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22 紅岸 五
日期:2024-06-28 13:36  点击:246
 22 紅岸 五
 紅岸基地に来て以来、葉文潔はここを離れることなど一度も考えなかった。紅岸プロジェクトの真の目的を知ったあとはこの極秘情報は、基地にいる幹部クラスの多くも知らなかった、外界との精神的なつながりもみずから断ちきり、ひたすら仕事に没頭した。これ以降、文潔は紅岸システムの技術の核心へとさらに深く入り込み、重要な研究課題を担当しはじめた。
雷志成レイ?ジーチョン政治委員は、葉文潔を最初に信頼したのが楊衛寧ヤン?ウェイニンだという事実を忘れたことはなかったが、それでも重要な仕事を喜んで文潔に任せた。
文潔はその政治的な立場のせいで、自分の研究成果についてさえ、なんの権利も持てなかった。雷志成は大学で天体物理を専攻し、しかも当時としては珍しい知識階級の政治委員だったから、文潔の研究成果と論文は、最終的にすべて彼の名前で発表されることになり、雷志成は、専門的な知識と革命的な情熱を兼ね備えた模範的な政治将校であるとの名声を獲得した。
 紅岸プロジェクトが文潔を呼び寄せたもともとのきっかけは、文潔が大学院時代に〈天体物理学アストロフィジカルジャーナル〉に発表した論文だった。この論文の中で、彼女は太陽の数学モデルの構築を試みていた。地球と比べて、太陽ははるかに単純な物理系で、その大部分が、水素とヘリウムという二種類の元素だけでできている。反応過程こそ激烈だが、けっきょくは水素が融合してヘリウムになるというだけのシンプルなものだ。
したがって、太陽の数学モデルは、かなり正確に現実の太陽を記述できる可能性が高い。
文潔の論文は基礎的なものだったが、楊衛寧と雷志成は紅岸監視システムの技術的な困難を解決する糸口をそこに見出したのだった。
 太陽雑音による受信障害は、衛星通信につきものの問題だが、紅岸の受信ァ≮レーションにもこの問題がつきまとった。
 地球と人工衛星と太陽が同一直線上にあるとき、人工衛星の方角に向けた地上の受信アンテナの見通し線は、衛星の背後に太陽が位置することになる。太陽はひとつの巨大な電磁波放射源なので、結果として、人工衛星から地上への送信は、太陽放射に呑み込まれてしまう。この問題は二十一世紀に入っても、いまだ完全には解決されていない。
 紅岸基地が対応を迫られた障害もそれと似ているが、ここの場合、干渉源太陽は、送信源太陽系外と地上の受信装置とのあいだにある。通信衛星に比べて、紅岸がこうむる太陽雑音はさらに頻繁かつ深刻だった。実際に建設された紅岸基地は、当初の予定よりもはるかに規模を縮小され、受信と送信で同じひとつのアンテナを共用していた。そのため、受信に使える時間はさらに貴重になり、太陽雑音の問題はさらに深刻になっていた。
 楊衛寧と雷志成がこのノイズを除去するために考えたアイデアは、いたって単純なものだった。観測データの中から、太陽放射の周波数スペクトルと特徴をつきとめ、デジタル的にフィルターをかけて、それをとりのぞいてしまえばいい。無知な人間が知識のある人間を指導することが多かったこの時代にあっては珍しく、このふたりがともに技術的な知識を持っていたことは、紅岸プロジェクトにとって幸運だった。しかし、楊衛寧の専門は天体物理ではなかったし、雷志成にいたっては、政治将校になる道を選んだので、高度な技術的ノウハウは身につけていない。現実には、太陽の電磁放射が安定しているのは、近紫外線から中赤外線までの可視光線を含む周波数帯に限られている。それ以外の周波数帯上では、放射はかなり不安定で、予測不可能だった。
 研究を正しい方向に進めるために、文潔が最初の論文で明らかにしたのは、太陽活動──黒点、太陽フレア、コロナ質量放出など──が激しい期間は、太陽の干渉は排除できないということだった。こうして、研究対象は、太陽活動がノーマルな期間中に紅岸が観測した周波数帯内の放射に絞られることになった。
 紅岸基地の研究環境はなかなか恵まれていた。基地の資料室では、研究テーマに沿った外国語の資料を、欧米の学術誌の最新号まで含めて購入することができた。この時代の中国にあっては、容易に得られる立場ではない。しかも文潔は、軍の電話回線を使って、中国科学院の中で太陽を研究しているふたつの研究グループと連絡をとり、リアルタイムの観測データをファックスでとり寄せることもできた。
