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第一部 沈黙の春 狂乱の時代
日期:2024-06-28 11:03  点击:300
第一部   沈黙の春
    狂乱の時代  
一九六七年、中国
 四?二八兵団総本部棟に対する紅色連合の攻撃は、すでに二日目に入っていた。建物の周囲で揺れる紅色連合の旗は、燃やすべき敵の出現をいまかいまかと待つ火種のようだった。
 紅色連合の指揮官は不安を抱えていた。といっても、総本部棟を守る敵を恐れているわけではない。一九六六年初頭に結成され、大検閲 毛沢東による謁見集会 も大だい串かん連れん 全国的経験交流 も経験してきた彼ら紅色連合に比べれば、敵側の四?二八兵団に属する兵士たち二百余名ははるかに未熟だ。指揮官が恐れているのは、敵陣の建物の十数カ所に設置されている大型の鉄製ストーブだった。中には強力な爆薬が詰められ、電気雷管を連結されている。外からは見えないが、指揮官はその存在を磁力のように感知していた。破壊力は相当に強く、もし起爆スイッチが押されれば、敵味方もろともに吹きとばされてしまうだろう。
 未熟とはいえ、四?二八兵団の若い紅衛兵 学生を中心とする兵士 たちも、同じような破壊力を秘めている。苦難に耐えて鍛えられてきた第一世代の多くの紅衛兵と比べても、四?二八兵団の新たな造反者たちの狂乱ぶりは、燃えさかる火の中で踊り狂う、正気を失った狼の群れのようだった。
 総本部棟の屋上に、美しい少女が現れた。四?二八兵団の赤い大旗を翻している。少女の小さな姿は、たちまち紅色連合のありとあらゆる銃の弾丸を呼び寄せた。まさに、ありとあらゆる銃だった。古いアメリカ式のカービン銃、チェコ式機関銃、三八歩兵銃などの旧式もあれば、八月の社説 一九六七年八月、雑誌《紅旗》に発表された〝軍内部のとある悪人を暴露する?という社説は、軍区への攻撃、軍隊の所持する銃や弾薬に対する強奪事件をますます過激化させ、全国的な闘争をさらに熱狂の渦へと巻きこんだ 発表後に軍内部から盗み出した真新しい制式自動小銃やサブマシンガンもある。それらは、梭鏢ひひょう 刀具の一種。投擲武器 や大刀などの刀剣ともども、近現代史の縮図をなしていた。
 四?二八兵団の多くの兵士たちが、こうやって旗を振るような危険なゲームにあえて挑戦し、何度もくりかえしてきた。旗を振る以外にも、メガホンでスローガンを叫んだり、宣伝ビラをばらまいたり。弾丸が飛びかうなか、身を危険にさらして任務を遂行することで、崇高な栄誉を勝ちとることができる。屋上の少女もまた、自分は当然この任務をまっとうできると信じて疑わないように見えた。戦旗を振ることで、少女は青春の炎を燃やし、その炎の中で敵が灰と化すことを信じている。わが身のたぎりたつ熱い血の中で、あすにも理想世界が誕生する……鮮やかに赤く輝くこの夢に酔いしれている少女の胸を、一発の銃弾が貫いた。
 十五歳の少女の胸は、なんと柔らかいことか。小銃の銃弾はほとんど減速もせずに貫通し、少女の背後でかん高い音を発した。うら若き紅衛兵は、旗とともに屋上から転落した。少女の軽い体は、空にとどまろうとする小鳥さながら、旗よりもゆっくりと、はらはら落ちていった。
 紅色連合の兵士たちが歓声をあげた。そのうち何名かが本部棟の近くまで突進する。四?
