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31 古こ筝そう作戦
日期:2024-06-28 13:40  点击:214
31 古こ筝そう作戦
「だいじょうぶだ、もうこの体に放射性物質は残ってないぞ」そばに座った汪淼に、史強が言った。「この二日間、小麦粉袋を洗うみたいに裏も表も徹底的に洗浄されたからな。
この会議は、もともと先生に参加してもらう予定じゃなかったんだが、おれがどうしてもと言い張って来てもらったんだ。賭けてもいい、いよいよおれたちふたりの出番だぜ」 史強はそう言いながら、会議テーブルに置かれた灰皿の中から、葉巻の吸い殻をつまみ上げた。火をつけてひと口吸うと、晴ればれとした顔で、会議の参加者たちに向かって煙を吐き出した。その中にいた、まさにその葉巻のもとの持ち主であるアメリカ海兵隊のスタントン大佐が、史強に軽蔑のまなざしを向けた。
 きょうの会議には、前回以上に多くの外国の軍人が参加している。しかも全員、軍服姿だった。人類史上はじめて、全世界の武力をもって、共通の敵に立ち向かうのだ。
常偉思チャン?ウェイスー少将が口を開いた。「同志諸君。今回の会議に参加してくれたすべてのみなさん。現在の状況については基本的にすべて理解いただいているものと思う。史強の言葉を借りれば、情報は対等に共有されている。人類と異星の侵略者との戦争がはじまった。われわれの子孫が三体人の敵と実際に遭遇するのは、いまから四世紀半後のことになる。したがって、いまわれわれが対峙している相手は、同じ人類だ。それでも、本質的に言えば、これら人類に対する反逆者も、地球文明の外敵と見なしていいだろう。われわれは、歴史上はじめて、こうした敵に立ち向かうことになる。次の作戦行動の目的ははっきりとしている。すなわち、〈ジャッジメント?デイ〉に保存されている三体文明からのメッセージを奪取することだ。それらの情報は、人類文明の存続にとって重要な意味がある。
 われわれはこれまで、〈ジャッジメント?デイ〉に対し、疑念を持たれるような行為はなにひとつしていない。あの船はいまもなお合法的に、大西洋を航海中だ。〈ジャッジメント?デイ〉は四日後にパナマ運河を通過する予定で、運河管理局に航海計画書を出している。これは、われわれにとって千載一遇のチャンスだ。状況がこのままさらに進展すれば、おそらくこんな機会はもう二度とやってこないだろう。いま、世界各地の作戦司令センターで作戦案が検討されている。いまから十時間以内にそのうちのひとつを本部が選択する。この会議の議題は、ずばり、作戦案についてだ。ひとつひとつ検討して、実行可能性のもっとも高いものをひとつから三つ程度に絞り、本部へ上申する。同志諸君、時間はもうそれほど残されていない。われわれは最大限効率的に仕事をせねばならない。
 注意しておきたいのは、すべての作戦案は、〈ジャッジメント?デイ〉に保管されている三体人のメッセージの安全を担保しつつ、それを奪取するという一点に集中することだ。〈ジャッジメント?デイ〉はタンカーを改装した船で、船体の上層部と内部すべてが改造され、多数の新しい部屋や通路を持つ複雑な構造になっている。クルーでさえ、ふだんあまり立ち寄らないエリアに入る際には、船内マップで通路を確認する必要があるだろう。その構造について、われわれは彼らよりさらに知るところが少ない。いまのわれわれは、〈ジャッジメント?デイ〉のコンピュータ室の正確な位置はおろか、問題の三体メッセージがコンピュータ室のサーバ上に保存されているのか、いくつバックアップがあるのかさえわかっていない。われわれが目標を果たしうるただひとつの方法は、〈ジャッジメント?デイ〉を全面的に占拠し、制圧することだ。その中間段階、つまり攻撃行動のあいだ、敵に三体メッセージを消去されるのをいかにして防ぐか。それがいちばんの難題だ。
