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宇宙の瞬き
日期:2024-06-28 11:29  点击:212
宇宙の瞬き
 汪淼は京密路を通って、密雲県へと車を走らせた。そこから黒龍潭へ向かいくねくねとした山道を、さらに進むと、ようやく中国科学院国家天文観測センターの電波天文観測基地が見えてきた。夕闇のなか、直径九メートルのパラボラアンテナ二十八基が一列に並んでいる。華々しい鋼鉄の植物が列をなしているようだった。その先には、二〇〇六年に建造された、それぞれ直径五十メートルのアンテナを擁する巨大な電波望遠鏡が二台ある。
車が近づくにつれ、汪淼は、葉文潔と楊冬の母娘が映ったあの写真の背景を思い出さずにはいられなかった。
 しかし、文潔の教え子が従事しているプロジェクトは、これらの電波望遠鏡とはなんの関係もなかった。沙瑞山博士の研究室では、主に三つの衛星の観測データの受信が行われていた。すなわち、宇宙マイクロ波背景放射の探査を目的として一九八九年十一月に打ち上げられ、まもなくその役目を終える人工衛星、二〇〇一年に打ち上げられたウィルキンソン?マイクロ波異方性探査機衛星、そして、二〇〇九年に欧州宇宙機関が打ち上げた高精度の宇宙マイクロ波背景放射探査機、人工衛星プランクである。
 宇宙全体のマイクロ波背景放射の周波数スペクトルは、温度が?の黒体放射と極めて正確に一致する。天球上の全方向からほぼ等方的に観測されるが、一〇〇万分の一単位のわずかな温度のゆらぎが局所的に存在する。
 沙瑞山の業務は、衛星の観測データに基づき、さらに正確な全宇宙のマイクロ波放射の背景地図を新たに描くことだった。
 このラボはさほど大きくない。メインコンピュータ室は衛星データの受信設備でいっぱいで、三台ある端末にはそれぞれ三つの衛星からのデータが表示されている。
 沙瑞山は、長いあいだ孤独で退屈な仕事に従事している人間が珍しく来客を迎えた喜びと興奮をあらわにして汪淼に接し、どんなデータを見たいんですかとたずねた。
「宇宙背景放射の全体的なゆらぎが見たいんです」「もうすこし……具体的に言っていただけますか」沙瑞山は汪淼のことを訝いぶかしげな目で見た。
「つまり、宇宙マイクロ波全体の、等方性のゆらぎが見たいんだ。一パーセントから五パーセントのあいだの」
 沙瑞山はにっこりした。世紀の変わり目から、密雲電波天文基地は一般の見学に開放されている。沙瑞山は、副収入を得る手段として、ガイドや講師をつとめていたから、一般人の驚くべき科学音痴ぶりに慣れっこになっていて、そういう客のためにいつも浮かべるのがこの笑顔だった。「汪先生は……ご専門じゃありませんね」「わたしの専門はナノテクで」
「ああ、やっぱり。でも、宇宙マイクロ波背景放射について基本的な知識はお持ちですね」
「知っていることはそう多くないよ。現在の宇宙論によると、この宇宙は、いまから約百四十億年前に、ビッグバンによって誕生し、それからだんだん冷えてきて、残った〝燃えかす?が宇宙マイクロ波背景放射になった。この放射は、宇宙全体を満たしていて、センチメートル波の帯域で観測できる。たしか、一九六〇年代に、ふたりのアメリカ人が、超高精度の衛星受信アンテナを調整していたとき、たまたま宇宙背景放射を発見して──」「もうじゅうぶんです」沙瑞山は手を振って汪淼の話をさえぎった。「それでは、当然ご存じでしょう。宇宙のさまざまな部分で観測される局所的なゆらぎと違って、宇宙背景放射の全体的なゆらぎは、宇宙の膨張にともなうもので、宇宙の年齢のスケールで測られる、非常にゆっくりした変化です。プランク衛星の精度でも、百万年のあいだ観測しつづけてもそういうゆらぎは探知できないかもしれない。でも先生は、今夜、五パーセントのゆらぎを見たいと もしそんなことが起きたら、どういうことかわかりますか 寿命が来た蛍光管がチカチカするみたいに、宇宙が明滅してるってことですよ」 そして宇宙は今夜、おれのために明滅するんだ、と汪淼は思った。
