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23 紅岸 六
日期:2024-06-28 13:36  点击:237
23 紅岸 六
 それからの八年間は、葉文潔イエ?ウェンジエの一生において、もっとも静かな時期だった。文革のあいだに刻み込まれた恐怖はしだいに薄れ、ようやく精神的にすこし息をつく余裕ができた。紅岸プロジェクトはすでに試験と調整期を終え、すべてがじょじょにルーティン化しつつあった。解決すべき技術課題はだんだん少なくなり、仕事や生活のスタイルも規則正しいものになってきた。
 平穏な日々の中で、それまでは緊張と恐怖によって抑圧されていた記憶が目覚めはじめた。文潔は、ほんとうの痛みをいまやっと感じはじめたのだとさとった。悪夢的な記憶が、燠おき火びのようにふたたび燃え上がり、どんどん勢いが強くなって、文潔の心を焼き焦がした。たいていの人なら、こういう心の傷は、たぶん時間が癒やしてくれたかもしれない。文革のあいだに文潔のような目に遭った人間はおおぜいいたし、その多くと比べたら、文潔はまだしも幸運なほうだった。しかし文潔は、科学者としての習い性から、忘れることを拒絶し、自分を傷つけた狂気と憎しみを、理性の目をもって眺めようとした。
 じつのところ、人類の邪悪な面について文潔が理性的に考察するようになったのは、『沈黙の春』を読んだあのときからだった。楊衛寧との距離が日に日に近づくにつれ、文潔は、技術資料の収集という名目で、楊を通じて外国語の哲学書や歴史書の古典や名作を大量に購入した。血塗られた人類の歴史には身の毛がよだつ思いがしたが、思想家たちの卓越した思考は、人間性のもっとも本質的で、もっとも秘められた面に対する理解を深めてくれた。
 ほとんど世界に忘れられたような、この浮き世離れしたレーダー峰にあっても、人類の理性の欠如と狂気は、たえず文潔の目に映った。山腹の森林は、文潔のかつての戦友たちによって野放図に伐採され、大興安嶺の皮膚を剝ぎとるようにして、日に日に荒地の面積が拡大している。点在していたむきだしの荒地がつながって広い区域になり、さらには斜面全体に広がると、残された数少ない幸運な樹木のほうがむしろアブノーマルなものに見えてくる。焼き畑式の開発計画の仕上げに、禿げ山に火が放たれ、レーダー峰は地獄の業火から逃れてきた鳥たちの避難所となった。燃えさかる炎と、羽根を焦がされて悲しげに鳴く鳥の声はやむことがなかった。
 外の世界では、人類の狂気が歴史上の頂点に達していた。おりしも、アメリカとソビエトが熾烈な覇権争いをくり広げる冷戦のまっただなかだった。地球を何十回も壊滅させられるだけの大量の核ミサイルが、ふたつの大陸に点在する無数のサイロや、幽霊のように深海に潜む原子力潜水艦の群れに配備され、いつでも発射可能な状態にあった。ラファイエット級もしくはヤンキー級の潜水艦一隻だけで、百もの都市を破壊し、数億人を殺戮することができる。しかし、ほとんどの人間は、なんの問題も起きていないかのように、ふだんどおりの生活をつづけていた。
 天体物理学者として、文潔は核兵器に強く反対する立場だった。原子力は恒星だけに帰属すべき力だと知っていたからだ。宇宙にはもっと恐ろしい力があることも知っていた。
ブラックホールや反物質が持つ力に比べたら、核爆弾などちっぽけな蠟ろう燭そくに過ぎない。そういう力のひとつでも、もし人類が手に入れてしまったら、世界は一瞬で消える。狂気の前では、理性などなんの力もない。
 紅岸基地に赴任して四年後、文潔は楊衛寧と結婚した。楊衛寧は文潔のことを心から愛し、そのためにみずからの将来をあきらめた。
 この頃になると、文革のもっとも激烈な時代は過ぎ去り、政治的な環境もいくらか穏やかになっていたから、楊衛寧は、文潔との結婚によって明確な迫害を受けることはなかった。しかし、妻が反革命のレッテルを貼られているおかげで、楊衛寧は政治的に未熟と見なされ、チーフ?エンジニアの職を追われることとなった。彼が妻とともにヒラの技術者として基地に残ることを許されたのは、ふたりの技術的な知識なしでは基地が立ちゆかないという理由からだった。
