませんから」「ああ、いや――いや、結構です。その必要はありません」「よろしいように」と、アンダースン署長は、ぶっきらぼうにいった。
  その目は、そっと脇を向いて、それとなく、警部にきいているようだった。クロームも同じように、それと気がつかないほどにうなずいた。
  ダウンズ氏は、ふるえながら出て行った。
  「気がつかなくてよかったね」と、アンダースン署長はいった。「二人いるのだろう、え?」「そうです。あなたの部下のライス警部が手配をしておりました。家の方を監視することになっています」「あなた方のお考えでは」と、ポワロが、「ABCが間違いに気がついたら、もう一度、やるかもしれないとおっしゃるんですね?」アンダースンは、うなずいて、
  「ありうることですからね」と、かれはいった。「几帳面な奴らしいですからね、ABCは。筋書どおりに運ばないとなったら、うろたえるでしょう」ポワロは、じっと考えながら、うなずいた。
  「奴の人相がわかればね」と、アンダースン署長がいらいらして、いった。「あいもかわらず、なんにもわからないのですからね」「わかるかもしれませんよ」と、ポワロがいった。
  「そうお思いですか? ふん、そうでしょうね。ちくしょう、誰か面つら に目をつけている奴はなかったのかね?」「まあ、ご辛抱なさい」と、ポワロはいった。
  「あなたは、ひどく自信がおありのようですね、ポワロさん、そんなに楽観していらっしゃるのは、なにかわけがおありですか?」「そうですよ、アンダースン署長。いままで、犯人は、間違いをしませんでした。しかし、間もなく、間違いをしでかすはずです」「それだけのことで、いわれるのでしたら」と、署長は鼻を鳴らして、いいかけたが、じゃまがはいった。
  「『ブラック·スワン』のボール氏が、若い女の人といっしょに来ております。なにかご参考になることを申しあげたいといっております」「連れて来たまえ。連れて来たまえ。参考になることなら、なんでも結構だ」「ブラック·スワン」のボール氏は、大柄で、頭の働きのにぶそうな、のろのろした男だった。かれは、強いビールの匂いを発散させていた。いっしょに来たのは、まるい目をした、まるまると肥った若い女で、明らかに、ひどく興奮していた。
  「貴重なお時間のおじゃまでなければよろしいのですが」と、ボール氏は、のろのろとした、だみ声でいい出した。「でも、このあまっ子の、メアリーが、なにかお耳に入れたいことがあるとか申しますので」メアリーは、澄ましたふうで、くすくす笑っていた。
  「よろしい、娘さん、どんなことだね?」と、アンダースンはいった。「名前は?」「メアリーです――メアリー·ストラウドです」「では、メアリーさん、いいなさい」メアリーは、まん丸な目を、主人の方に向けた。
  「お客さまのお部屋にお湯をおとどけするのが、この娘の仕事でございまして」と、ボール氏が助け舟を出した。「ただいま、手前どもには、六人ほどお客さまがお泊まりでございます。競馬のお客さまと、商用のお客とでございます」「うん、うん」と、アンダースンは、いらいらしていった。
  「それから先を」と、ボール氏はいった。「お前のお話をいうんだよ。こわがることはないよ」メアリーは、あえいだり、うなったりして、息切れのする声で、話しはじめた。
  「わたし、ドアをたたいたんだけど、返事がなかったんです。ほかの時は、どんなことがあったって、お客さんが『おはいり』といわなきゃ、はいっては行かないんです。ところが、なんとも、その人はいわなかったんで、わたし、はいって行ったんです。そしたら、その人は、手を洗っているところだったんです」かの女は、言葉をきって、深く息を吸いこんだ。
  「つづけなさい、娘さん」と、アンダースンはいった。
  メアリーは、横目で主人の方を見た。そして、かれがゆっくりとうなずくのを見て、そこからインスピレーションを得たかのように、また話しはじめた。
  「『お湯を持ってまいりました、旦那さま、ノックをしたんですけど』っていったんです。
  そしたら、『ああ』といって、『もう水で洗いましたよ』っていうんです。それで、ひょいと洗面器を見ると、まあ! どうしましょう、まっ赤だったんです!」「まっ赤?」と、アンダースンが鋭くいった。
  ボールが、突然、口を出した。
  「この娘の話ですと、その人は、上衣をぬいで、袖のところを持っていたそうですが、それが、すっかり、びしょ濡れだったそうで――そうだな、え?」「そうです、旦那さま、そのとおりです、旦那さま」かの女は、話をつづけた。
  「それから、その人の顔といったら、旦那さま、おかしい顔で、死人みたいな変な顔をしているんです。わたし、ほんとにびっくりしてしまいました」「それは、何時ごろだった?」と、アンダースンは、鋭くたずねた。
  「五時十五分すぎくらいか、そのころだったと思います」「三時間以上も前じゃないか」と、ぴしっとアンダースンはいった。「どうして、すぐに来なかったのだ?」「そのことを、すぐに聞かなかったもんで」と、ボールはいった。「また人殺しがあったというニュースを聞くまで、なんにもいわなかったからで。その時になって、このあまっ子が、洗面器の中のは血だったかもしれないてんで、きゃあきゃあ騒ぎ出したんで、それで、なんのことかと思って、問いつめて、やっと聞き出したような次第で。しかし、わたしには、まっとうな話のような気がしないもんで、自分で二階へ行ってみたんです。ところが、部屋には誰もいないんです。何人かに聞いてみたところが、中庭にいた一人の若い者が、一人の男が、そっちの方から、こっそり抜け出すのを見たというんです。人相を聞いてみると、やっぱり、その男にちがいないんです。それで、わたしは女房に、このメアリーを警察へやった方がいいっていうんですが、女房も、そんなことは好かねえ、メアリーもいやだというんで、それで、わたしがいっしょに行くといって、連れて来たようなわけなんで」クローム警部は、紙を一枚引っぱり出して、「その男の人相をいってくれ」と、かれはいった。「できるだけ早くね。ぐずぐずしているような時間がないからね」「中背でした」と、メアリーがいった。「それから、猫背ねこぜ で、眼鏡めがね をかけていました」「服装は?」
  「黒っぽい背広で、鍔つば のせまい中折れ帽で。どっちかというと、みすぼらしい様子で」それだけの人相以上には、かの女は、ほとんどつけ加えることができなかった。
  クローム警部は、それ以上、しつこくは聞かなかった。すぐに、電話があわただしく八方にかけられた。しかし、警部も署長も、あまり楽観してはいなかった。
  クロームは、その男が中庭を抜け出して行く時に、鞄かばん もスーツケースも持っていなかった、という事実を聞き出した。
  「見込みがあるな」と、かれはいった。
  二人の警官が、「ブラック·スワン」に派遣されることになった。
  ボール氏は、誇りと、有力者になったような気で、得意満面になり、メアリーは、いくらか涙ぐみながら、みんなについて行った。
  十分ほどして、警官はもどって来た。
  「宿帳を持ってまいりました」と、かれはいった。「これが、そのサインです」わたしたちは、そのまわりに集まった。書体は、小さくて、くしゃくしゃしていて――読みにくかった。
  「A·B·ケース――それともカッシュかな?」と、署長がいった。
  「A·B·Cです」と、意味ありげに、クロームがいった。
  「荷物は、どうだった?」と、アンダースンがたずねた。
  「大きなスーツ·ケースが一つありまして、小さなボール箱がいっぱいはいっていました」「箱だと? 中身はなんだった?」「靴下です。絹の靴下で」
  クロームは、ポワロの方を向いて、
  「おめでとう」といった。「あなたの予感が正しかったわけですね」
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