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19 三体   アインシュタイン、単振り子、大断裂
日期:2024-06-28 13:34  点击:229
 19 三体   アインシュタイン、単振り子、大断裂
汪淼が『三体』に五回目のログインを果たしたとき、夜明けの世界はがらりと変わっていた。これまでの四回すべてに登場した大きなピラミッドは三恒星直列で壊滅し、その場所には現代的な高層建築が出現していた。そのダークグレーのビルは、汪淼にとって見慣れたものだった。国際連合本部ビルだ。
 彼方には、背の高いビルがたくさん林立している。おそらく乾燥倉庫だろう。ビルの表面はすべて、完全反射の鏡面加工が施され、夜明けの光を浴びて、大地からにょきにょき生えてきた巨大なクリスタルの植物のように見える。
 そのとき、モーツァルトを奏でるバイァ£ンの調べが聞こえてきた。さほど上手い演奏ではないが、自分の楽しみのために弾いているような、独特の魅力がある。弾き手は、国連本部ビル正面のステップに腰を下ろしたホームレス風の老人だった。乱れた銀髪を風になびかせている。足もとにはぼろぼろの山高帽が置いてあり、投げ銭が何枚か入っていた。
 汪淼はふいに太陽に気づいた。だが、その太陽は、朝日の光とは反対側の地平線から昇ってきた。そちら側の空はなおも漆黒の夜空が広がり、太陽が昇る前の曙光がまったくない。
 その太陽はとてつもない大きさで、半分ほど見えている円盤は地平線の三分の一を占めている。汪淼の動悸が速くなった。こんなに大きな太陽は、また大きな災厄の到来を意味するとしか思えない。だが、汪淼が振り向くと、さっきの老人は、なにごともなかったかのように、なおも平然とバイァ£ンを弾いている。その銀髪は、太陽の光を浴びて、燃え立つように輝いていた。
 巨大な太陽は、老人の頭髪と同じ銀色だった。青白い光を大地に投げているが、汪淼はその光に、すこしもあたたかさを感じなかった。すでに地平線から完全に姿を現したその太陽を、汪淼はじっと見つめた。銀色に光る巨大な円盤に、木目状の模様がはっきり見てとれた。山脈だ。
 そのときようやく、汪淼は理解した。この円盤は、自身では光を放っていない。本物の太陽の光を反射しているだけなのだ。地平線から昇ってきたこの円盤は、太陽ではなく、ひとつの巨大な月だ。巨大な月は、肉眼でもわかるペースでぐんぐん空を移動してゆく。
その過程で、満月だったのがだんだん欠けて半月になり、それから三日月に変わった。老人の穏やかなバイァ£ンの音色は、朝の冷たい風に乗って漂っている。宇宙の壮大な光景は、まるで音楽が物質を生み出したかのようで、汪淼はその美しさに魅了された。
 巨大な三日月はいま、夜明けの光の中へ落ちていき、さっきよりずっと明るくなった。
ふたつの輝く先端だけが地平線上に残されたところは、太陽に向かって突進する巨大な宇宙牛の二本の角の先端のように見えた。
「コペルニクスさま、お急ぎでしょうが、ちょっと足を休めてください」巨大な月が完全に沈んでしまうと、老人が顔を上げて言った。「そうすれば、モーツァルトをしばしお楽しみいただいたあとで、わたしもランチにありつけますから」「人違いだったらすみませんが──」老人のしわだらけの顔を見ながら汪淼は言った。しわは長く、一種のハーモニーを奏でるかのように、なだらかなカーブを描いている。
「人違いではありません。わたしはアインシュタインです。天帝を信仰するあまり、捨てられてしまったあわれな人間です」
「さっきのあの巨大な月はなんですか これまでに一度も見たことがありません」「もう冷えました」
「はあ」