 文潔が楊衛寧の求婚を受け入れたのは、主に感謝の気持ちからだった。いちばんの危機にあったとき、もし彼が、世間と隔絶したこの避難所に連れてきてくれなければ、文潔はとっくにこの世にいなかっただろう。楊衛寧はたいへん才能がある。人柄や教養も申し分ない。嫌いになれるような人物ではないが、文潔の心はとっくに火が消えた灰のようになっていて、いまさら愛の炎など燃やすべくもなかった。
 人類の本質について考えれば考えるほど、文潔は人生の目標を見失い、またべつの精神的な危機に陥った。かつての文潔は理想主義者で、自分の才能のすべてを偉大なる目標に捧げずにはいられないほどだった。しかしいまになって、これまでにしてきたことはなにもかも無意味で、この先も、意味のある探求などありえないと気づいてしまったのである。この精神状態を抜け出すことができないまま、文潔が抱く疎外感はますます大きくなっていった。魂の荒野をさすらうようなこの感覚は彼女を苛みつづけた。楊と家庭を持ったあとも、文潔の魂には居場所がなかった。
 ある夜のこと、文潔は夜勤の当直だった。しんと静まりかえった真夜中、いちばん孤独で寂しくなるこの時間帯の宇宙は、その音に耳を澄ます者たちにとって、広大無辺な荒野のようだった。文潔がいちばん嫌いだったのは、ディスプレイ上をゆっくりと動く曲線を見ることだった。それは、紅岸システムが宇宙から受信した無意味なノイズの視覚的な記録だった。この無限に長い線こそ、宇宙の純粋な姿だと文潔は思っていた。一方は無限の過去へ、もう一方は無限の未来へとつながり、その中間はただランダムに上がり下がりしているだけ──生命も法則性もなく、大きさが不揃いな砂粒の集まりのように、さまざまな高さの山と谷が連なっている。その曲線はまるで、すべての砂粒を一列に並べた一次元の沙漠のようだ。寂しく、荒涼として、耐えられないほど長い。その線に沿って、前にもうしろにも、お好みのままいくらでも遠くまで行けるけれど、永遠に終わりにはたどりつかない。
 しかしこの夜、波形ディスプレイに目をやった文潔は、おかしなことに気づいた。専門のスタッフでも、目で見ただけでは波形が情報を持っているかどうかは判別しづらいものだが、宇宙のノイズの波形を熟知している文潔には、いま目の前で動いている波形に、特別ななにかがあることがわかった。上がったり下がったりするその細い曲線には、魂があるように見えた。目の前にある無線信号が知性によって変調されているのはまちがいない。
 文潔はもう片方の端末に飛びつき、いま受信しているこの信号の有意度ランクをコンピュータがどう判定しているかチェックした。ランクは。いままでに紅岸基地が受信した宇宙からの電波は、有意度ランクがを超えたことは一度もなかった。は、届いた電波が意味のある情報を含んでいる可能性が九〇パーセント以上であることを意味する。となると、まさに特別な、極端なケースだ。それは、受信したメッセージが、紅岸基地が送信時に使用するのと同じ言語でコーディングされていることを意味する。
 文潔は紅岸解読システムを起動した。このソフトウェアは有意度がを超える信号について解読を試みる。紅岸プロジェクトがはじまって以来、ただの一度も実際に使用されたことはなかった。試験運用のデータからすると、メッセージを含む可能性がある信号の解読には、数日から、場合によっては数カ月におよぶ計算時間が必要で、しかも半分以上は解読不能という結果になる。
 しかし、今回に限っては、生データを解読システムにかけたとたん、ディスプレイには解読終了のメッセージが出た。
 文潔が解読結果のファイルを開き──そして、人類史上はじめて、地球外から届いたメッセージに目を通した。
 文面は、だれもが想像しないようなものだった。同じ警告が、三度くりかえされている。
 応答するな