 この研究を半年つづけたが、成功の兆しは見えなかった。紅岸の観測周波数の範囲では、太陽放射の変動は予想不能だということに、文潔は早々に気づいていた。大量の観測データを分析していて、文潔は説明のつかない謎めいた事例に出くわした。データ上、太陽放射には突発的な変動が起きているのに、太陽表面の活動は平穏なままというケースがいくつか見つかったのである。太陽核から放射される短波やマイクロ波は、厚さ数十万キロに及ぶ放射層や対流層に吸収されてしまうので、観測された放射は太陽表面の活動から生じたもののはずだ。ということは、放射に突発的変動が起きたときには、太陽表面にそれとわかる活動が観測されてしかるべきだ。もしそれに対応する太陽表面の変動がないとしたら、このせまい周波数帯に起きた突発的な変動の原因はいったいなんだろう 考えれば考えるほど、謎は深まった。
 最終的に、アイデアのほうが尽きてしまい、文潔は研究をあきらめることにした。最後の研究レポートで、自分にはこの謎が解けないと認めたのだった。ただ、とくに大きな失敗ではないはずだった。というのも、軍は同様の研究を大学や中国科学院のいくつかのグループに委託していたが、それらもすべて失敗に終わっていたからだ。楊衛寧は、文潔のすぐれた才能を頼りに、もう一度トライしたかったのである。
 雷志成の目的はもっとシンプルで、彼はただ、文潔の論文がほしかった。この研究テーマは高度に理論的なものだから、自分の名前で文潔の論文を発表すれば、彼の専門知識と研究スキルを誇示することができる。いま、文革がもたらした混沌の波はようやくおさまりはじめ、幹部に求められる資質も変化しつつある。政治的に成熟し、学術的に認められた雷志成のような存在には、大きな価値がある。当然、雷志成の前途は無限の明るさに満ちていた。太陽雑音による受信障害の問題を解決できるかどうかなど、本音ではどうでもよかった。
 しかし最終的に、文潔は論文を投稿しなかった。もしここで研究が終わってしまったら、基地の資料室はこのテーマのための資料収集や海外学術誌の購読をやめてしまうはずで、そうなるとこんなに豊富な専門文献に接する機会が永遠に失われてしまう──そう考えたからだった。そこで、文潔は名ばかりの研究を継続しつつ、実際は太陽の数学モデルを磨き上げることに集中していた。
 ある晩のこと、文潔はいつものように、資料室の冷えきった閲覧室にひとりでこもっていた。目の前の長テーブルの上には学術誌や文献が山と積まれていた。文潔は面倒で退屈な行列計算を終わらせてから、〈アストロフィジカル?ジャーナル〉の最新号を手にとり、休憩がてら、ぱらぱらとページをめくった。そのとき、木星の研究に関する論文にふと目がとまった。その論文の紹介文にはこう書かれていた。
 本誌前号に掲載された研究レポート『太陽系内の新たな強い放射源』において、ウィルソン山天文台のハリー?ピータースン博士が公開したデータは、去る月12日と月日、地球による木星の自転の摂動を観測中に、木星自身が二度にわたって強い電磁波を放射したことを示すものでした。それぞれの放射の持続時間は81秒と76秒で、付属データには、電磁波の周波数帯域その他のパラメータが含まれています。また、この電磁波バーストのあいだ、木星の大赤斑に、ある変化が観測されたことも記されています。この発見は、惑星学界で大きな注目を集めました。今号掲載の?マッケンジー氏の論文は、それが木星のコアで核融合が始まっている証拠だと主張しています。一方、次号掲載予定の井上雲石氏の論文は、木星の電磁波バーストがより複雑なメカニズム──木星内部の金属水素プレートの運動──の結果であるとして、完全な数学的記述を試みています。
 文潔はピータースンの論文に出てくるというふたつの日時をはっきり覚えていた。どちらも、紅岸監視システムが太陽雑音による強い電波干渉を受けた日時だった。文潔は運用日誌を調べ、自分の記憶を再確認した。時刻はほぼ一致している。ただし、太陽雑音の発生は、木星の電磁波バーストが地球に到達した時刻よりも、十六分四十二秒遅かった。