メッセージ削除はきわめて容易に、クリックひとつでできる。敵が緊急時に、ふつうの手順でファイルを削除するとは考えられない。現在の技術では容易に復元できてしまうからな。だが、サーバのハードディスクなり、ほかの記憶メディアなりを破壊するだけで、すべてが一瞬にして無になる。それには十秒もかかるまい。そこでわれわれは、敵に動きを察知されてから十秒以内に、記憶装置の近くにいる敵の行動能力を奪いたい。だが、記憶装置の場所もわからない、バックアップの数もはっきりしないと来ている。だから、ターゲットに察知される前に、ごく短時間で、〈ジャッジメント?デイ〉にいるすべての敵を殲せん滅めつせねばならん。それと、その内部のほかの施設──とりわけコンピュータ設備に重大なダメージを与えたい。そんなわけで、今回の任務はたいへんな困難をともなう。
ある同志は、不可能だとさえ考えている」
 日本の自衛隊の士官が口を開いた。「ただひとつ、成功の可能性のある作戦があります。それは、〈ジャッジメント?デイ〉内部に潜伏しているわれわれの仲間の力を借りて、作戦行動開始前に、三体メッセージを保存している記憶装置のありかを知る偵察者に記憶装置を確保させる、あるいは移動させることです」 すると、ある者がたずねた。「〈ジャッジメント?デイ〉の監視と偵察は、軍の軍事情報機関とがずっと担当してきた。そういうスパイは船内にいるのか」「いない」軍の連絡将校が言う。
「じゃあ、その案はそこまでだな。まったく、無駄な議論をさせやがって」史強がひとこと口をはさむと、間髪いれず、大勢からぎろりとにらまれた。
 スタントン大佐が言う。「目的は、設備を破壊することなく、船内の全人員を排除することだ。となると、真っ先に思いつくのは、球電兵器を使用することだ」 丁儀が首を振った。「それはどうでしょうね。あの手の武器は広く知られている。こちらとしては、船体に球電を遮蔽する磁場の壁が装備されているかどうかさえわからない。
仮に装備されていなかったとして、球電が船内のすべての人員を殺せることは保証できても、それが一瞬で終わるかどうかまでは保証できない。しかも、球電が船の内部に進入すれば、おそらく空中で一定時間漂ってからエネルギーを放出することになる。この時間は短くて十数秒、長ければ一分か、もっとかかることも考えられます。敵に襲撃を察知されるうえ、メッセージを消去するなどの行動をとる時間的余裕まで与えることになる」「では、中性子爆弾は」スタントン大佐が言った。
「大佐、あなたなら、それも無理だとご存じのはずです」ロシアの士官が言った。「中性子放射では、人間は一瞬では死に至らない。中性子爆弾攻撃のあと、船内の敵は、残された時間で、われわれがいまやっているような会議を開く時間さえあるでしょう」「もうひとつの手段は、神経ガスです。だが、船内で放出されたガスが拡散するには、ある程度の時間経過が必要だ。それに、少将がおっしゃる目標まで到達するのは不可能だ」と軍士官が言う。
「残る選択肢は、振動弾か、低周波音だ」スタントン大佐が言った。みんな、大佐の次の言葉を待ち受けたが、つづきはなかった。
 史強が口を開いた。「振動弾はおれたち警察が使うァ♀チャだ。たしかに建物の中にいるやつらを一瞬で昏倒させられる。だがそれは、部屋数がひとつふたつの場合だ。あんなにでっかい船の中にいるやつら全員を一瞬で倒せるか」 スタントンが首を振った。「無理だな。仮にできたとしても、そんなに大きな爆発物なら、船内の施設が破壊されずには済まない」
「低周波音兵器は」だれかがたずねる。
「まだ実験段階で、実戦には使えない。とくに、あの船はかなり大きい。いまテスト中の低周波音兵器の出力は、〈ジャッジメント?デイ〉全体を同時に攻撃したとしても、せいぜい中の人員にめまいを与えたり、気分を悪くさせるぐらいが関の山だ」「はっ」史強がピーナッツひと粒くらいの大きさになった葉巻を灰皿にこすりつけて消しながら、「言っただろ、残されたおれたちは、ろくでもない案ばかり検討させられている。少将が言ったことを忘れたのか。時間がいちばん重要なんだぞ」それから通訳のほうを向いてにやっと笑った。通訳は美しい女性の中尉で、史強の言葉を聞いて浮かない顔をしていた。
「これは訳しにくいだろ、同志。だいたいの意味でいいぜ」 だが、スタントンは聞きとれたらしい。新しくとりだした葉巻で史強を指して言った。
「この警察官は、なんの資格があってわれわれにこんな口をきくんだ」「あんたの資格は」史強が聞き返す。
「スタントン大佐は、経験も資質もかなりある、特殊作戦の専門家だ。彼はベトナム戦争以降、ほぼすべての重大な軍事行動に参与している」軍士官が言った。