 応答するな
 応答するな
 目がまわるような興奮と混乱から覚めないまま、文潔は解読された第二のメッセージを読んだ。
 この世界はあなたがたのメッセージを受けとった。
 わたしはこの世界の、ある平和主義者です。この情報を最初に受けとったのがわたしだったことは、あなたがたの文明にとって幸運でした。あなたがたに警告します。応答するな 応答するな 応答するな あなたがたの方向には数千万もの恒星があります。応答しないかぎり、われわれのこの世界は、送信源を特定できません。
 しかし、もし応答したら、送信源の座標はただちに特定され、あなたがたの惑星は侵略される。あなたがたの世界は征服される 応答するな 応答するな 応答するな
 ディスプレイ上で輝くグリーンの文字を見て、文潔はまともにものを考えられなくなった。衝撃と興奮で頭の回転が鈍り、なんとか理解できたのはひとつだけだった。すなわち──わたしが太陽に向かってメッセージを送信してから、まだ九年も経っていない。ということは、この情報の発信源は、地球から四光年くらいしか離れていないことになる。だとすれば、可能性はひとつしかない。太陽系にもっとも近い恒星系──三重星系として知られるケンタウルス座アルファ星系アルファ?ケンタウリだ。
 宇宙は無人の荒野じゃない。宇宙はからっぽでもない。宇宙は生命に満ちている 人類はそのまなざしを宇宙の果てへと向けてきた。しかしまさか、いちばん近い星系に、知的生命がすでに存在していたとは、知る由もなかった 文潔は波形ディスプレイをじっと見つめた。信号は、宇宙から紅岸アンテナへとなおも流れ込んでいる。文潔はもうひとつウィンドウを開いて、リアルタイム解読をスタートさせた。ただちに画面にメッセージが流れはじめた。
 それからの四時間あまりのあいだに、文潔は三体世界の存在を知り、滅亡と復活をくりかえすその文明と、他の恒星系に移住しようとする彼らの計画について学んだ。
 午前四時、アルファ?ケンタウリからの送信が終わった。解読システムはなおも無駄な処理をつづけ、たえまなくエラーコードを吐き出しつづけている。紅岸受信システムから聞こえてくるのは、またも宇宙の荒野のノイズだけになった。
 しかし文潔は、いましがた経験したことが夢ではないと確信していた。
 太陽はたしかに増幅アンテナだった。でも、八年数カ月前のあのときは、どうしてエコーを受信できなかったんだろう。木星の電磁波バーストの波形は、なぜ直後の太陽放射のそれと一致しなかったんだろう。あとになって、文潔はいくつか、その原因を考えついた。おそらく、基地の無線通信部が、そもそもその周波数の電波を受信できなかったか、エコーを受信しても、ノイズのように聞こえたため、ァ≮レーターが無視してしまったのだろう。波形に関しては、太陽が電波を増幅したとき、そこにべつの電磁波を加えた可能性がある。異星文明の解読システムなら簡単にフィルターにかけて排除できる周期波だった可能性が高い。しかし、そのことを知らない文潔の目には、木星の波形と太陽の波形がまるきり別物に見えたということもありうる。文潔は、この最後の可能性について、後年、紅岸基地を離れたあとでたしかめてみた。あのとき太陽が加えたのは、ひとつの正弦波だった。
 文潔はさりげなくあたりを見渡した。メインコンピュータルームにはほかに三名の当直スタッフがいて、そのうちふたりは部屋の隅で雑談中。残るひとりは端末の前でうたた寝している。受信システムのデータ解析セクションで、信号の有意度ランクを評価し、解読システムにアクセスできる端末は、文潔の前にあるこの二台だけだ。
 文潔はなんでもないような態度を装いながら、端末をすばやく操作して、受信したメッセージすべてを多重暗号化された見えないサブディレクトリに転送した。それから、一年前に受信したノイズをコピーして、この五時間の受信内容に上書きした。
 最後に端末から短いメッセージを紅岸送信システムのバッファに入力した。