「大きな月のことですよ。わたしが子どもの時分はまだ熱かった。中天まで昇ると、中央の平原に赤い輝きが見えた。しかし、もう冷えた……大断裂について聞かれたことはないですかな」
「ありません。なんですか、それは」
 アインシュタインはため息をついて首を振った。「その話はよしましょう。過去は忘れることです。わたしの過去も、文明の過去も、宇宙の過去も──なにもかも、思い出すのはつらすぎる」
「あなたはなぜこんなことに」ポケットを漁ると小銭が出てきたので、汪淼は腰をかがめて帽子の中にお金を投げ入れた。
「ありがとうございます、コペルニクス先生。天帝がお見捨てにならないことを祈りましょう。といっても、その点について、わたしはあまり信じられませんが。あなたやニュートンたちが、人列コンピュータの助けを借りてつくりあげたモデルは、正解にきわめて近づいていました。しかし、残されたわずかなエラーが、ニュートンたちにとって越えられない溝でした。
 わたしがいなくても、いつかはだれかが特殊相対性理論を発見しただろうとずっと思っていました。しかし、一般相対性理論はまたべつです。ニュートンに足りなかったわずかな考慮とは、一般相対性理論に記されている、重力による時空のひずみが惑星の軌道に与える影響でした。それがもたらす誤差は小さいものの、計算結果に対する影響は決定的なものでした。古典力学の方程式に、時空のひずみによる摂動の修正を加えれば、正確な数学モデルが得られるでしょう。それに必要な計算資源は、あなたがたが東洋で実現したものよりはるかに大きくなりますが、現代のコンピュータなら、簡単に提供できます」「計算結果は、天文学的な観測によって実証されたのですか」「そうだとしたら、わたしがここにいると思いますか ただ、審美的な観点からすれば、わたしが正しく、宇宙のほうがまちがっているはずです。天帝はわたしを捨て、ほかのみんなもわたしのことを捨てた。プリンストン大学はわたしを教授職から解任し、ユネスコは科学顧問という肩書きさえ与えてくれなかった。以前なら、向こうがひざまずいて頼んできても、わたしが断るほうだったのに。イスラエルに行って大統領になることさえ考えましたが、彼らは考えを変え、わたしはただのペテン師だと言ってきた……」 アインシュタインは、バイァ£ンをかまえて、さっき中断したところからまた弾きはじめた。汪淼はしばらくそれを聞いてから、国連ビルの正面玄関のほうへ歩き出した。
「中にはだれもいませんよ。国連総会の出席者は全員、ビルの裏でやってる単振り子起動式典に参加していますから」アインシュタインがバイァ£ンを弾きながら言った。
 国連ビルの裏手にまわった汪淼は、息を呑むような光景に迎えられた。それは、天まで届くほどの高さの巨大な振り子だった。じつのところ、ビルの正面からも、その一部は見えていたのだが、そのときはまだ、それがなんなのかわかっていなかった。
 それは、汪淼がはじめて『三体』にログインしたとき、戦国時代の大地から見た、太陽神を眠らせるために伏羲が建造したあの巨大振り子によく似ていた。しかし、いま目の前にある巨大振り子は、すっかり現代化されていた。空中に架かる吊り橋を支えるふたつの高い塔は金属製で、どちらもエッフェル塔並みの高さがある。流線型の振り子もやはり金属製で、その表面は電気めっき加工されたつるつるの鏡面だった。金属製の振り子を吊り下げているワイヤロープは超高強度な新素材で、ほとんど目に見えないほど細く、まるでふたつの高い塔のあいだに振り子が浮かんでいるように見える。
 巨大振り子の下にはスーツ姿の人々がおおぜい集まっている。おそらく、国連総会に参加する各国の首脳たちだろう。彼らはそこここで、なにかを待つように、声をひそめて話をしている。