二八兵団の旗をめくりあげ、その下にある少女の小さな遺体を持ち上げ、戦利品として誇らしげに高々と掲げたあと、敷地の鉄門に向かって思いきり投げ上げた。鉄門の剣先フェンスは、闘争の初期、武器にするために盗まれて、先の尖った鉄棒のほとんどがなくなっていたが、残った二本に少女の遺体がちょうど引っかかった。その瞬間、柔らかな体にふたたび生命が宿ったかに見えた。
 紅色連合の兵士たちは鉄門から離れていったん距離をとり、てっぺんの遺体を標的にして、射撃練習をはじめた。集中して浴びせられた銃弾は、少女にとっては柔らかな雨みたいなもので、なんの痛みもない。降り注ぐ雨のしずくを払うように、少女の体はときおり、春の藤のようなかぼそい腕を軽く動かす。銃弾を浴びてその顔の半分が破壊されるまで、美しい目はなおも一九六七年の青空をじっと見つめつづけていた。その瞳に苦痛の色はなく、ただ激情と渇望だけがあった。
 じつのところ、この少女はほかの者たちよりもまだ幸運なほうだった。少なくとも、理想のために身を捧げ、激情の中で壮麗な死を遂げることができたのだから。
 恐怖と化したこういう戦場が、分散処理する無数のコンピュータさながら、北京各地に広がっていった。その演算のアウトプットが文化大革命だった。狂気は洪水となって北京を呑み込み、この大都市の小さな片隅やあらゆる隙間にまで浸透していった。
 中心部からはずれたある大学のグラウンドでは、数千名が参加する批闘会 批判闘争大会 がはじまってから、すでに二時間ほどが経過していた。派閥が林立したこの時代、あらゆるところで派閥同士の関係が錯綜し、複雑に対立し合っていた。学内では紅衛兵、文革業務組、工宣隊や軍宣隊 毛沢東思想を宣伝する管理組織?部隊 の関係が一触即発の状態にあり、それぞれの派閥内部でも、ときおり新たな対立グループが誕生し、それらがさまざまな背景と固持すべき綱領を維持しつつ、さらに残酷な争いを引き起こしていった。もっとも、今回の集会の批判対象は、反動的学術権威だった。どの派閥にとっても、彼ら反動的学術権威は攻撃すべき格好の標的だったから、対象者は、すべての派閥からいっせいに与えられる残酷な仕打ちを甘んじて受けるほかなかった。
 反動的学術権威には、他の牛鬼蛇神 妖怪変化。文革時、批判対象をこう呼んだ と区別される独特の特徴がある。
すなわち、批判されても、彼らの反応は往々にして高慢かつ頑固なのである。そのため、批判を受けた最初の段階で、彼らの死亡率はたちまちピークに達した。北京では四十日間に千七百名あまりの闘私批修会対象者が打ち殺され、さらに多くの者が、狂気に支配された批判を避ける近道としてみずから死を選んだ。老舎ラオ?ショー、呉晗ウー?ハン、翦伯賛チェン?ポーツァン、傅雷フー?レイ、趙九章ジャオ?ジウジャン、葉以群イエ?
イーチュン、聞捷ウェン?ヂエ、張海黙ジャン?ハイモーら いずれも実在の知識人 、かつて尊敬されていた人々が、みずからの手でその生涯にピリァ∩を打った。
 また、運よくこの第一段階を切り抜けたとしても、続けざまに浴びせられる残酷な批判によって、対象者の心は次第に無感覚になっていく。最終的な精神崩壊を避けるべく、自分を守るための精神的な殻をつくるからだった。闘私批修会では、ほとんどの者が半睡眠状態に陥り、名指しで恫喝されてようやくはっと目を覚まし、もう何度となくくりかえしてきた免罪符を機械的に復唱するようになる。
 一部はそのあと、さらにその先の第三段階へと進む。時間の無駄としか思えない批判は、彼らの意識の中に政治的イメージを水銀のように注入し、知識と理性で構築された彼らの思想の城を徹底的に破壊する。すると対象者は、ほんとうに自分が有罪だと信じ込み、偉大な事業を妨害していると感じて、苦痛の涙さえ流す。彼らの後悔の念は、知識分子以外の牛鬼蛇神の場合よりはるかに深く、その誠意も、より真実味がある。