 十六分四十二秒が鍵だ 文潔は必死に冷静さを保ちつつ、資料室のスタッフに国家天文台と連絡をとってもらい、ふたつの日時の木星と地球の位置座標をとり寄せた。
 文潔は黒板に大きな三角形をひとつ描いた。三つの頂点はそれぞれ太陽、地球、木星で、さらにその三辺の上に距離を、地球の頂点にはふたつの到達時刻を記した。電磁波バーストが木星から地球に到達するのにかかる時間は、木星と地球の距離から簡単に計算できる。つづいて、電磁波が木星から太陽へ、さらに太陽から地球へ到達するのにかかる時間を計算したところ、両者の差はまさに十六分四十二秒だった 文潔は、かつて自身が構築した太陽構造の数学モデルを読み直して、理論的な説明を探した。やがて、太陽放射層の中にある〝エネルギー鏡面?と自身が命名したものの説明に目がとまった。
 太陽コアの核融合反応で生まれるエネルギーは、最初、高エネルギーのガンマ線のかたちをとる。太陽コアをとり囲む放射層は、これらの高エネルギー粒子を吸収し、それよりわずかに低いエネルギーで再放出することをはてしなくくりかえしながら、エネルギーを外へ外へと伝達していく。吸収と再放射のこの長い長いプロセスひとつの光子が太陽表面まで到達するのに、おそらく千年以上かかるを経て、高エネルギーのガンマ線はしだいにエネルギーを失い、線、極紫外線、紫外線、さらには可視光線などの放射線に変わる。
 こうしたことは、過去の太陽研究ですでに明らかになっている。しかし、文潔の数学モデルはひとつの新しい結論を導き出した。太陽放射が放射層を通過する過程でエネルギーを失い、周波数が低くなっていくとき、放射線層は、放射線のタイプごとにいくつかのゾーンに分かれる。しかも、それらのゾーンのあいだには、明らかに境界面がある。エネルギーがこの境界面をひとつ超えるごとに、周波数はがくんと下がる。これは、エネルギーが太陽コアから外へと向かうにつれて、放射線の周波数はなめらかに下がっていくとする従来の定説とは異なる主張だった。文潔の計算によれば、こうした境界面は、周波数の低い側外側からの放射線を反射する性質がある。そこで彼女は、この境界面を〝エネルギー鏡面?と名づけたのである。
 文潔は、高エネルギーのプラズマの海を仕切るこの境界面について慎重に研究を進め、その結果、驚くべき特徴がたくさんあることを発見した。中でもいちばん信じがたい特性のひとつは、彼女が〝反射力増強?と名づけたものだった。しかし、この特徴は、あまりにも異様で、確認することがむずかしく、文潔自身でさえ、現実とは信じられなかった。目がまわるほど複雑な計算の中で起きたまちがいの産物という可能性のほうが高いと思っていた。
 しかしいま、文潔は、太陽エネルギー鏡面による反射力増強という仮説を裏づける第一歩を踏み出した。エネルギー鏡面は、低周波数側から来る放射をただ反射するだけではなく、それを増強する。文潔が観測していたせまい周波数帯で起きたとつぜんの謎めいた変動は、じっさいは、宇宙からやってきたべつの放射線が太陽のエネルギー鏡面に反射した結果だったのである。だから、太陽表面に擾じょう乱らんが観測されなかったのだ。
 おそらく今回、太陽は木星の電磁波バーストを数億倍に増幅したうえで鏡のように反射した。地球は、増幅の前と、増幅のあとの電磁波を、十六分四十二秒の時間差で受けとった。
 太陽は電波増幅器なのだ。
 だがここで、次の疑問が生じる。太陽には、地球からの電波も含め、宇宙からの電磁放射がつねに降り注いでいるはずだ。どうしてその一部だけが増幅されるのか 答えは簡単だ。エネルギー鏡面が反射する周波数がある一定の帯域幅のものだけだということと、それにもうひとつ、こちらのほうが主な理由だが、太陽の対流層によるシールド効果がある。たえまなく沸き立っている対流層は、放射層のすぐ外にあり、液体層としては太陽のもっとも外側に位置している。宇宙からの電波はまず対流層を通過してから、ようやく放射層のエネルギー鏡面に到達し、そこで増幅されてはねかえされる。つまり、電磁波がエネルギー鏡面に届くためには、ある閾いき値ち以上に強力でなければならない。地球の電波源のほとんどはこの閾値より低いが、木星の電磁波バーストはそれを超えていた──。
 そして、紅岸基地の最大送信出力もこの閾値を超えている。