「おお、コペルニクス。五つの時代を渡り歩いた人だ」だれかが声高に叫んだ。ほかの者たちも次々と汪淼に歓迎の意を表す。
「しかも、あなたは、あの戦国時代の振り子をその目で見たんだったね」やさしい顔立ちの黒人が、汪淼と握手しながら言う。そばにいた人が、こちらは国連事務総長ですと紹介した。
「ええ、見ました。ですが、なぜいま、また振り子を建造するんですか」汪淼がたずねた。
「これは三体記念モニュメントと呼ばれている。墓碑でもある」事務総長は金属製の振り子を仰ぎ見て言った。ここから見ると、潜水艇ほどの大きさに見えた。
「墓碑 だれのですか」
「努力に対する墓碑だ。二百サイクルもの文明にわたってつづけられてきた努力、三体問題を解くための努力、太陽の運行法則を見つけるための努力」「その努力は終わったのですか」
「そう。いまのところは、完全に終結した」
 汪淼は少し迷ってから、資料をとりだした。それは魏成の三体問題の数学モデルを要約したものだった。「わたしは……まさにそのために来たんです。三体問題を解くための数学モデルを持ってきました。成功する可能性はきわめて高いと信じています」 そう言ったとたん、汪淼はまわりの群衆が興味を失うのがわかった。彼らは汪淼のそばから離れ、また自分の仲間のところへと戻り、もとの話を再開した。ある者は、汪淼のそばを離れるとき、笑いながら首を振っていた。事務総長は資料を手にすると、ろくに見もしないで、そばにいた痩せ型の眼鏡をかけた人物に手渡した。
「あなたの名声に敬意を表して、これはわたしの科学顧問に見せよう。じっさい、ここにいる人間は全員、あなたのことを尊敬している。もしほかの人間がいまのあなたと同じことを言ったのなら、嘲笑されていただろうが」
 資料を受けとった科学顧問がぱらぱらとめくりながら言った。「進化的アルゴリズムか コペルニクス、あなたは天才だ。このアルゴリズムを考え出せた者は、みな天才だ。
きわめて高い数学能力だけでなく、想像力も必要だからね」「つまり、すでにほかのだれかがこういう数学モデルを構築したということでしょうか」「うむ。さらに数十種類の数学モデルがある。そのうちの半数以上が、あなたのモデルよりも上をいっている。それらはすでにコンピュータ上で実行中だ。過去二世紀のあいだに、この種の巨大な量の計算がこの世界の活動の主流になった。みんな、最後の審判の日を待つように結果を待っていたんだ」
「それで、その結果は」
「すでに決定的に証明された。三体問題に解は存在しない」 汪淼は巨大な金属製の振り子を仰ぎ見た。それは朝日を浴びてきらきらと光り輝き、カーブした鏡面は、世界の瞳のように周囲のすべてを映している。かつて、汪淼と周の文王は、まさにこの場所に林立する巨大な振り子のあいだを通って紂王の宮殿へ向かった。
あれからいくつもの文明が滅亡しては勃興してきたが、歴史はゆるやかで大きな円を描き、またふりだしの地に戻ってきたのだ。
「はるかむかしに予想されていたとおりだった」科学顧問が言った。「三体系はカァ」系だ。わずかな誤差が無限に拡大することもありうる。運行パターンを数学的に予測することは、本質的に不可能だ」
 汪淼はみずからの科学知識や思考体系が一瞬のうちに不確かになり、前例のない混乱にとってかわったような気がした。「もし三体系のようにものすごくシンプルな配置が予測不能のカァ」だとするなら、はるかに複雑な宇宙全体を律する法則が発見できると、どうして信じられるでしょうか」
「天帝は恥知らずの老いた賭博師ですよ。彼はわれわれを見捨てた」いつのまにかこちらに来ていたアインシュタインが、バイァ£ンの弓を振りまわしながら言った。