 しかし、紅衛兵にとって、あとのふたつの段階はどうしようもなくつまらないもので、楽しみの対象となるのは第一段階にある反動的学術権威だけだった。興奮状態さえ通り越してしまった紅衛兵たちの神経に、いくらかましな刺激を与えてくれるからだ。闘牛士が持つ赤布ムレータのようなものと言ってもいいだろう。しかし、そういう批判対象はどんどん減ってしまい、この大学にいま残されているのは、おそらくたったひとりだけ。その人物は、みずからの持つ希少価値ゆえに、批判大会の最後に登場することが予定されていた。
 問題の人物、葉哲泰イエ?ジョータイは、運動がはじまってから現在までしぶとく生き残り、しかも、ずっと第一段階に留まっている。罪を認めず、自殺もせず、心が無感覚にもならなかった。この物理学教授は、壇上に立つと、きっぱり言った。
「もっと重い十字架を背負わせてみろ」
 紅衛兵たちが彼に背負わせているものは、たしかにかなりの重さがあったが、それは十字架ではなかった。ほかの批判対象がかぶっている三角帽はすべて竹製の骨組みでできていたのに対し、葉哲泰は太い鉄筋を溶接してつくったものをかぶらされていた。さらに、胸の前にかかっているプラカードも、ほかの者のような木板ではなく、実験室のオーブンからとりはずした鉄扉で、上部には黒字ででかでかと葉哲泰の名が書かれ、対角線上に赤で大きく×印が描かれている。
 葉哲泰を壇上に連行した紅衛兵の数は、ほかの批判対象のときの二倍だった。男がふたり、女が四人の合計六人。男の紅衛兵ふたりの歩調は穏やかながらも力強く、成熟した青年ボリシェヴィキの姿だった。ふたりとも、理学部物理学科理論物理学専攻の大学四年生で、葉哲泰はかつて、彼らの指導教授だった。四人の少女のほうはずっと若く、全員、大学付属中学の二年生だ。緑の軍服をまとう若き武装戦士たちにみなぎる思春期の活力は、葉哲泰を包囲する四つの緑色の火炎のようだった。葉哲泰の登場により、壇の下にいる人々は興奮し、さっきまで静まっていたスローガンを叫ぶ声が、ふたたび潮が高まるように大きくなり、グラウンド全体を埋めつくした。
 シュプレヒコールがおさまるのを待って、壇上に立つ男の紅衛兵の片方が批判対象をふりかえって言った。
「葉哲泰、おまえは力学の専門家だ。自分がどれほど大きな合力に抵抗しているか、わかっているだろう。そうやって頑なな態度をとり続ければ、命を落とすだけだぞ きょうは、前回の大会のつづきだ。くだらない話はもういい。つぎの質問に真面目に答えろ。六二年度から六五年度の基礎科目に、おまえは独断で相対性理論を入れたな」「相対性理論は物理学の古典理論だ。基礎科目でとりあげないわけにはいかないだろう」と葉哲泰。
「嘘をつけ」そばにいた女の紅衛兵のひとりが荒々しい声で叫んだ。「アインシュタインは反動的学術権威だ。欲が深く、倫理に欠ける。アメリカ帝国主義のために原子爆弾をつくった男だ 革命を起こす科学を築くためには、相対性理論に代表される資産階級理論の黒旗 反動の象徴 を打倒しなければならない」
 葉哲泰はじっと黙って、頭上の鉄の三角帽と胸に下げた鉄のプラカードがもたらす苦痛に耐え、返答に値しない問いには沈黙を守った。そのうしろで、彼の教え子たちもわずかに眉をひそめた。話している少女は、四人の中学生紅衛兵の中ではもっとも聡明で、もちろん、次の作戦も用意していないはずはなかった。さきほど、壇上に立つ前に、批判原稿を暗記している姿も見えたが、葉哲泰を吊るし上げるには、ただスローガンを叫ぶだけでは足りなかったようだ。彼女たちはきょう、葉教授のために準備した新たな武器を披露することに決めた。四人のひとりが、壇の下に向かって大きく手を振って合図した。
 前のほうの列に座っていたひとりの女性がすっくと立ち上がり、壇上に上がってきた。
