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ラヴレター 08
日期:2025-05-08 11:16  点击:216
 拝啓、藤井樹様。
 お元気ですか?
 あなたの言われた藤井樹とあたしの藤井樹はどうやら同一人物に間違いないようです。
 この手紙の住所をあたしは彼の卒業アルバムの中から見つけたのです。
 たぶんそれと同じアルバムがあなたの家にもあるでしょ?
 今は書棚の中で眠っていることと思います。
 その一番後ろのページにある名簿の中から彼の住所を見つけたのです。
 そこにまさか同姓同名の人がいるなんて思ってもみませんでした。
 すべてはあたしのそそっかしい勘違いのせいです。
 本当にごめんなさい。
 あたしはアルバムを確かめた。確かに一番後ろに住所録がついていた。そこにはもちろんあたしの名前と住所もあった。
 それにしても不思議な話である。このちっちゃな一行がたまたま神戸の女の子の目に留まった偶然も不思議だったし、おかげであんな奇妙な文通が成立してしまったことも不思議だった。
 手紙はまだ続いていた。
 ところで……こんなに迷惑をかけておいてお願いするのも図々しいことなんですが、 もし彼について何か憶えていることがあれば、教えて頂けないでしょうか。
 どんなつまらないことでもいいんです。
 勉強はできたとかできなかったとか、
 運動は得意だったとか苦手だったとか、
 性格は良かったとか悪かったとか、なんでも構いません。
 こんなぶしつけなお願いをして本当にごめんなさい。
 馬鹿な手紙だと思ってくださってかまいません。
 面倒だったら忘れてください。
 ……でももしその気になったらお返事をください。
 こちらも当てにはしないで待ってます。
渡辺博子 
「あてにしないでって、すっかりあてにしてる癖に」 これはなにか書いてあげないと彼女の気も済まないだろう。しかしいざ机に向かったあたしははたと困ってしまった。考えてみたらあたしはあいつに全然いい印象を持っていなかったのである。というよりあいつのせいであたしは中学時代そのものに全然いい印象を持てなかったと言ったほうが正確かもしれない。
 ためらいながらも、とりあえずあたしはペンを走らせることにした。
 拝啓、渡辺博子様。
 確かにあいつのことはよく憶えています。
 同姓同名の人間なんてそう何人もいるもんじゃないからね。
 でも彼との想い出はそのほとんどが名前にまつわるものばかりです。
 といえばだいたい察しがつくと思うけど、それは決していい想い出といえるものではありません。むしろろくでもないと言ったほうがいいようなもんです。
 たとえば入学式の日からして既に悲惨なものでした。
 はじめての教室で先生が出席を取った時、あたしと彼は藤井樹と呼ばれてほとんど同時に返事をしてしまったのです。次の瞬間、クラス中の視線とどよめきがふたりに集中して、もう恥ずかしかったのなんのって。
 あたしにしたってまさか同姓同名の男子が同じクラスにいるなんて思ってもみなかったし、これは一年間ずっとからかわれるかもしれないと思うと、夢や希望に満ちた中学生活が一気に暗あん澹たんとしてきて、いっそのこと転校でもしてゼロからやり直したい気分になったものです。しかしまさかそんな理由で転校なんかできるはずもなく、予感だけが見事に的中し、同姓同名というだけで周囲から不当な差別を受ける暗い中学時代が、あたしと彼を待ち受けていたのです。
 ふたりが偶然、日直になってしまったときなんか朝からもう憂ゆう鬱うつでした。
 黒板の右隅に並んでいるおんなじ名前に相合傘の落書きをされるわ、それぞれの名前の下に♂とか♀とか書かれるわ、たとえば授業で使うプリントをかかえてふたりで廊下を歩いていたり、放課後の教室で学級日誌を書いていたりしようものなら、いきなり背後から「藤井樹!」と声をかけられて思わず同時にふりかえるのを面白がられたり、もう一日じゅう嫌がらせのバーゲンセールのような状態と化すのです。
 ふだんはそこまでではないとはいうものの、まあコンスタントに似たような仕打ちはあるわけで、そんなつらい日々に耐えながらまあこれも一年の我慢だと思っていたら、なんと二年になってもおんなじクラスじゃないですか。
 一新されたクラスであたしたちは新鮮な気持ちでゼロからからかわれるわけ。
 そして三年目もどういうわけか、やっぱり同じクラスになってしまったのです。
 二年間ならともかく三年間もとなると、ちょっと偶然とは考えにくいでしょ?