「なら、おれの資格を言ってやろうか。三十数年前、おれがいた偵察小隊は、ベトナム軍の背後数十キロメートルのところに侵入し、強固な防衛線が張られていた水力発電所を占拠して、やつらがダムを破壊するのを阻止した。友軍が進撃予定だった道路が通行不能にされるのを防いだんだ。これがおれの資格だ。おれは、おまえらが負けた相手に勝ったことがあるんだぜ」
「もういい、史強」常偉思がテーブルを叩いて言った。「関係ない自慢話もたいがいにしろ。自分の作戦案を言ってもいいぞ」
「この警察官のために時間を使うのは無益だ」スタントン大佐が軽蔑したようすで言い、それから葉巻に火をつけた。
 通訳が訳すのを待たずに、史強が立ち上がって言った。「ポリス──この言葉が二回も聞こえたぜ。なんだよ、警察を莫迦にしてんのか 爆弾投げて、あんな大きい船を粉々にしたいんなら、おまえら軍人がやりゃあいいさ。だがな、中にあるブツを無傷で奪うってことになると、おまえらが肩にいくつ星をくっつけていようと、こそ泥にも及ばねえ。こういう作戦は、奇抜な手で行かないとな。徹底的に奇抜じゃねえと それに関しては、おまえらは犯罪者に劣ってる。やつらは、奇抜さにかけては名人級だからな 奇抜さの程度がどんなもんか知ってるか 前に一度、おれが担当した窃盗の案件では、犯人は運転中の列車から、車両をひとつ盗み出した。盗んだ車両の前後の車両を完璧につないで、終着駅まできっちり動かした。使った道具ときたら、ごくふつうのワイヤロープと鉄のフック数個だけ。これこそ、まっとうな特殊作戦の専門家ってもんだ おれみたいに、現場で数十年も汗をかいてきた重大事件専門の刑事にとっちゃ、やつらがいちばんの先生だ。すげえトレーニングと教育を受けてる」
「おまえの作戦案を言え。さもなければ二度と発言するな」常偉思が史強を指して言った。
「ここにはヘビー級の猛者が大勢おそろいだから、おれまで順番が回ってこないんじゃねえかと心配していたよ。発言しなけりゃしないで、昔の上司から、また礼儀がなってないとか言われそうだが」
「おまえはとっくに礼を失しているだろうが さあ、その奇策とやらをさっさと教えろ」 史強はペンを一本とりだすと、テーブルの上に二本の平行線をくねくねと書いた。「これは運河だ」灰皿をとって、その二本の線の間に置く。「これが〈ジャッジメント?デイ〉」。それから、テーブルごしに身を乗り出し、スタントン大佐がさっき火をつけたばかりの葉巻をさっととりあげた。
「もう許せん、この莫迦が」大佐が立ち上がって大声で叫ぶ。
「大史、出ていけ」常偉思が厳しい口調で言う。
「まだ言いたいことは終わっちゃいない。あと一分だ」史強はそう言いながら、スタントンのほうに手を伸ばした。
「なんだ」大佐はぽかんとしてたずねた。
「もう一本よこせ」
 スタントンはしばし逡巡したあと、凝った細工の木製の葉巻ケースからもう一本とりだし、史強に渡した。すると史強は、一本めの葉巻をテーブルにこすりつけて消してから、さっきテーブルの上に描いたパナマ運河の岸辺にそれを立てた。そして、もう一本の端を平らにして、運河の対岸に立てた。
「運河の両岸には、それぞれ柱が立っている。この柱と柱のあいだに、細いワイヤを何本も平行に張る。間隔は〇?五メートルくらい。この細いワイヤは、汪教授たちがつくってる、〝飛刃フライング?ブレード?っていうナノマテリアルだ。じつにぴったりの名前だよな、この作戦にとっては」
 史強はそう言い終えると、数秒、立ったままでいたが、やがて両手を上げると、まだなんの反応もない者たちに向かって言った。「以上」そして身を翻し、会議室を出て行った。
 空気がかたまった。すべての者が石のように動けずにいる。周囲のパソコンの冷却ファンさえ、なるべく静かにに音を出しているように思えた。しばし時間が経ってから、ある者がおそるおそる静寂を打ち破った。
「汪教授、〝飛刃?はワイヤ状なんですか」
 汪淼がうなずいた。「現時点でのわれわれの合成技術では、ワイヤ状のナノマテリアルしか製造できませんが、だいたい毛髪の十分の一の細さです──このことは、会議の前に、史隊長からも確認を求められました」
「いまある数で足りますか」