 太陽雑音による受信障害という問題はまだ解決されていないが、新たにわくわくするような可能性が見えてきた。人類は太陽をひとつのスーパーアンテナに使って、太陽系外に電波を送信できる。電波は太陽の力で増幅されるから、地球上で使用できるすべての送信出力をトータルしたものの数億倍強い。
 地球文明はおそらく、カルダシェフの分類におけるⅡ型文明のエネルギーレベルでメッセージを送信できるのだ
 次のステップは、二度にわたる木星の電磁波バーストの波形を紅岸基地が受信した太陽雑音の波形と比較すること。もし合致していたら、この仮説を裏づけるもうひとつの証拠になる。
 文潔は基地上層部にかけあい、ハリー?ピータースンと連絡をとって木星の電磁波バーストの波形記録をもらってほしいと要求した。だがこれは、簡単にはいかなかった。交渉ルートを見つけるのがむずかしいうえに、官僚的な手続きのつねで、あちこちの部門の書類仕事が山ほど必要だった。場合によってはスパイの疑いをかけられることになるため、文潔はただじっと待つしかなかった。
 しかし、仮説を実証するには、ほかにもっと直接的な方法がある。紅岸基地の送信システムを使用して、問題の閾値を超える出力でまっすぐ太陽に向かって電波を発することだ。
 文潔は基地上層部にこの要望を出そうとしたが、ほんとうの理由は言いたくなかった。
あまりにも空想的な仮説だから、まちがいなく却下されるだろう。そこで文潔は、太陽の研究に関する実験を行いたいと説明した。すなわち、紅岸送信システムを太陽の観測レーダーとして使用し、送信した電波のエコーを分析することで太陽放射に関する情報を集める。
 雷志成と楊衛寧はともに技術的な素養があり、彼らを騙すのは容易なことではない。だが文潔が提案したこの試験は、西側諸国の太陽研究で前例があった。じっさい、すでに実施している地球型惑星のレーダー探査よりも、技術的にはこちらのほうが簡単だった。
「葉くん、きみは仕事の範囲を逸脱しかけている」雷志成が首を振りながら言った。「研究は理論的なものだけに絞るべきだ。こんなに手間をかける必要がほんとうにあるのか」「政治委員、この実験は、大きな発見につながる可能性があるんです」と文潔は懇願した。「実験はぜったいに必要です。とにかく、一回だけやらせてください。おねがいします」
「雷政治委員、一度だけやらせてみたらどうかな」楊衛寧が言った。「ァ≮レーションはそれほど大きな手間でもなさそうだし。送信後、エコーが返ってくるのに要する時間は──」
「十分、十五分だろう」雷志成が言った。
「だったら、紅岸システムを送信モードから受信モードに切り換える時間もちょうどある」
 雷志成がまた首を振った。「技術的にもァ≮レーション的にも造作ないことはわかっている。しかし、楊チーフ、きみはどうも……この手のことには鈍感みたいだな。赤い太陽に向かって超強力な電波を送信するんだぞ。こういう実験が政治的にどう解釈されるか、考えてみたことは」
 楊衛寧と文潔は、どちらも茫然としたが、雷の反対理由が荒唐無稽だとは思わなかった。逆に、自分たちがその可能性を考えもしなかったことにぞっとしたのである。
 この時代、すべてのものに政治的な意味を見出す風潮は、不合理なレベルにまで達していた。紅衛兵は、隊列を組んで歩く際は左折のみ許され、右折は禁止された。信号機は、赤が進めで、青が止まれでなければならないと提案されたこともある周恩来首相に却下されたが。また、この頃の人民元の「一角」札には農民が描かれていたが、そのうちふたりはそれぞれ鉄のシャベルと鋤をかついでいたため、共産党政権の撲滅または粛清を意味していると解釈され、絵の作者はひどい迫害を受けた。またある者は、家の壁に指導者の写真を貼っていたが、自分の写真は額に入れていたため、十年近く投獄されることになった……。
 そういう風潮に鑑み、これまで文潔が研究報告を提出する際は、雷志成がかならず綿密な査読を行っていた。とくに、太陽に関する記述は、専門用語であっても、くりかえし吟味し、政治的危険がないように修正した。たとえば、〝太陽黒点?という言葉は使用が禁じられた。太陽に向かって強力な電波を送信するという実験については、もちろん、千通りのポジティブな解釈が可能だが、たったひとつのネガティブな解釈がなされるだけで、関係者全員が政治的な災難に見舞われるにじゅうぶんだった。雷志成が実験の要請を拒絶する理由は、たしかに反駁のしようがなかった。