 これには実は先生たちが面白がってわざとやったって噂うわさもありました。まあ確証はないんだけど、そんな噂がまことしやかに囁ささやかれたりしていたのは事実です。
 それにしてもこんな話、傍で聞いてる分には面白いでしょ。
 でも当時のあたしたちにはホントに冗談じゃなかったわ。
 いっそのことあいつの両親が離婚して、母方の姓にでも改名してくれないかなって本気で思ったこともありました。それかどこか名字の違う家に養子にもらわれて行っちゃえばいいのにとか。
 思えば性格の悪い中学生だったんだな、あたしは。
 まあ要するにいつもそんな風だったので、お互いなんとなく避け合って、あんまり話をしたおぼえもありません。
 いまにして思い返してもなんだかよく憶えていません。
 ご希望に添えない手紙でごめんなさい。
 読み返してみてもなんだかあなたの欲求を満たす手紙だとはとても思えません。
 すみません。でもこれもまた真実なのです。あしからず…………では。
藤井 樹 
 拝啓、藤井樹様。
 わたしの我わが儘ままにあんな丁寧なお返事を頂いて感激しています。本当にありがとう。
 それにしても彼のせいで随分つらい中学時代を送られたんですね。
 これはちょっと意外でした。
 あたしはもっとロマンティックな想い出が隠されているんじゃないかなって期待してたんだけど、現実というのはうまくいかないものなんですね。
 でも彼はどう思ってたんでしょう?
 あなたと同じ気持ちだったんでしょうか?
 ひょっとしたら自分とおんなじ名前の女の子にどこか運命的なものを感じたりしてなかったのかな?
 ふたりの間になにかそんな想い出はなかったんですか?
 もし憶えていたら教えて下さい。
渡辺博子 
 拝啓、渡辺博子様。
 そんな想い出なんかありません。
 前のあたしの手紙の書き方が中途半端だったことをお詫わびします。
 実際あたしたちの中学時代はそんな愛だの恋だのというようなものが存在する余地のないくらい殺伐としたものでした。
 あたしと彼の関係は、例えるならアウシュビッツの中のアダムとイヴってとこかな。繰り返される冷やかしの拷問に生きた心地もなかったわ。
 もちろんそれは彼にしてみても一緒だっただろうし、それはお互いが同じクラスにならなかったらありえなかったことなんだから、もしそれが運命的だというなら、その運命を恨みはしても、感謝することなんか絶対になかったはずだわ。
 クラス委員選挙の時のあの事件なんか思い出すだけでも忌まわしいもの。
 あれは確か二年の二学期のことでした。
 最初にクラス委員を決める投票があったんです。
 ところが開票の時、誰が書いたのか一枚だけこんなのが紛れ込んでいたんです。
『藤井樹? 藤井樹』
 開票係の、あれは稲葉だったかな。あ、稲葉だ。稲葉公貴。
 稲葉がそれをわざと声に出して読み上げたの。
「え~、藤井樹、ハート、藤井樹」
 それをまた書記の子が黒板にわざわざハートつきで書くわけ。
 もうみんな拍手喝采の嵐。でもここまではまだよかったの。
 このぐらいのことはもう慣れっこだったからね。
 でもそれじゃあ済まなかったの。
 クラス委員選挙が終わると、引き続いて各種専門委員の選挙があって、放送委員とか、そういうやつ。その最初が図書委員でした。
 なんか嫌な予感はしたのよ。