「きっと、葉先生の冗談ですね」沙瑞山が首を振って言った。
「冗談だったとわかれば、こんなうれしいことはないよ」汪淼は答えた。じつのところ、葉文潔はくわしいことをなにも知らないんだと言いかけたが、そうとわかったら沙瑞山に協力を拒まれるかもしれない。
「まあとにかく、葉先生から便宜をはかるようにと言われていますので、どうぞ観測していってください。たいした手間じゃありませんし。一パーセント単位の精度でいいなら、もはや骨董品のでじゅうぶんでしょう」沙瑞山はそう言いながら、端末のキーボードを忙しく叩いた。モニター上に、緑色の平坦な線が一本現れる。「ごらんください、これが現在の宇宙全体のマイクロ波背景放射のリアルタイム数値曲線です。いや、直線と呼ぶべきですね。その値は? ?です。誤差は天の川銀河の動きから生じるドップラー効果によるもので、フィルター済みです。あなたが予測するような──一パーセントを超える──ゆらぎが発生すれば、この線が赤くなり、直線が波形に変わります。世界最後の日までずっと、緑の直線のままだとぼくは信じてますけどね。このグラフが肉眼でわかるような変化を示すのを見るには、太陽が燃えつきるずっとあとまで待たないといけないでしょう」「仕事の邪魔をしてないといいんだが」
「だいじょうぶですよ。そんな低い精度でいいなら、の基礎的な観察データを使うだけで済みますから。よし、準備完了。いま以降、もしそんなに大きなゆらぎが起きたら、データは自動的にディスクに保存されます」
「起きるのは、たぶん午前一時ごろだと思う」
「おお、なんと正確な いいですとも。どのみち今夜ぼくは夜勤なんで。夕食はもうお済みですか よかった、じゃあ、見学ツアーにお連れしましょう」 この日の夜空には月が見えなかった。長い長いアンテナの列に沿ってゆっくりと歩く。
沙瑞山がアンテナを指して言った。「壮観でしょう 残念ながら、みんな使いものになりませんが」
「なぜだい」
「完成して以来ずっと、観測周波数帯では干渉が絶えなくて。最初は、一九八〇年代のポケットベル基地局でした。現在は、携帯電話ネットワークと基地局の拡大競争。ここの望遠鏡は、さまざまな科学的観測が可能ですが──空の探査はもちろん、変動電波源の探知とか、超新星爆発の名残りの観測とか──そのほとんどが、干渉が大きすぎて実際には遂行できません。国家無線電管理委員会に何度も申し入れましたが、成果はゼロ。チャイナ?モバイルやチャイナ?ユニコム、チャイナ?ネットコムのような通信大手には、注目度でとても太刀打ちできない。資金がなければ、宇宙の秘密にはなんの価値もない。さいわい、ぼくのプロジェクトは衛星データを使っているので、こういう〝観光名所?とは関係ありませんが」
「ここ数年、基礎研究の商業化はかなりの成功をおさめている。たとえば高エネルギー物理学とか。観測基地を都会から離れたところに移せばいいのでは」「それもけっきょく、金銭的な問題ですよ。現状では、干渉を技術的に除去するのが唯一の選択肢です。葉教授がいてくれたらいいんですが。この分野で大きな業績を残されたかたですから」
 文潔のことに話題が移り、汪淼は、彼女の教え子の話を通じて、文潔が嘗なめてきた辛酸の一端をようやく知ることができた。文化大革命の渦中で、父親の悲劇的な死を目のあたりにしたこと、建設兵団で罠にはめられたこと、その後しばらく消息を絶ち、九〇年代はじめにようやく北京に戻って、父親がかつて教壇に立っていた大学で天体物理学を教え、定年退職するまで勤めていたこと。