 事務総長がゆっくりとうなずく。「そう、神は賭博師。三体文明の唯一の希望も、やはり賭けをすることだ」
 このときにはもう、地平線の暗いほうの側から、巨大な月が昇り、振り子の鏡面に映る銀色の巨大円盤が奇妙に波打っていた。振り子と月のあいだに神秘的な共感が結ばれたかのようだ。
「今回のこの文明は、高度に発達した段階にあるようですね」汪淼が言った。
「そのとおり。原子力エネルギーを手中にして、情報化の時代に移っている」事務総長はあまり熱のない口調で言った。
「だとすれば、まだ希望はあります。たとえ三太陽の運行の法則を理解できなくても、文明が発展しつづければ、壊滅的な災厄に対して防護策を講じることで乱紀を生き延びられるかもしれない」
「かつてはそう考えられていた。三体文明が何度滅亡してもまた甦り、先へ先へと発展をつづけてきた原動力のひとつだ。しかしそんな希望がいかにおめでたい考えだったか思い知らせてくれたのがそれだよ」事務総長は昇ってくる巨大な月を指さした。「たぶん、あなたがこの巨大な月を見たのはこれがはじめてだろう。じつのところ、これはもう、月ではない。この惑星の約四分の一の大きさがあるから、二重惑星のかたわれと呼ぶべきだね。大断裂の産物だ」
「大断裂」
「前の文明を壊滅させた天災だ。そのひとつ前の文明に比べると、彼らはじゅうぶんな時間的余裕を持って、災厄を予知していた。残された記述から、文明の天文学者は早い段階で飛星静止を観測していたことがわかっている」
 飛星静止という言葉を聞いて、汪淼の心臓がぎゅっと締めつけられた。飛星の静止は三体世界最大の凶兆だ。飛星、もしくは〝遠い太陽?が、背景の星野に対して完全に静止しているように見え、太陽の運行のベクトルとこの惑星の運行のベクトルが一直線に並んだ状態を意味する。
 これには三つの解釈がある。ひとつは、太陽と惑星は同じ速度で同一方向に運動している。ふたつめは、太陽と惑星がたがいに遠ざかっている。三つめは、太陽と惑星が衝突しようとしている。文明以前では、三つめの可能性は純粋に理論的なもので、実際に起きたことは一度もなかった。しかし、それに対する人々の恐れや警戒はまったく衰えることがなく、〝飛星静止?は多くの三体文明の中でもっとも不吉な呪いの言葉となった。たったひとつの飛星静止でも、万人を恐怖させるのにじゅうぶんだった。ところが──「そのとき、三つの飛星が同時に静止した。文明の人々は、空に静止する三つの飛星を、彼らの惑星にまっすぐ落ちてくる三つの太陽を、なすすべもなく見上げた。数日後、太陽のひとつが、外側のガス層が見える距離まで近づいた。静かな真夜中、その飛星はとつぜん、燃え上がる太陽に変わった。三十数時間のインターバルをはさんで、残るふたつの飛星も同様に太陽になった。ただしこれは、ふつうの三太陽の日とは違っていた。最後の飛星が太陽に変わったときには、ひとつめの太陽はすでに、この惑星のものすごく近くをかすめて通過していた。その直後、他のふたつの太陽も、それよりさらに接近し、ロシュの限界をはるかに超えて三体世界をかすめた。三つの太陽が三体世界に及ぼす潮汐力は、惑星の自己重力よりも大きくなる。ひとつめの太陽は惑星の地質構造を最深部まで揺さぶり、ふたつめの太陽は惑星の核にまで達する巨大なひび割れをつくり、三つめの太陽は惑星を真っ二つに裂いた」
 国連事務総長は空に昇りきった巨大な月を指さした。
「あれが、小さいほうの半分だ。上には文明の廃墟が残されているが、もはや生命のない世界だ。あれは、三体世界の歴史すべてを通じて最大の災厄だった。惑星がふたつに割れてから、いびつなかたちだったふたつの破片は、やがて自己重力によってふたたび球のかたちになった。惑星の中心にある超高温で超高密度のコア物質が地面に噴き出し、海洋は溶岩の熱で沸騰し、大陸はマグマの上を氷山のように漂った。大陸と大陸がぶつかって大地は海のように柔らかくなり、標高数万メートルもの巨大な山脈が一時間のうちに隆起したかと思うと、一時間のうちに消え失せた。