 しかし、文潔はあきらめなかった。じつのところ、過度なリスクを避けるかぎり、目標を達成するのはむずかしくなかった。紅岸の送信装置は出力こそ超強力だが、すべての部品が文革期に製造された国産品を使用しているため、品質は水準に届かず、故障率が非常に高かった。十五回の送信ごとに全システムのオーバーホールが必要で、そのたびにテスト送信がある。このテストに立ち会うスタッフの人数は少なく、目標その他のパラメータも比較的自由に設定できる。
 ある当直の日、文潔は定例のオーバーホール後のテスト送信を担当することになった。
テスト送信は多くの操作を省略するため、その場に文潔以外のスタッフは五人だけしかいなかった。そのうち三人は、命令を受けて動くだけで、装置の仕組みについてはほとんどなにも知らない。あとのふたりはァ≮レーターとエンジニアで、どちらも二日間のオーバーホール作業に疲れはてて、テストにはほとんど注意を払っていなかった。
 文潔はまず、太陽エネルギー鏡面が電磁波の反射を増幅するというみずからの仮説の閾値を超える値に出力を設定し紅岸送信システムの最大値だった、周波数は、エネルギー鏡面によって増幅される可能性がもっとも高い値を選んだ。機械部品のテストという名目のもと、アンテナの向きを西の空に傾きかけている太陽に合わせ、送信を開始した。送信内容は、いつもと同じものにした。
 時は一九七一年秋のある晴れた日の午後、遅い時間だった。あとになって、文潔はそのときのことを何度も思い返したが、予感めいたものはこれといってなにもなかった。うまくいくだろうかという不安と、とにかく早く送信を済ませたいという焦りだけ。第一に、その場にいた同僚に不審がられるのが怖かった。言い訳は用意していたものの、それでも、部品の消耗につながりかねないことを考えると、最大出力で送信テストを実施するというのはふつうではない。第二に、紅岸送信システムの照準装置は、アンテナを太陽に向けることを想定していない。文潔は、付属望遠鏡の接眼レンズが熱くなっているのを指先で感じていた。もし焼け切れたりしたら、深刻な問題になる。
 星の光を利用する目標自動追跡システムが使えないため、ゆっくりと西の空に沈んでいく太陽を、文潔は手動で追尾しなければならなかった。そのあいだ、紅岸基地のアンテナは、まるで巨大なひまわりのように、太陽を追いかけてゆっくりと動いていた。送信が終わったことを知らせる赤ランプが点灯するころには、文潔は全身、汗びっしょりになっていた。
 文潔は周囲を見渡した。三名の操作スタッフはコントロールパネルの前で、マニュアルに沿って機器をひとつずつ順番にシャットダウンしている。エンジニアは管制室の隅でコップに入れた水を飲んでいた。ァ≮レーターは長椅子にもたれて眠っている。のちの歴史学者や文学者がどんなふうに描写しているかはともかく、このときの現実の光景は平凡そのもので、変わったことはなにひとつなかった。
 送信が完了すると、文潔は管制室を飛び出し、楊衛寧のァ≌ィスに駆け込むと、はずむ息を整えながら言った。「基地の無線局に、受信周波数を一万二千メガヘルツにセットするように指示して」
「なにを受信するんだ」楊チーフ?エンジニアは、汗でぐっしょり濡れた髪が張りついている文潔の顔を見て、驚いたようにたずねた。世界的にも最高レベルの感度を備えた紅岸受信システムと比べると、ふつうの軍用レベルの基地無線通信システムは──通常は外部との連絡に使われている──おもちゃみたいなものだった。
「ひょっとしたら、なにか入ってくるかもしれない。紅岸システムを受信モードに切り換えている時間がないの」通常なら、紅岸受信システムのウォームアップと切り換えに要する時間は十分少々だが、いまは受信システムもオーバーホール中で、多くのモジュールがとりはずされ、まだ戻されていないため、短時間で稼働させるのは不可能だった。
 楊衛寧は数秒のあいだ、じっと文潔を見つめていたが、やがて内線電話の受話器をとり、基地通信部に文潔の要請を伝えた。
「うちの無線局の精度では、受信できるのはせいぜい月面からの地球外知性の信号くらいだ」
「信号は太陽から来る」文潔は言った。窓の外では、血のように赤い太陽のへりが地平線の山頂に近づいている。