葉哲泰の妻であり、同じ物理学部の教授でもある紹琳シャオ?リンだった。紹琳は、サイズの合わない黄緑色の服を着ていた。紅衛兵の軍服になるべく近いものをと選んだ服装だろうが、紹琳を知る人はみな、以前の彼女がいつも美しいチャイナドレスを着て教壇に立っていたことを思い出し、いたたまれない気持ちになった。
「葉哲泰」紹琳は夫を指して叫んだ。こういう場所に不慣れなのは明らかで、必死に大きな声を出そうとしたものの、かえって声の震えが目立つ結果になった。
「まさかわたしがここに立ってあなたの正体を暴き、批判するなんて思いもしなかったでしょう。そう、わたしはあなたに騙されていた。あなたはその反動的世界観と科学観でわたしを惑わせていたのよ いまやっと、それがわかった。革命の若い闘士たちのおかげで、わたしはようやく革命の側に立つことができた──人民の側に」 紹琳はグラウンドのほうを向いて、
「同志たち、革命の若い闘士たち、革命の教職員たち。われわれはアインシュタイン相対性理論の反動的な本質をしっかり見極めねばなりません。その本質は、一般相対性理論にもっともはっきりと現れています。反動的相対性理論が提案する静止宇宙モデルは、物質の運動の本性を否定し、弁証法に反するものです それは、宇宙に限界があるとみなす、完全なる反動的唯心論なのです……」
 妻が滔々と演説するのを聞きながら、葉哲泰は心の中で苦笑いした。琳、わたしはおまえを惑わせたのか ほんとうのことを言うと、おまえのことがずっと不思議だった。一度、お義父さんの前で、おまえの並はずれた天性を賞賛したことがあるが思えば、義父はじつに幸運だった、早死にしたおかげでこの災難から逃れられたのだから、お義父さんは首を振って、自分の娘が学術面でなにかを生み出せるはずがないと言った。それからお義父さんは、わたしの後半生にとって、たいへん重要なことを言ってくれた。琳琳はとても聡明な子だ、だが、莫迦じゃない人間が基礎理論をやるのはよくない、と。
 それからの歳月で、わたしはこの言葉に込められた含意を何度となく思い知ることになった。琳、おまえはほんとうに聡明すぎた。早くも数年前には、学界の政治的な風向きが変わったことを察知して、行動を先どりしていた。たとえば、授業で使う物理法則や定数の名前を変えた。オームの法則を抵抗法則、マクスウェルの方程式を電磁方程式と呼び変え、プランク定数を量子定数と呼んだ……。おまえは学生たちにこう説明した。すべての科学的成果はすべての労働者大衆の知恵の結晶であり、資産階級の学術権威は、そうした知恵を盗んだだけだ、と。
 だが、そこまでやっても、おまえはいまだに、運動の主流派には受け入れられていない。いまの自分を見てみろ。〝革命教職員?がつけている赤い腕章さえ、つけることを許されていないし、語録ひとつ手にする資格もない……旧中国では立派すぎる家庭に生まれ落ちたことが、この時代のおまえにとって不運だった。おまえの両親はともに有名な学者だからな。
 アインシュタインといえば、おまえはわたしよりも多くのことを白状しないといけないだろう。一九二二年の冬、アインシュタインが上海を訪れた際、お義父さんはドイツ語が堪能だからという理由で、接待の随行員のひとりに選ばれた。おまえは何度も言ったよな。父はアインシュタインから直接教えを受けて物理学の道を歩んだ。その父の影響でわたしは物理を専攻した。だからアインシュタインは自分にとっても間接的な先生にあたるんだ、って。おまえはそのことをこのうえなく誇りにしていたし、このうえない幸運だと思っていたはずだ。
 これはのちのち知ったことだが、お義父さんがおまえに言ったことは善意の嘘だ。お義父さんとアインシュタインは、たった一度きり、それも、これ以上短くはできないほど短い交流をしたにすぎなかった。あれは一九二二年十一月十三日の朝のこと。お義父さんはアインシュタインと連れだって南京路を散歩していた。ほかに同行していたのはたぶん、上海大学の学長だった于右任ユー?ヨーレンと、《大公報》編集主幹の曹谷冰ツァオ?