「運河はどのくらいの幅でしょう」と汪淼はたずねた。「船の高さは」「運河はもっともせまいところで百五十メートル。〈ジャッジメント?デイ〉の高さは三十一メートル。喫水は水深八メートル程度です」
 汪淼はテーブルの上の葉巻を見つめながら、ざっと計算した。「基本的には、じゅうぶん足りますね」
 そしてまた、長い沈黙が降りた。みんな、なんとかショックから立ち直ろうとしているらしい。
「もし三体データが保存されているハードディスクや光磁気ディスクなどの記憶媒体まで切断されてしまったら」ある者がたずねた。
「それほど大きな確率じゃないだろう」
「切断されること自体は、そう大きな問題にはなりませんね」コンピュータの専門家が口を開いた。「それだけ細いナノマテリアル製のワイヤなら、切断具としてはたいへん鋭利で、切り口もきれいに整っているはず。そのような状態であれば、ハードディスクであれ、‐であれ、メモリであれ、中の情報の大部分は復旧可能でしょう」「ほかに実行可能性の高い作戦案は」常偉思が部屋の中を見渡した。しばらく待ったが、だれからも発言がなかった。「よし。それではこのナノマテリアルを使う件について、さらに集中的に討議することにしよう。詳細について検討をはじめる」 ずっと沈黙していたスタントン大佐が立ち上がった。「あの警官を連れてこよう」 常偉思は手を振って、大佐に着席を促した。それから大声を張り上げて、「大史」と呼んだ。
 するとたちまち、史強が入ってきた。にやにやと笑みを浮かべ、史強はその場にいる者たちをじろじろと見る。椅子に座るなり、テーブルの上の運河の両側に置いたままだった二本の葉巻をとり、使用済みのほうを口にくわえ、もう一本はポケットにしまった。
 ある者がたずねた。「〈ジャッジメント?デイ〉が通過する際、その二本の柱は〝飛刃?
を支えられるんですか よもや、柱がまっさきに切断されてしまうなんてことは」 汪淼が言った。「その問題は解決できます。少量のプレート状の〝飛刃?素材を使えば、ナノワイヤを柱に固定するさいのクッションになります」 以後の議論は、主に海軍士官と海運の専門家たちとのあいだで行われた。
「〈ジャッジメント?デイ〉は、パナマ運河を通行できる船としては最大の総トン数だ。
喫水もたいへん深い。だから、ナノワイヤは水面下に敷設することも考えたほうがいい」「それはおそろしく困難だろう。時間が足りないいまの状況では、それは考えないほうがいい。船底には、エンジン、燃料油、バラストなどが詰まっているから、激しい騒音や震動に見舞われる。コンピュータ室やそれに類する設備をそんな場所に置くわけがない。それだったら、水上の部分で、ナノワイヤの間隔をもっとせまくしたほうが、より高い効果が期待できる」
「では、運河の三つの閘こう門もんのうちどこか一カ所に仕掛けるのがベストですね。
〈ジャッジメント?デイ〉はパナマックス船 パナマ運河では三十二メートルの幅の閘門を通過するため、一部の大型船舶は、最大幅三十一メートルで設計されており、それをパナマックスと呼ぶ で、閘門をぎりぎり通れる船幅だから、〝飛刃?のワイヤの長さは三十二メートル程度あれば済む。それに、閘門なら、柱を立ててワイヤを張り渡す作業も楽になる。とくに水面下では」
「だめだ。閘門のあたりはどんな状況になるか予測がつかない。それに閘門の内側では、船は、〝ミュール?と呼ばれる、線路の上を走る四台の電気機関車に牽引される。速度はかなり遅いし、クルーがいちばん警戒するのも、船が閘門の内側にいるときだ。船を切断する作戦に、その時点で気づかれる可能性が高い」「ミラフローレス閘門のすぐ外のアメリカ橋は 両岸の橋台が、ワイヤを張り渡す柱に使える」
「それは無理だ。橋台の間隔が広すぎる。〝飛刃?の材料が足りない」「ではこうしよう。行動位置は、ゲイラード?カット パナマ運河の主要人工開削部分で、河道がたいへんせまい のいちばんせまい箇所だ、幅百五十メートル。支柱を立てる余幅を考えれば、ワイヤの長さは百七十メートル」
「もしそれで行くなら、上下の間隔は最小で五十センチメートルですね」汪淼が言った。
「それ以上間隔をせまくするには材料が足りない」「ということは」史強が煙を吐き出して言った。「船は、昼間に運河を通過させるのがいいな」
「なぜだい」