 しばらくのあいだ、ふたつに割れた惑星は溶岩流でつながっていて、それが宇宙を流れる川になっていた。やがて溶岩流が冷えて、ふたつの惑星のまわりを囲むリングになった。しかし、惑星の摂動により、どちらのリングも安定しなかった。リングを構成する岩石は次々に地表に落下して、数世紀にもわたって巨石の雨が降りつづいた……。
 それがどれほどの地獄か、想像できるね このカタストロフがもたらした生態系の破壊は、この惑星の歴史上で最悪だった。伴星ではすべての生命が絶滅し、こちらの主惑星も、ほとんど生命のない世界に変わってしまった。
 しかし最終的に、生命の種は、ここでふたたび芽を出すことに成功したんだ。主惑星の地質状態が安定するのにともない、まったく新しい大陸とまったく新しい大洋で、進化はまたよちよち歩きをはじめた。そしてついに、一九二番目の文明が勃興した。その全プロセスには、九千万年を要した。
 この宇宙で、三体世界が位置する場所は、われわれが想像していたよりさらに苛酷だった。次に飛星静止が起きたらどうする この惑星が太陽のへりをかすめるのではなく、その灼熱の海の中にまっすぐ突っ込んでしまう可能性が非常に高い。時間のスパンを長くとって考えれば、この可能性は確実に実現する。
 これはもともと、ただの恐ろしい推測にすぎなかった。だが、最近の天文学上の発見によって、三体世界の運命について、われわれはすべての希望を失うことになった。この研究は、この星系に残されたさまざまな手がかりをもとに、恒星や惑星の位置関係の歴史を再現することが目的だった。しかし、研究の結果、発見されたのは、太古の昔、三体星系には十二の惑星があったという事実だった。にもかかわらず、いまはたったひとつしか残っていない。
 その理由は、ひとつしか考えられない。長い長い星系の歴史の中で、他の十一の惑星はすべて、三つの太陽に呑み込まれてしまったんだ われわれの惑星は、宇宙版グレート?
ハンティングの生き残りにすぎない。文明が百九十二回も再生できたのは、ただ幸運に恵まれていただけだ。さらに、その後の研究によって、われわれはこの三つの恒星の〝呼吸?
という現象を発見した」
「恒星の呼吸」
「もののたとえだよ。あなたは太陽の外側のガス層を発見したが、そのあなたも知らなかったことがある。ガス層は、永劫の昔から、膨張と収縮のサイクルをくりかえしている。まるで呼吸するようにね。ガス層が膨張するとき、その厚さは十数倍に増大する。その結果、太陽の直径も、ものすごく大きくなる。まるで巨人のミットのように、惑星を楽々とキャッチできるようになるわけだ。太陽のそばを通過するとき、惑星はこのガス層の中に入り、激しい摩擦によって減速し、最後は彗星のように長い炎の尾を引いて、太陽の燃えさかる海へと落ちていく。
 研究結果によれば、三体星系の長い歴史において、太陽のガス層が膨張するたびごとに、ひとつかふたつの惑星が呑み込まれている。つまり、他の十一の惑星は、太陽のガス層の膨張が最大に達したとき、次々に火の海へと落ちていったんだ。三つの太陽のガス層はすべて収縮状態にある。そうでなければ、前回、三太陽とすれ違ったとき、この惑星はどれかの太陽の中に落ちていただろう。学者たちの予測によれば、直近の膨張は、いまから百五十万年後から二百万年後に発生するそうだ」「こんな恐ろしい場所には、もうこれ以上いられない」アインシュタインが言った。老いた物乞いのようにバイァ£ンを抱えて地面にうずくまっている。