グーピンたちだろう。路盤の修繕箇所を過ぎたあたりで、アインシュタインはある砕石労働者のかたわらで立ち止まり、寒空の下、ぼろ服を着て、手も顔も真っ黒に汚れた少年を黙って見ながら、お義父さんにこうたずねた。「この少年は、一日いくら稼ぐのですか」と。お義父さんは、その労働者に同じことをたずねてから、「五分銭です」とアインシュタインに答えた。これが、世界を変えた大科学者とお義父さんとの、ただ一度きりの交流だ。物理学ではない、相対性理論でもない、ただの冷酷な現実についての会話だ。お義父さんはこう言っていた。アインシュタインはお義父さんの答えを聞いたあと、また黙ってしばらくそこに立っていた。そして労働者ののろい動作をじっと見つめたまま、手にしていた煙草の火が燃えつきるまで、一度も吸おうとしなかった、と。お義父さんはこのことを回想してから、わたしにこう嘆いた。中国では、どんなにすばらしい超越的な思想もぽとりと地に落ちてしまう。現実という重力場が強すぎるんだ、と。
「頭を下げろ」男の紅衛兵のひとりが大声で命令した。もしかするとそれは、自分の恩師に対する一抹の同情の表れだったかもしれない。批判を受ける者は頭を下げる決まりだが、葉哲泰が頭を下げたら、重い鉄の三角帽はたちまち落ちてしまうだろう。もういちど帽子をかぶらせる決まりはなく、あとは言われたとおり頭を下げているだけで済むのだから。しかし、葉哲泰はなおも頭を上げたまま、弱った首の筋肉で重い鋼鉄を支えつづけた。
「頭を下げろ 反動的頑固分子」そばにいた女の紅衛兵のひとりが、腰のベルトを外して、葉哲泰を打ち据えた。真鍮のバックルが葉哲泰のひたいにぶつかり、そこにバックルのかたちがくっきりと赤く残されたあと、たちまち鬱血して黒紫色になった。葉哲泰はふらついたが、また昂然と顔を上げ、姿勢を正した。
 男の紅衛兵のひとりが口を開き、「量子力学の授業で、おまえは大量の反動的言論を撒き散らしたな」と葉哲泰を指弾し、紹琳にうなずきかけて先を促した。
 紹琳はそくざにしゃべりだした。ぐらついていまにも崩れそうな精神が完全に崩壊するのを避けるには、ひたすらしゃべりつづけるしかなかった。
「葉哲泰、これは言い逃れできないはずよ あなたは何度も学生に反動的なコペンハーゲン解釈を撒き散らした」
「それが実験結果にもっとも符合する解釈であることは厳然たる事実だ」これだけ厳しい攻撃にさらされても、葉哲泰の口調は落ちつき払っていた。紹琳はそれに驚き、畏れを抱いた。
「この解釈は、外部の観測者によって波動関数の収縮が引き起こされるというもの。これもまた、反動的唯心論の表れであって、その中でも、じっさいもっとも厚顔無恥な表現よ」
「思想が実験を導くべきか、それとも実験が思想を導くべきか」葉哲泰がたずねた。突然の反撃に、批判者たちは一瞬、言葉をなくした。
「正しいマルクス主義思想が科学実験を導くのが当然だ」男の紅衛兵のひとりが言った。
「それは、正しい思想が天から降ってきたと言うに等しい。真実は実験によって見出されるという原理を否定し、マルクス主義思想がどのようにして自然界を理解するかという原則に反している」
 紹琳とふたりの大学生の紅衛兵は、無言で同意するほかなかった。中学生や労働者出身の紅衛兵とは違って、彼らは論理を否定することができなかった。しかし、付属中学の若き闘士たち四人は、反動分子を確実に攻め落とすための革命的手段を実行した。先の少女がまたベルトで葉哲泰を打ったのにつづき、ほかの三人の少女たちもそれぞれベルトを振りまわして、さんざんに打ち据えたのである。仲間とともに革命を実行するとき、彼女たちは、仲間よりももっと革命的に──最低でも同程度に──革命を実践しなければならない。ふたりの男の紅衛兵は、これ以上問うことはなかった。だれかが革命を実践している最中にうかつに口をはさめば、革命を実践していないとの嫌疑をかけられることになる。
「おまえは授業中にビッグバン理論を撒き散らした。それは、すべての科学理論のうちでもっとも反動的なものだ」男の紅衛兵のひとりが新たな罪状を持ち出した。