「最近になってようやく明らかになったんですが、消息不明だったその二十年あまり、先生は紅岸基地にいたんですよ」
「紅岸」汪淼は驚いて足を止めた。「まさか、あの、噂の……」「ほとんどは真実だと判明しました。紅岸プロジェクトのために自動翻訳システムを開発した研究者のひとりがヨーロッパに移民して、昨年、本を出したんです。汪先生が耳にした噂の大部分は、その本が出典でしょう。紅岸プロジェクトに参加した人間の多くはいまも健在です」
「まるで途方もない……伝説みたいな話だ」
「とりわけ、あの時代に起きたことは──まったく信じられませんね」 ふたりはもうしばらく話をつづけた。沙瑞山が、汪淼の奇妙な要望の背後にある目的をたずねたが、汪淼は答えず、沙瑞山も二度とその質問をしなかった。彼の専門知識に反する要望に対して積極的に興味を持つことは、天体物理学者としてのプライドが許さなかったのである。
 それからふたりは、観光客向けの深夜営業のバーに入り、二時間ほど過ごした。沙瑞山はビールが進むにつれてさらに饒舌になったが、汪淼のほうは気が気でなかった。頭の中にはずっとあの緑色の直線が浮かんでいる。あと十分で午前一時というころになって、沙瑞山はようやく、汪淼の何度目かの懇願を受け入れて、ラボに戻った。
 このときにはもう、パラボラアンテナの列を照らしていたスポットライトは消灯していて、夜空をバックにしたアンテナは、二次元の抽象記号のようだった。そのすべてが同じ角度で空を仰ぎ見ているところは、いまかいまかとなにかを待ち受けているように見えた。春の夜のあたたかさにもかかわらず、この光景に汪淼はぞくっとした。『三体』で見たあの巨大振り子を思い出したのだ。
 ラボに戻ると、ぴったり午前一時だった。端末のモニターに目を向けたそのとき、ちょうどゆらぎがはじまった。水平の直線が波形に変わる。ピークとピークの間隔は不規則だった。線の色が赤になり、冬眠から目覚めた蛇が体内に血がまわるにつれて体をくねらせはじめたように見える。
「きっとの不具合だ」沙瑞山は恐怖の目で波形を見つめながら叫んだ。
「不具合じゃない」汪淼の口調は過剰なまでに冷静だった。こういう光景を前にしても自分を失わないすべを彼はすでに学んでいた。
「すぐにわかりますよ」沙瑞山はそう言って、他の二台の端末のところに行って矢継ぎ早にキーボードを叩き、他のふたつの人工衛星──とプランクが観測している背景放射のリアルタイム?データを呼び出した。
 三つの波形は、まったく同じように同期して動いている。
 沙瑞山はさらにノートを持ってきて、あわただしく起動すると、ケーブルを挿してから電話をかけた。こちら側の言葉しか聞こえないが、ウルムチ電波観測基地に連絡をとろうとしているのが汪淼にもわかった。しばらく待ったが、沙瑞山は汪淼になんの説明もせず、鬼の形相でノートの画面上のブラウザを凝視している。荒い息遣いが汪淼の耳に届いた。
 数分後、ブラウザに赤い波形が現れた。他の三つの波形と正確に同期して動いている。
 こうして、三つの観測衛星と地上の観測基地一カ所が、あるひとつの事実を確認した。
すなわち──宇宙が明滅している。
「波形をプリントアウトできる」汪淼がたずねた。
 沙瑞山はひたいの冷や汗を拭いながらうなずき、マウスを動かして『印刷』をクリックした。汪淼はレーザープリンタから一枚目が出力されるなり、それをひったくって、ピークとピークのあいだの距離の長短を鉛筆でモールス符号に置き換え、ポケットに入れてあったモールス信号表と首っ引きで調べた。
 トンツーツーツーツー、トンツーツーツーツー、トントントントントン、ツーツーツートントン、ツーツートントンツーツー、トントンツーツーツー、トントントントンツー、ツーツートントンツーツー、トントントンツーツー、ツーツートントントン。これが1108:21:37だ。