「夜は船に乗ってる連中は寝てるだろ。みんな横になってる。五十センチの隙間は広すぎるが、白昼なら、たとえ座ったりしゃがんだりしていたとしても、五十センチあればじゅうぶんだ」
 ぱらぱらと散発的に、ひとしきり笑いが起こった。重圧を感じている参加者たちは、血なまぐさい冗談でも、多少はリラックスできた。
「あなたって人はほんとうに悪魔ね」国連の女性担当官が史強に言った。
「罪のない人も傷つける可能性がありますか」汪淼がたずねた。その声は、だれにでもわかるほど震えていた。
 海軍士官が答えた。「閘門を越える際には、船をつなぐ作業員が十数名、乗船しますが、船が通過したあとは下船します。パナマ領の水先案内人は、船に乗船して、八十二キロメートルの運河を同行する。確実に犠牲になります」 の担当官が言う。「それと、〈ジャッジメント?デイ〉に乗船している一部の船員も、船がなにをしているのか、おそらく知らないだろう」「教授、そういうことは、いまあなたが考えることじゃない」常偉思が言った。「そもそも、あなたがた科学者が考えるべきことではありません。われわれが得たい情報は、人類文明の存亡に関わるものだ。だれかが最後の決断をしなければならない」 会議が終わったとき、スタントン大佐が例の凝った細工の葉巻ケースをテーブルの上から史強の目の前にすべらせた。「警官、極上のハバナだ。プレゼントするよ」 四日後──パナマ運河のゲイラード?カット。
 汪淼には、異国にいるという感覚がまるでなかった。西側のさほど遠くないところに美しいガトゥン湖があり、東側には壮麗なアメリカ橋とパナマシティがあることはわかっている。だが、汪淼に、それを見る機会はなかった。
 二日前、汪淼は飛行機で中国からパナマシティ近くのトクメン軍用空港に直行し、それからヘリコプターで直接ここまでやってきた。目の前の景色は、ありふれたものだった。
運河の幅を拡張する土木工事が進行中のため、両岸の山の熱帯雨林はまばらになり、黄土が露出した区画が斜面に大きく広がっている。その色合いは、汪淼にもなじみのあるものだった。運河も、それほど特別な感じはしなかった。たぶん、ここでは極端に幅がせまくなっているからだろう。しかしそれでも、運河のこの部分は、前世紀、およそ十万人の人々が鍬を振るって人力で掘削した箇所だった。
 汪淼とスタントン大佐は、なだらかな斜面の中ほどにある四阿あずまやの長椅子に腰を下ろしていた。この位置からは、下の運河が一望できる。ふたりとも、ゆったりした花柄のプリントシャツを着て、現地の大きな麦わら帽子をそばに置いていた。見た目はふたりとも、ふつうの観光客のようだ。
 彼らがいる場所の真下にある運河の両岸には、長さ二十四メートルの鋼柱が二本、横倒しに置かれていた。二本の鋼柱のあいだには、長さ百六十メートルの超強度ナノワイヤ五十本が、約〇?五メートル間隔で張り渡されている。それぞれのナノワイヤの東岸の端には、ふつうの鋼線が連結されている。こうすることで、ナノワイヤに多少のたるみが生じ、ワイヤにとりつけられた小さな錘の重量で、ナノワイヤを運河の底に沈ませることができる。この仕組みにより、他の船がナノワイヤの上を安全に通過できるようになった。
さいわい、運河の交通量は汪淼が想像していたほど多くはなく、通過する大型船舶の数は、一日平均で四十隻程度だった。
 二本の鋼柱の一端は、地面の基礎にあるギアにつながれている。〈ジャッジメント?デイ〉の前の、最後の一隻が通過するのを待ってから、鋼線を引き戻してたるみをなくし、ナノワイヤを右岸の鋼柱に固定したあと、最後に鋼柱を立たせることになる。
 作戦のコードネームは、かたちが似ていることから〝古こ筝そう? 筝の原型にあたる、中国の伝統的な撥弦楽器 と決まり、ナノワイヤで構成される切断網は〝琴?と命名された。
 一時間前、〈ジャッジメント?デイ〉がガトゥン湖からゲイラード?カットに入ってきた。
 スタントン大佐は、いままでパナマへ来たことがあるかと汪淼にたずねた。汪淼がないと答えると、大佐は言った。
「わたしは一九八九年に来たことがある」
「例の戦争で その年十二月、米軍がノリエガ独裁体制のパナマに侵攻した 」「そうだ。だがわたしに言わせれば、あれはもっとも印象の薄い戦争だった。記憶にあるのは、バチカン大使館の前で、包囲されていたノリエガ将軍のために、マーサ?リーヴスザ?ヴァンデラスの『Nowher to Run』を流したことぐらいだな。あれはわたしのアイデアだった」