 事務総長がうなずいた。「もうこれ以上、ここにはいられない。三体文明にとって唯一の道は、この宇宙と、いちかばちかの賭けをすることだ」「どんな賭けを」汪淼がたずねた。
「三体星系を離れて、星々の大海に漕ぎ出すんだ。この銀河の中で、移民できる新しい惑星を見つけなければならない」
 そのとき、汪淼はなにかが軋きしむような音を聞いた。見ると、ウィンチがギリギリと巻かれて、細いワイヤが巨大な金属製の振り子をひっぱりあげている。振り子がいちばん高い位置まで来たとき、その背後では、巨大な三日月の残月がゆっくりと朝日の光の中に沈もうとしていた。
 事務総長がおごそかに宣言した。「振り子、起動」 振り子を吊り上げていたワイヤが解放され、巨大な金属製の振り子はなめらかな弧を描いて音もなく落ちていく。はじめはゆっくりした動きだったが、すぐに加速して、孤のいちばん低い地点で速度は最大に達した。振り子が空気を切り裂き、風の音が深く反響する。そのこだまが消えたときには、金属製の振り子はさっきと同じ弧を描いて同じ高さまで昇り、一瞬滞空したあと、反対方向に振れはじめた。
 汪淼は振り子の動きが巨大な力を生み出しているのを感じとった。振り子が振れるたびに大地が揺さぶられるような気がする。現実世界の振り子と違って、この巨大な振り子の周期は一定ではなく、つねに変化している。これは、巨大な月の引力がたえず変化しているためだ。巨大な月が惑星のこちら側にあるときは、その引力が惑星の引力を部分的に打ち消すため、振り子の重量が軽くなる。月が惑星の反対側にあるときは、惑星の重力に月の引力が加算されて、振り子の重量が増大し、大断裂以前に近いくらいの重さになる。
 三体振り子モニュメントの迫力ある運動を見上げながら、汪淼は自問した。これは、秩序に対する渇望を表しているのか、それとも混沌への屈服を表しているのか 振り子は、巨大な金属の拳こぶしのようにも見えた。なにも感じない宇宙に向かって、永遠にふるいつづける拳。三体文明の不屈の雄叫びを、音もなく発している……。
 あふれる涙でぼやける視界の中、動く振り子を背景に、テキストが現れた。
 四五一年後、文明は、同時に出現した双子の太陽の烈火によって滅亡しました。文明は、原子力時代及び情報化時代に到達していました。
 文明は、三体文明にとってマイルストーンでした。三体問題に解が存在しないことをついに証明したのです。すでに百九十一回もくりかえされてきた無駄な努力をあきらめ、未来の文明のために新たな進路を定めました。こうして、『三体』のゴールは変わりました。
 新たなゴールは、星々を目指し、新たな故郷を見つけることです。
 またのログインをお待ちしています。
『三体』をログアウトしたあと、汪淼はいままでのセッションと同様、激しい疲労を覚えた。『三体』はほんとうに骨の折れるゲームだ。だが今回、汪淼は三十分しか休まずに再度ログインした。
 すると、漆黒の背景に思いがけないメッセージが現れた。
 緊急事態につき、『三体』のサーバはまもなくシャットダウンします。残っている時間で、自由にログインしてください。『三体』はこれから、最終ステージへと直接ジャンプします。
原注 ロシュの限界
 いかなる堅固な天体であっても、それより大きな他の天体に接近すると、大きな潮汐力の作用を受け、最終的には引き裂かれ、ばらばらになってしまう。破壊されることなく近づける距離の限界を、一八四八年に算出したフランスの天体力学者エドゥアール?ロシュにちなんでこう呼ぶ。通常は、大きな天体の赤道半径の?倍。
 

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