 トンツーツーツーツー、トンツーツーツーツー、トントントントントン、ツーツーツートントン、ツーツートントンツーツー、トントンツーツーツー、トントントントンツー、ツーツートントンツーツー、トントントンツーツー、ツートントントントン。これが1108:21:36。
 トンツーツーツーツー、トンツーツーツーツー、トントントントントン、ツーツーツートントン、ツーツートントンツーツー、トントンツーツーツー、トントントントンツー、ツーツートントンツーツー、トントントンツーツー、トントントントントン。これが1108:21:35。
 カウントダウンは全宇宙のスケールでつづいている。すでに九十二時間が経過し、残りはわずか一一〇八時間。
 沙瑞山は焦燥感にかられたようにうろうろと歩きまわり、ときおり足を止めては、汪淼が書き出している数字を見ている。とうとう耐え切れなくなったように、「いったいどういうことなのか教えてくださいよ」と叫んだ。
「とても説明できないことなんだ、沙博士。信じてくれ」汪淼は、背景が印刷された紙の山を押しのけ、自分が書いた数字の列を見ながら、「ひょっとしたら、三つの観測衛星と観測基地がぜんぶ不具合を起こしているのかも」
「そんなことありえない わかってるでしょう」
「破壊工作だとしたら」
「やっぱりありえない 三つの衛星と地上観測基地のデータを同時に改変する そんなことができるとしたら、超自然的な破壊工作ですよ」 なるほど。宇宙の明滅よりも、超自然的な破壊工作のほうがまだいい。しかし、汪淼が心の中ですがりついた一縷の希望は、たちまち沙瑞山に打ち砕かれた。
「たしかめるのは簡単です。宇宙背景放射のゆらぎがここまで大きければ、肉眼で観測できるはずだ」
「なんのお話だ 宇宙背景放射の波長は七センチメートル。可視光線の波長より五桁も長いんだぞ。そんなものがどうして見える」
「眼鏡をかけるんです」
「眼鏡」
「首都天文館のためにつくった、一種の科学おもちゃですよ。現在の技術レベルだと、アーノ?ペンジアスとロバート??ウィルソンが半世紀ほど前に宇宙マイクロ波背景放射の発見に使用した直径六メートルのラッパ型アンテナは、眼鏡くらいの大きさにミニチュア化できます。その眼鏡の中にコンバーターを入れて、探知した背景放射の波長を五桁圧縮し、七センチメートル波が赤の可視光線になるようにしたんです。来館者は、夜にこの眼鏡をかけると、宇宙マイクロ波背景放射を自分の目で見られる。いまなら、宇宙がチカチカするのを見られる」
「それはいまどこに」
「天文館です。二十個以上ありますよ」
「五時までにそれを手に入れたい」
 沙瑞山がどこかに電話をかけた。相手は、しばらくしてからようやく応答したらしい。
沙瑞山が必死に口説いた結果、夜中に叩き起こされた相手は、一時間後に天文館で汪淼を待っていてくれることになった。
 別れ際に、沙瑞山が言った。「ぼくは行きません。いま見たものでじゅうぶんです。確認するまでもない。でも、そのときが来たら、真実を話してくれることを祈ってますよ。
もしこの現象がなんらかの研究成果につながれば、汪先生のことは一生忘れません」 汪淼は車のドアを開けながら、「ちらつきフリッカーは午前五時に終わる。この件は深追いしないほうがいい。信じてくれ、なんの成果もありえない」 沙瑞山は汪淼をしばらくじっと見つめ、それからうなずいた。「わかりました。いま、科学者のあいだでは奇妙なことが起こっていますし……」「そのとおり」汪淼はそう言って運転席に滑り込んだ。その話題についてこれ以上話したくなかった。
「ぼくらの番なんですか」
「少なくとも、わたしの番ではある」汪淼はそう言って車のエンジンをかけた。