 文潔は立ち上がり、受信管制室を出た。熱っぽい顔に冷たい風が吹きつけてくる。夜明けの光がちょうど東の空に射しはじめたところだった。文潔はまだ薄暗い石畳の小道を歩いて送信管制室に向かった。頭上では、紅岸アンテナの巨大なてのひらが静かに宇宙を向いている。朝日の光をバックに黒いシルエットになった歩哨は、いつもと同じように、中に入っていく文潔には目もくれなかった。
 送信管制室は受信管制室よりかなり暗かった。文潔はマシンラックが並ぶ列のあいだを抜けて、コントロールパネルの前に行くと、十あまりのスイッチを慣れた手つきで次々に入れて、送信システムのウォームアップを開始した。コントロールパネルの近くにいた二名の当直スタッフが、寝ぼけまなこでこちらを見た。片方は、壁の時計にちらっと目をやってから、またうたた寝をはじめた。もうひとりは、もうよれよれになっている新聞をまためくりはじめた。基地内で、文潔の政治的な地位は最底辺だが、技術面では一定の自由が与えられていて、送信前にはいつも彼女が設備をチェックしていた。きょうは、いささか時間が早すぎる──送信が実施されるまで、まだ三時間もある──とはいえ、事前にウォームアップをしたとしても、べつだん不思議なことではない。
 ウォームアップが終わるまでの三十分は、文潔の人生でもっとも長い三十分だった。文潔はその間に送信設定をやり直した。周波数は、太陽エネルギー鏡面が反射する最適値に設定し、送信出力は最大にまで上げた。それから、送信目標設定用光学システムの接眼レンズに目を近づけて、太陽がいままさに地平線から昇ってくるのを確認した。それからアンテナ方向設定システムを起動し、コントロール?スティックを太陽のほうに動かして、ゆっくり照準を合わせた。巨大なアンテナが回転するときに起きるゴーッという振動が管制室に伝わってきた。当直のひとりがまたちらっとこちらをを見たが、なにも言わなかった。
 空の果てに連なる山の尾根から、太陽が完全に顔を出した。電波が届くのにかかる時間を考慮して、文潔は紅岸アンテナ照準装置のクロスヘアの中心を、太陽のてっぺんに合わせた。送信システムはすでにウォームアップが終わり、いつでも動かせる状態になっている。
 送信ボタンは長方形で、パソコンのキーボードのスペースキーによく似ているが、色は赤だった。
 文潔の指は、そのボタンから二センチメートルのところにあった。
 全人類の命運が、この細い二本の指にかかっている。
 文潔は、ためらうことなく送信ボタンを押した。
「なにやってるんだい」当直のひとりがまだ眠そうな声でたずねた。
 文潔は彼に笑みを向けたが、なにも言わなかった。すぐにもうひとつの黄色いボタンを押して送信を中止すると、コントロール?スティックを動かしてアンテナの向きを変えてから、立ち上がって管制室を出ていった。
 当直スタッフは腕時計に目をやった。もう夜勤も終わりの時間だ。とはいえ、ちょっと妙な気もしたので、日誌をとりだし、文潔がさきほど送信システムを操作したことを記録しようとした。しかし記録テープを見てみると、文潔が送信を実行した時間は三秒にも満たない。そこで彼は、日誌をもとの位置に戻し、あくびをしながら軍帽をかぶって部屋を出た。
 その瞬間も太陽に向かって進みつつあるメッセージは、こんな内容だった。
 来て この世界の征服に手を貸してあげる。わたしたちの文明は、もう自分で自分の問題を解決できない。だから、あなたたちの力に介入してもらう必要がある。
 昇ったばかりの太陽が文潔の目を眩ませた。送信管制室を出て何歩も歩かないうちに、文潔は気を失い、芝生の上にくずおれた。
 目が覚めると、文潔は基地医務室のベッドに横たわっていた。何年も前のあの軍用ヘリコプターのときと同じように、楊衛寧がかたわらで心配そうに見つめている。そのとき、医師が文潔に向かって言った。
「これからは体に気をつけて、しっかり休息をとるように。おめでたですよ」
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