 眼下の運河では、雪のように真っ白なフランスの遊覧船がゆっくりと航行しているところだった。グリーンのじゅうたんを敷きつめた甲板の上で、色とりどりの服装をした観光客たちがぶらぶら歩きまわっている。
「二号観察ポイントより報告。ターゲットの前方には一隻もありません」スタントンのトランシーバーから、報告の声が聞こえた。
「琴を立てろ」スタントンが命じた。
 ヘルメットをかぶった作業員風の男たちが数名、運河の両岸に現れた。汪淼は立ち上がろうとしたが、大佐に引き戻された。「心配ないよ、教授。彼らはうまくやってくれる」 汪淼は、右岸にいる作業員たちが、ナノワイヤに連結されている鋼線をきびきびとウィンチで巻き上げるのを見守った。ぴんと張ったナノワイヤは、同じ〝飛刃?素材でできたプレートで、鋼柱にしっかり固定されている。それから、両岸の作業員が同時に数本の長い鋼のワイヤをひっぱり、二本の鋼柱がゆっくりと立った。偽装のため、二本の鋼柱には航路標識と水位マークがかけられている。彼らは落ち着きはらって作業をやり遂げたばかりか、平凡でつまらない日常業務を面倒くさそうにこなしているようにさえ見えた。汪淼は鋼柱の間の空間に目を凝らした。なにもないように見えるが、そこにはすでに、死の琴がスタンバイしている。
「ターゲットから琴まで、あと四キロメートル」トランシーバーの声が言う。
 スタントンはトランシーバーを置いて、さっきの話を再開した。「二度目にパナマに来たのは一九九九年のことだ。運河の返還式にも立ち会うことができた。不思議なことに、われわれが管理局ビルの前までいくと、星条旗がもう下ろされていてね。聞けば、アメリカ政府が前日に、旗を下ろすよう要求してきたらしい。公衆の前で旗を下ろすところなんか見せたくなかったんだな──あのときは歴史のひとコマを見たように思ったが、いま思えば、そんなのはとるに足りない問題だった」
「ターゲットから琴まで三キロメートル」
「たしかに、とるに足りないことですね」汪淼が相槌を打ったが、スタントンの話などろくに耳に入っていなかった。いま、汪淼の意識はすべて、まだ視界に現れていない〈ジャッジメント?デイ〉に注がれていた。世界の残りの部分は、汪淼にとってすでに存在しないも同然だった。
 早朝、太平洋の方向から昇った太陽は、このとき、大西洋に沈んでいくところだった。
運河の大西洋側は、夕陽を浴びて金色に輝いている。その手前、汪淼の眼下には、死の琴が静かに立っている。二本の鋼柱は真っ黒で、陽の光をまったく反射しない。それらのあいだを流れる運河よりもさらに古いもののように見えた。
「ターゲットから琴まで二キロメートル」
 スタントンは、トランシーバーの声が聞こえていないかのように、なおも滔々と話しつづけている。「異星人艦隊がまさに地球へ向かって航行していると聞いたときから、わたしは記憶喪失に悩まされている。妙なことに、思い出せないことが多いんだ。自分で経験した数々の戦争の細部が記憶から抜け落ちている。いま言ったとおり、そういう戦争なんてみんなとるに足りないものに思える。この真実を知ってから、だれもがみんな、精神的に新しく生まれ変わり、世界を新しい目で見るようになった。ずっと考えているんだが、もし仮に、いまから二千年前か、それよりもっとむかし、数千年後に宇宙から侵略艦隊がやってくると知っていたとしたら、いまの人類文明はどうなっていただろう。想像できるかね、教授」
「いや、ちょっとそれは……」汪淼はうわのそらで答えた。
「ターゲットから琴まで一?五キロメートル」
「教授、思うにあなたは、この新しい時代のゲイラード パナマ運河を建設したエンジニア になる。あなたの新しいパナマ運河が建設されるのを待ってますよ。宇宙エレベーターは、まさに運河だ。パナマ運河がふたつの大洋を結びつけるように、宇宙エレベーターは地球と宇宙をつなぐことになる」
 汪淼はようやく気づいた。大佐がこういう無意味な話をくどくどしゃべりつづけているのは、いまこのときの汪淼の苦しい心情を思い、緊張をすこしでもやわらげようとしてのことだったのだ。汪淼はいたく感激したものの、残念ながらその効果はさほど大きくなかった。