 一時間後、汪淼は北京市内に戻り、新天文館の前で車を降りた。真夜中の都会の明かりが、巨大なガラス建築の半透明な壁を通して、内部構造をぼんやりと照らし出す。建築家が宇宙感を出したかったのだとしたら、それは成功していると汪淼は思った。なにかが透明であればあるほど、それは謎めく。宇宙自体、透明なものだ。視力さえよければ、好きなだけ遠くを見られる。しかし、遠くを見れば見るほど、宇宙は謎めいてくる。
 寝ぼけまなこの天文館スタッフが、すでに入口で汪淼を待ち受けていた。手にしていた小型のスーツケースを汪淼に渡して言った。「この中に、眼鏡が五つ入っています。すべて充電済みです。左側のボタンがスイッチで、右側で光度の調節をします。上にはまだ十個以上あります。好きなだけ見てもらってかまいませんが、わたしは上の部屋で寝てますよ。沙博士ってのは、まったくいかれてるな」そう言うと、暗い館内へ入っていった。
 汪淼は車の後部座席にスーツケースを置くと、蓋を開けて、眼鏡をひとつとりだした。
スーツのヘッドマウントディスプレイによく似ている。車の外へひとつ持ち出して、レンズ越しに都会の夜景を見てみたが、どこも変わったところはなく、ただ暗いだけだった。
そのときようやく、スイッチを入れる必要があるんだったと思い出した。
 電源をァ◇にすると、都会はたちまち、ぼんやり輝くいくつもの光輪に変わった。大部分は輝度が固定されているが、ちらついているものや移動しているものもいくつかある。
これらはすべて、センチメートル波の放射で、それが眼鏡によって可視光へと変換されているのだ。それぞれの光輪の中心が放射源だ。もともとの波長が長すぎるので、そのかたちをはっきり見ることはできない。
 顔を上げて、かすかな赤い光で輝く夜空を見た。汪淼はいま、宇宙マイクロ波背景放射を見ている。
 この赤い光は、百億年前のビッグバンの名残りだ。まだ余熱が残る、天地創造の燃えさし。星はひとつも見えなかった。本来なら、眼鏡によって、可視光線は見えない波長へと圧縮されているため、それぞれの星は黒い点に見えるはずだが、センチメートル波の回折が他のすべてのかたちや細部を呑み込んでいる。
 眼鏡越しに見る光景に目が慣れてくると、夜空のかすかに赤い背景が、たしかに脈動しているのが見えた。まるでこの宇宙全体が、風に揺れるランプの炎でしかないみたいに。
 チカチカ明滅する夜空の半球の下に立ち、汪淼はふいに、宇宙がしゅるしゅると縮んで、自分ひとりを閉じ込めるくらい小さくなってしまったように感じた。宇宙はぎゅっと締めつけられた心臓で、すべてを覆う赤い光は循環する半透明の血液。そして自分はその血液の中に浮かんでいる。赤い光のフリッカーは不規則だった──不整脈が出ている。汪淼は、人間の知性には永遠に理解できない、奇妙でひねくれた、巨大なものの存在を感じとった。
 汪淼は眼鏡を外し、タイヤのそばの地面にへたりこんだ。真夜中の都会の景観は、しだいに可視光線のリアリティをとりもどしてゆく。しかし、汪淼の視線はなおもさまよい、ほかの光景を見ようとした。向かいの動物園の正門のそばのネァ◇サインのうち、一本の蛍光灯が切れかけて、不規則にちらついている。その近くでは、夜風に揺れる低木の葉が街灯の光を反射して規則的にちらついている。遠くにある北京展覧館のスターリン様式の尖塔の上にある五角星も、下の道路を走る車のヘッドライトの光を反射して、ランダムにちらついている……。
 汪淼はそうしたちらつきをモールス信号としてなんとか解読しようとした。かたわらで風に吹かれている旗の波打つひだや、道端の水たまりの表面の波立ちまで、彼にメッセージを送っているような気がした。すべてのメッセージを理解しようと奮闘しているあいだにも、一秒また一秒と、ゴースト?カウントダウンが進んでいくのを感じていた。