「ビッグバン理論は、もしかしたらこの先いつか覆されるかもしれない」と葉哲泰は言った。「しかし、今世紀の宇宙論においては、ハッブルによる赤方偏移の発見と、ガモフが予測した宇宙背景放射の存在、このふたつの大きな発見により、ビッグバン理論こそが、宇宙の起源を説明する仮説として、現在もっとも信頼されている」「嘘よ」紹琳が叫び声をあげ、ビッグバンについて長々と講義しはじめたが、その反動的本質を深く分析することも忘れなかった。だが、四人の少女のうちのもっとも聡明なひとりは、この理論に強く惹かれ、思わずこうたずねた。
「すべての時間はその特異点から始まったの その特異点の前にはなにがあったの」「なにもない」葉哲泰は、どの少女の質問に対してもそうしていたとおり、そちらに首をまわし、慈愛のまなざしで相手を見ながら答えた。鉄の三角帽をかぶせられ、体に重傷を負った葉哲泰にとっては、大きな苦痛をともなう動作だった。
「まさか……なにもないだと 反動的だ とてつもなく反動的だ」少女がおびえたように紹琳のほうを向くと、紹琳は喜んで救いの手をさしのべた。
「つまり、ビッグバン理論には、神が介在する大きな余地があるのよ」と少女にうなずきかける。
 紅衛兵の少女はしばらく茫然としていたが、ようやく立脚点を見つけ出し、ベルトをぎゅっと握りしめた手を葉哲泰に向けた。
「おまえは──おまえは神が存在すると主張するのか」「わからない」
「なんだと」
「わからないと言ったんだよ。きみの言う神が、この宇宙の外部に存在する超意識のことだとすれば、わたしにはそれが存在するかどうかわからない。科学はそれを肯定する証拠も否定する証拠も見出していないからね」じつのところ、この悪夢のような時間のおかげで、葉哲泰はすでに、神が存在しないことを信じる方向に傾きかけていた。
 このすさまじく反動的な主張にグラウンド全体が騒然となり、壇上の紅衛兵のひとりが先導して、またもスローガンを叫ぶ声が爆発した。
「反動的学術権威、葉哲泰を打倒せよ」
「すべての反動的学術権威を打倒せよ」
「すべての反動的学説を打倒せよ」
 シュプレヒコールが静まってから、少女は大声で言った。「神など存在しない。あらゆる宗教は、民衆の精神を麻痺させるために支配階級が捏造した道具なのだ」「その考えは偏見にすぎない」葉哲泰が静かに言う。
 恥をかかされ、怒りに燃える若い紅衛兵は、この危険な敵に対して、言葉でなにを言っても無駄だと判断したらしく、ベルトを振りまわして葉哲泰に襲いかかり、残る三人の少女もすぐにそれにつづいた。葉哲泰はかなりの身長があるため、十四歳の少女たちが闇雲に振りまわすだけでは、ベルトの先がかろうじて頭に届く程度だった。しかし、頭を守っていた鉄の三角帽が最初の数回の攻撃で落下し、真鍮のバックルつきのベルトが雨つぶてのように頭や体を打ち据えると、葉哲泰はやがてついに、膝から崩れ落ちた。それに勢いを得て、紅衛兵の少女たちは崇高な闘いをさらに激しくくりひろげた。歴史が与えてくれたこの光り輝く使命に酔いしれ、信念のために、理想のために闘いつづけた。みずからの勇敢さにも大きな誇りを抱いて……。
「最高指示。これは文化闘争だ、武力闘争ではない」葉哲泰のふたりの教え子の片方が意を決してそう叫び、ふたりは同時に飛び出して、半狂乱の少女たちと葉哲泰とのあいだに割って入った。
 だが、時すでに遅かった。物理学者は壇上にじっと静かに横たわり、半開きの両目は、頭から流れ出る血をうつろに眺めているだけだった。狂乱の会場は一瞬で静寂に包まれた。動くものと言えば血の流れだけ。ゆっくりくねくねと這う赤い蛇のように壇上を流れてゆく血は、壇のへりまで達すると、下に置かれていた空の箱へと一滴ずつしたたり落ちた。ぽたぽたとリズミカルに響くその音は、次第に遠ざかってゆく足音のように響いた。
 そのときとつぜん、奇妙な笑い声が静寂を破った。ついに精神の箍たががはずれてしまった紹琳の声だった。その声が呼び覚ました恐怖が伝染し、人々はわれ先にとその場を離れはじめ、やがては大混乱に陥った。だれもがこの場所からできるだけ早く逃げ出したいと思っているようだった。あっというまにグラウンドはもぬけの殻となり、演壇の下には、ひとりの少女が残された。
 彼女の名は葉文潔イエ?ウェンジエ。葉哲泰の娘だった。