「ターゲットから琴まで一キロメートル」
 運河の西側から、〈ジャッジメント?デイ〉が姿を現した。夕陽を背にして、河面の金色の波の上に黒いシルエットが浮かんでいる。六万トンクラスのこの巨船は、汪淼が想像していたよりもかなり大きかった。船が見えてきたとき、西側にまた山の峰が現れたかと思ったくらいだった。この運河は七万トンクラスの船舶も通行可能だと知っていたものの、これほど巨大な船がこんなにせまい水路を航行しているのを目のあたりにすると、なんとも奇妙な感じがした。船の大きさにくらべると、船の左右の川面はほとんど存在しないも同然で、そのため、大きな山が陸地を移動しているように見えた。落日の光に目が慣れてくると、〈ジャッジメント?デイ〉の黒い船体の細部が見えてきた。上層部の構造物は雪のように白く、巨大なパラボラアンテナは消えている。巨船のエンジンの轟音も聞きとれた。さらに、そのまるい船首に押し分けられた波が、運河の両岸にぶつかって大きな水音をたてている。
〈ジャッジメント?デイ〉と死の琴の距離が縮まるにつれ、汪淼の心臓の鼓動も加速した。呼吸まで速くなってきた。すぐにでも逃げ出したい衝動にかられたが、体に力が入らず、筋肉を制御できない。そんな心の中に、とつぜん、史強に対する憎悪の念が湧き上がってきた。あの莫迦め、どうしてこんなアイデアを考えついたんだ あの国連の女性担当官が言ったように、あいつは悪魔だ だが、そんな気持ちも、あっという間に過ぎ去っていった。もし史強がそばにいたら、自分の精神的な状況はだいぶよくなっていたのにと思う。スタントン大佐は史強も連れてこようとしたが、常偉思が同意しなかった。あちらではもっと切実に、史強を必要としているのだ。汪淼はふいに、大佐に腕を叩かれていることに気づいた。
「教授、すべては過去になる」
〈ジャッジメント?デイ〉が眼下にさしかかり、死の琴を通過してゆく。二本の鋼柱の間の、なにもないように見える空っぽの空間に船首が触れたとき、汪淼の体が緊張にこわばった。だが、なにも起こらない。大きな船体は二本の鋼柱のあいだをゆっくりと過ぎていく。船体が半分ほど通過したとき、鋼柱のあいだのナノワイヤは、ほんとうは存在しないのでは──という疑念が兆した。
 だが、ごくわずかなしるしが、その疑いを払拭した。船体構造物のもっとも高いところにある細長いアンテナが根本から折れ、切断された部分が転がり落ちていく。
 ほどなく、ナノワイヤの存在を示すふたつめの証拠が現れた。その光景に、汪淼の神経は悲鳴をあげた。〈ジャッジメント?デイ〉の広々とした甲板の後方では、ひとりのクルーがホースの先のノズルを持って、係船装置ボラードを洗浄していた。高いところにいる汪淼の目には、すべてがはっきりと見えた。船のこの部分が鋼柱の間を通過した瞬間、その人物の体がとつぜん硬直し、ノズルが手から落ちた。それと同時に、蛇口に連結されていたゴムホースもその近くで真っ二つに切断され、白い花が咲くように水が噴き出した。クルーは数秒ほどそのまま立っていたが、ほどなく甲板に倒れ込んだ。その体は、甲板に触れると同時にふたつに分かれた。ホースから噴き出ている水が、甲板に広がる鮮やかな赤い血を洗い流す。クルーの上半身が、切り株になった二本の腕を使って血の海を這っていく。手は両方とも、すっぱりと切り落とされていた。
 船尾が二本の鋼柱のあいだを通過したあと、〈ジャッジメント?デイ〉はなおも変わらぬ速度で前へと進みつづけた。いまのところ、なんの異常もないように見える。だが、汪淼の耳には、エンジン音に異様なかん高い雑音が混じっているように聞こえた。やがてその音が、でたらめなノイズに変わった。大型モーターの回転子の中にたくさんのスパナを放り込んだような音。エンジンの回転部分が切断されたせいだと、汪淼は思った。耳をつんざく破裂音が響き渡ったかと思うと、巨大な金属材が〈ジャッジメント?デイ〉の船殻を突き破り、船尾の片側に大きな穴が空いた。金属材はその穴を突き抜けて水中に落下し、高々と水柱を上げた。その一瞬で、汪淼はそれがエンジンのクランクシャフトの一部だと見てとった。
 穴からもくもくと大量の煙が噴き出し、右岸に沿って航行していた〈ジャッジメント?