「紅岸システムを使って太陽に信号を送ったのか」楊衛寧がこわばった表情でたずねた。
 文潔がうなずいた。
「このことは他言無用だ。こんなことは二度とするな。ぜったいに」楊衛寧は入口をふりかえって、ほかにだれもいないことをたしかめた。
 文潔はまたうなずいた。
「そんなことをしてなんの意味がある エコーは極端に微弱なはずだ。ふつうの無線局の受信可能範囲をはるかに下回る」
「いいえ、わたしの仮説が正しければ、極端に強いエコーが返ってくるはず。どのくらい強いかというと……とても想像できないくらい。送信出力がある閾値を超えるだけで、太陽は電波を一億倍にも増幅するのよ」
 楊衛寧が妙な目で文潔を見た。文潔はなにも言わなかった。ふたりとも、黙って待った。楊衛寧には、文潔の呼吸と心臓の鼓動がはっきり聞こえた。文潔のさっきの話にはあまり注意を払っていなかったが、楊衛寧の心の奥底に埋もれていた少年のころの気持ちがよみがえっていた。だが、自分を抑えることしかできず、ただひたすらじっと待っていた。
 二十分後、楊衛寧は通信部に電話をかけ、二、三の簡単な質問をした。
「なにも受信しなかったそうだ」楊衛寧は受話器を置いて言った。
 文潔は深いため息をつくと、しばらくしてようやくうなずいた。
「例のアメリカの天文学者から返事があった」楊衛寧は分厚い封筒を文潔に手渡した。封筒の表には税関のスタンプがいくつも捺おされている。文潔はいそいそとそれを開封し、まずはハリー?ピータースンからの手紙にざっと目を通した。中国でも惑星電磁波学の研究をしているとは思わなかった、今後は連絡を密にして協力しあいましょうという意味のことが書かれている。また、彼は、資料の束をふたつ送ってきていた。それは、木星で観測された二度の電磁波バーストの波形の完全な記録だった。長い信号記録紙からコピーしたもので、つなぎ合わせる必要がある。
 しかし、この時代の中国人のほとんどは、コピー機など見たこともなかった。文潔は、それぞれ数十枚あるコピー用紙を、床に二列に並べた。半分ほど並べた時点で、どんな希望も消えてなくなった。自分が観測した二度の太陽雑音の波形はよく覚えている。このふたつがそれと一致しないのは明らかだ。
 文潔は二列に並べたコピー用紙を床からゆっくりと拾い集めた。楊衛寧もひざまずいてそれを手伝った。内心では深く愛している女性に紙の束を手渡したとき、彼の瞳に、首を振りながら微笑む文潔の顔が映った。あまりにも悲しげなその表情に、楊衛寧の胸が締めつけられた。
「どうしたんだい」楊衛寧はさりげない口調でたずねた。自分では気がついていなかったが、これまでに文潔と話したなかで、これほどおだやかに話しかけたのははじめてだった。
「なんでもない。夢を見ていただけ。いまやっと目が覚めたところ」文潔はそう言ってまた微笑み、コピー用紙と手紙を抱えて楊衛寧のァ≌ィスを出て行った。
 文潔は部屋に戻り、ランチボックスを持って食堂へ行ったが、もう饅頭マントウと漬け物しか残っていなかった。食堂の人からも、きょうはもう閉店だと不機嫌そうに言われて、文潔はランチボックスを持って出ていくしかなかった。崖の手前のお気に入りの場所まで行くと、草の上に座って、冷たいマントウをかじった。
 太陽はすでに沈み、大興安嶺はぼんやりしたグレーに染まっていた。文潔の人生とよく似ている。その灰色の人生の中で、夢だけはひときわ色鮮やかで、光り輝いて見えた。でも、人はいつも、夢から覚めてしまう。太陽と同じだ。また昇ってはくるものの、新しい希望を運んでくるわけではない。この瞬間の文潔には、はてしない灰色に満たされた残りの人生が見えた。目に涙を溜めたまま、また微笑み、冷たいマントウを噛みつづけた。
 このとき、文潔は知る由もなかったが、地球文明が宇宙に向かってはじめて発した、だれかが聞きとることのできる叫び声は、太陽から光速で宇宙全体へと広がりはじめていた。恒星によって増幅された電波は、潮が満ちるように進みつづけ、すでに木星軌道を超えていた。
 このとき、一万二千メガヘルツの周波数帯では、太陽は、天の川銀河全体でもっとも明るく輝く恒星だったのである。
 
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