 四人の紅衛兵の少女たちによって父親の生命が奪われかけていたとき、文潔はいてもたってもいられず演壇に上がろうとしたが、そばにいたふたりの職員が彼女を必死に押さえつけ、「自分の命まで捨てる気か」と低い声で耳もとにささやいた。群衆が狂乱に支配されていたそのとき、文潔が登壇すれば、いたずらに暴徒を増やすだけだっただろう。文潔は声が嗄かれるまで、力いっぱい泣き叫んだ。だがその声は、群衆が叫ぶスローガンと声援の渦に呑まれた。
 すべてが静まり返ったとき、文潔ののどは嗄れ果てて、ひとことも声が出せなくなっていた。こときれた父親の亡骸を無言で見つめるほかなく、声に出せない無念の思いは文潔の血に溶け込んで、それから一生ついてまわることになる。群衆が散ったあとも、文潔は石像のようにただじっとそこに立ちつくしていた。体と手足は、ふたりの職員にがっちり押さえつけられていたときのまま、一ミリも動いていなかった。
 しばらくしてようやく、宙に浮いたようにかたまっていた両腕を下ろし、のろのろと壇に上がると、父親の遺体のそばに座り込んで、冷たくなった手を握り締め、ただぼんやりと遠くを見つめていた。遺体が運ばれるころになって、文潔はポケットから出したものを父親の手に握らせた。それは、父親のパイプだった。
 文潔は、群衆が残したゴミ以外なにもなくなったグラウンドを静かにあとにした。教員宿舎の入口に着いたとき、二階のわが家の窓辺から奇妙な笑い声が聞こえてきた。文潔がかつてお母さんと呼んでいた女性の声だった。
 文潔は静かにきびすを返し、足の向くままに歩き出した。
 しばらくしてようやく、文潔は阮雯ルアン?ウエンの家の前まで来ていたことに気づいた。阮先生は大学の四年間、文潔のクラス担任であると同時に、もっとも親しい友人だった。文潔が天体物理を専攻していた大学院の二年間と、その後、授業停止になってから現在までつづく文化大革命の混乱を通して、阮先生は文潔にとって、父親以外でもっとも親しい人物でありつづけた。
 阮雯はかつてケンブリッジ大学に留学していたこともあり、彼女の家は文潔にとって、じゅうぶんすぎるほど魅力的だった。阮雯の家には、ヨーロッパから持ち帰ったさまざまなすばらしい書物、油絵やレコード、それにピアノがあった。また、手の込んだ細工がほどこされた木製の小さなラックには、ヨーロッパ式のパイプが整然と並んでいた。文潔の父親が愛用していたパイプも、もともとは阮雯からのプレゼントだった。ラックに並ぶパイプは、地中海のブライヤーやトルコの海泡石など、いくつか種類があり、かつてそれらをくわえて沈思黙考していた男性の叡智が染みついているように思えたが、阮雯がその男の名を口にしたことは一度もなかった。
 この上品であたたかい小さな世界は、文潔にとって、世間の荒波を逃れて身を寄せられる港だった。しかしそれも、阮雯の家が紅衛兵に荒らされる前のこと。阮雯は文革のさなか、文潔の父親と同じように、ひどい攻撃を受けた。闘私批修会で、紅衛兵は紐で結んだハイヒールを彼女の首から吊るし、顔に口紅で落書きすることで、阮雯が腐敗した資本主義者の生活を送っているとさらしものにした。
 文潔が阮雯の家の玄関ドアを開け、中に入ると、無惨に荒らされていた部屋がすっかりきれいになっているのが見てとれた。破り捨てられていた油絵は糊で修復してもとどおり壁にかけてあり、倒されたピアノもきちんともとの位置に戻されている。ピアノは壊れて、もう弾くことはできないが、それでもきれいに拭いてある。投げ出された書物はすべて書棚に戻されている。
 阮雯はデスクの前の回転椅子に背すじを伸ばして座り、静かに目を閉じていた。文潔は阮雯のかたわらに歩み寄り、ひたいや顔や手を撫でた。どこも、氷のように冷たかった。
実のところ、文潔はこの家に入ってすぐ、からっぽになった睡眠薬の瓶が、デスクの上にさかさまに置かれていることに気づいていた。
 文潔はしばらくじっとそこに立っていたが、やがてきびすを返し、その場を離れた。悲しみは、もはや感じられなかった。ガイガーカウンターは、一定以上の放射線にさらされると、なんの反応も示さず、目盛りはゼロを示したままになる。いまの文潔は、まさにそのガイガーカウンターだった。
 文潔は阮雯の家を出るところで、最後にもう一度うしろをふりかえり、そのときはじめて気がついた。阮先生は、きれいに化粧していた。唇に薄く紅をさし、ハイヒールを履いている。
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