デイ〉は、煙をたなびかせながら方向転換しはじめ、ほどなく左岸にぶつかった。岸の斜面に衝突した巨大な船首が急激に変形し、斜面を水のようにやすやすと切り裂いて、土の波が四方八方にあふれた。それと同時に、〈ジャッジメント?デイ〉自体も四十以上のひらべったい板にスライスされて、ばらばらに分かれはじめた。各片の厚さは五十センチ。
この距離から見ると、ただの薄い板のようだが、上部の板のほうが、下部の板よりも速く前に進んでいる。その結果、下のほうがだんだんずれてきて、巨船はトランプの山を前へ押しくずしたような姿になった。この四十数枚の巨大な金属片が動くとき、たがいの摩擦でかん高いノイズが発生する。まるで無数の巨大な指がガラスを引っかいているような音だった。
 その耐えがたい音が消えさったあと、水平にスライスされた〈ジャッジメント?デイ〉は、皿の山をトレイに載せて運んできたウェイターがうっかり蹴つまずいてカウンターの上に皿をぶちまけたような状態で、岸にぶちまけられていた。上のほうにある皿ほどいちばん遠くまで滑っていっている。それぞれの断片は、布のように柔らかく見え、かつては船の一部だったとは想像もできないような複雑な形状に、みるみるうちに変形した。
 兵士が大挙して、斜面から岸壁へと突進していく。こんな近くに、こんな多くの人間がいつのまに潜んでいたのだろうと、汪淼は驚いた。ヘリコプターの群れが轟音とともに運河に沿って飛んでいく。色とりどりの油膜で覆われた水上に出ると、〈ジャッジメント?
デイ〉の残骸がある上空で滞空し、大量の白い消炎剤と泡を散布して、残骸の中で燃え広がる火をたちまち食い止めた。他の三機のヘリコプターが、ワイヤロープを残骸に下ろし、人員の捜索を開始した。
 スタントン大佐はもう四阿にいなかった。汪淼は大佐が麦わら帽子の上に放り出していった双眼鏡を手にとり、腕の震えをなんとか抑えようとしながら、〝飛刃?で四十数枚にスライスされた〈ジャッジメント?デイ〉を観察した。このときにはもう、その半数以上が消炎剤と泡に覆いつくされていたが、まだ露出している部分の断面をみると、まるで鏡面のようになめらかで、空の真っ赤な夕焼けをきれいに映していた。その鏡面に、深紅色の染みがひとつついているのが見えた。それが血なのかどうか、汪淼にはわからなかった。
 ──三日後。
尋問者 あなたは三体文明を理解していますか
葉文潔 いいえ。われわれに得られた情報は限られています。三体文明の詳細について確実に知っているのは、彼らからのメッセージを独占しているマイク?エヴァンズおよび降臨派の主摇♂ンバーだけです。
尋問者 だとしたら、あなたはなぜ三体文明にあれほど大きな期待を抱き、彼らが人類社会を改善して理想の社会をつくれると考えたのですか葉文潔 もし彼らが恒星間宇宙を渡ってこの地球にやってこられるのなら、それは三体文明の科学がきわめて高い水準にあることの証拠になる。それだけの科学力を有する社会なら、必然的に、高度な文明と道徳水準を持っているはずです。
尋問者 その推論は、科学的なものだと思いますか葉文潔 沈黙
尋問者 これはわたしの推測ですが──あなたの父親は、科学だけが中国を救えるというあなたの祖父の信念に大きな影響を受けています。そしてあなたは、父親から大きな影響を受けている。
葉文潔 静かにため息をついてわかりません。
尋問者 われわれは、降臨派が保存していた三体世界からのメッセージをすべて入手しました。
葉文潔 そうですか……エヴァンズは
尋問者 彼は、〈ジャッジメント?デイ〉制圧作戦中に死亡しました。当時、彼は〈ジャッジメント?デイ〉の指揮センターにいて、その体は、〝飛刃?により、三つに切断されました。しかし、彼の体のいちばん上の部分は、一メートルほど前まで這い進み、死亡したとき、その目は前方の一点を見つめていました。まさにその方向にあった一台のパソコンの中に、三体世界のメッセージが保存されていたのです。
葉文潔 データはたくさんあったんですか
尋問者 ええ。約二十八ギガバイトにのぼります。
葉文潔 そんなことありえない。星間通信は転送効率がきわめて悪い。どうしてそんなに大量のデータを送信できるの
尋問者 われわれも最初はそう考えました。ですが、事態はわれわれの想像を──もっとも大胆でもっとも突拍子もない想像をも──はるかに超えていました。こうしましょう、これからあなたに、確保したデータの予備分析の一部を読んでいただきます。そうすれば、三体文明の現実がわかるでしょう──ご自身の美しい幻想の中にある三体文明と、いったいどう違っているかも。
 
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07/05 05:00
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