 いつまでそこにそうしていたのかわからない。とうとう天文館のスタッフが出てきて、汪淼に見終えたかとたずねた。しかし、汪淼の顔を見て、スタッフの眠そうな表情は吹き飛び、恐怖の色が浮かんだ。スタッフは眼鏡をスーツケースにしまうと、数秒間、また汪淼を見つめてから、スーツケースを手にして、そそくさと立ち去った。
 汪淼は携帯電話をとりだして申玉菲シェン?ユーフェイへ電話をかけた。申玉菲はすぐに電話に出た。もしかしたら、彼女も眠れない夜を過ごしていたのかもしれない。
「カウントダウンが終わったらどうなる」汪淼が力なくたずねた。
「さあね」このひとことで、電話は切れた。
 どんな可能性があるだろう。楊冬のように、おれ自身が死ぬのか。
 ひょっとしたら、数年前に起きたインド洋の大津波みたいな大災害が起こるのかもしれない。だがだれも、それをおれのナノマテリアル研究プロジェクトと関連づけようとは思わないだろう。だとしたら、二度の世界大戦を含め、これまでの大きな災いの数々も、それぞれゴースト?カウントダウンの末にもたらされたものなのだろうか それらすべての災厄の背後で、だれも注目しない自分のような人間が最終的な責任を担っているのか それとも、全世界の終末を示すシグナルかもしれない。このひねくれた宇宙にとって、それはむしろ解放かもしれない。
 ひとつだけ確信できることがある。ゴースト?カウントダウンの終わりになにがもたらされるとしても、残り一〇〇〇時間あまりのあいだ、その最後に対する不安と恐れが残酷な悪魔のように汪淼をいたぶりつづけ、ついには心を押しつぶしてしまうだろう。
 汪淼は車に乗り込んで、天文館をあとにした。街の中、あてもなく車を走らせる。夜明け前の道路はがらがらだったが、スピードを上げようとは思わなかった。車の速度を上げれば、カウントダウンも早くなるような気がした。
 東のほうに朝日の光が射しはじめると、汪淼は路肩に駐車して車を降り、またあてもなく歩き出した。頭の中はからっぽだった。あの暗く赤い背景放射の上に、カウントダウンだけが表示され、数字が減りつづけている。まるで自分が、シンプルなストップウォッチか、だれのために鳴るのかもわからない弔鐘に変身してしまったような気がした。
 空が明るくなるころ、汪淼は歩き疲れてベンチに座り込んだ。顔を上げ、無意識にたどり着いた場所がどこなのかに気づいて、わけもなく身震いした。
 汪淼はいつの間にか、王府井の天主堂前に座っていた。薄く白い夜明けの空のもと、三層のロマネスク建築が擁する三つのドーム屋根は、三本の黒い巨大な指が汪淼のために暗い宇宙のなにかを指し示しているように見えた。
 立ち上がって歩き出そうとしたとき、教会の中から賛美歌が流れてきて、思わず足を止めた。きょうは日曜日ではない。たぶん、聖歌隊の練習だろう。曲は、復活祭のミサでよく歌われる『聖霊来たれり』だった。賛美歌の厳粛さが深まるにつれて、宇宙がふたたび小さく縮んでいくように感じた。宇宙はがらんとした教会へと変わり、円天井は背景放射の赤く光るゆらぎに隠されている。汪淼はこの広々とした教会の床を這う一匹の小さなアリにすぎない。震える心臓を姿の見えない巨大な手で撫でられているような気がして、よるべない赤ん坊に戻ってしまう。心の奥深くで汪淼をしっかり支えていたものが、熱い蠟のように柔らかく溶けて崩れていく。汪淼は両手で顔を覆って泣き出した。
「わははは、またひとり脱落者が出たか」
 うしろからとつぜん聞こえてきた笑い声に、汪淼の涙が止まった。
 振り向くとそこに、史強シー?チアン隊長が、煙草の煙を盛大に吐き出しながら立っていた。
 
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