 投票用紙が配られるあいだみんな妙にニヤニヤしてて、あちこちで小声で「ハート、ハート」って聞こえるの。
 結果はもうわかったでしょ? ほとんど全員一致であたしと彼でした。
 名前が読み上げられる度に歓声が上がって、開票が終わった瞬間はもうワールドカップのスタジアムかどこかみたいな騒ぎだったわ。
 あたしはもうすっかり自暴自棄な気分になって、もうこうなったら泣いちゃえって思ったの。あの頃学校の中には泣いちゃったもの勝ちっていう不文律があって、とにかく泣いたら泣かせた方が悪者って相場は決まってたの。それは小学校の時から既にそうで、男子は逆に泣き虫のレッテルを貼はられる恐れもあったけど、女の子はとにかく泣いたもの勝ちってところがあったんです。
 でもあたしは昔から泣くのは卑ひ怯きようだと思い込んでて、自慢じゃないけどなんと幼稚園以来、一度も泣いたことがなかったのよ。
 でも今日はいいんだ。こういう時にこそ女の子は泣くもんなんだってあたしは心に念じたんだけど、普段のトレーニングもなしにいきなりは泣けないわよ。机の下で拳こぶしを握りしめ、歯をギリギリかみしめて、涙をねじり出そうとしてたんだけど、出ないのよ。
 そしたら前の席の男子があたしのことを覗のぞき込んで、「おっと! こいつ泣いてるぞ!」なんてはやしたてるわけ。
 あれは……熊谷和也。チンチクリンのサルみたいなヤツ。
 あれは頭に来たわ。だってこっちはまだ泣いてないのよ。
 その一言でもう泣く気も失うせたわ。
 こうなったら腹いせにこいつをぶん殴ってやろうかと思ったら、あたしより先にあいつが手を出したの。
 熊谷和也の椅い子すを蹴け飛とばして、床の上にひっくり返しちゃったの。
 そしてあいつ「いい気になんなよ」なんて捨て台詞ぜりふ吐いて、教室から出て行っちゃったの。
 もう教室の中は水を打ったようにシンとなっちゃったわ。
 ところがその時、開票係の稲葉がふざけてこう言ったの。
「愛の勝利でしたァ~。パチパチパチィ~」
 それがあいつに聞こえたのね。
 突然物もの凄すごい勢いで戻ってきて、気がついたら凄い乱闘になっちゃってるわけ。
 稲葉も最初冗談だよなんて言って彼を静めようとしてたんだけど、そのうち頭に血が上っちゃって、俺は入れてないぞ! 俺は入れてないぞ! なんてわけのわかんないこと叫んだりして、お互い殴る蹴るの大ゲンカよ。
 挙句の果てにあいつ馬乗りになって稲葉の首を絞めたの。ひょっとしたら一瞬の殺意はあったかもしれないわ。だってあいつ全然手加減しないんだもん。
 さすがにみんなもあわてて止めに入ったわ。みんなであいつのこと押さえ込んで、どうにか喧けん嘩かは収まったの。
 それで稲葉の奴はどうなったかっていうと、泡吹いて気絶しちゃってたわ。人間が気を失うのって、あたしあの時初めて見たんじゃないかな。
 その時になってようやく先生がやってきて喧嘩は収まったけど、この事件はクラスの中にいやな跡を残したんだと思うわ。
 それ以来あたしたちに対するいじめはほとんどなくなったけど、そのかわりどこか疎外されているような感じがずっと残ってしまったの。
 結局その時の投票は無効にはならず、あたしたちは揃そろって図書委員をやらされたんだけど、彼は部活が忙しいと言ってほとんど顔も出しませんでした。
 たまに来てもこっちの仕事の邪魔ばっかりして、まるでやる気なさそうでした。
 三年になってクラスが変わって名前をからかわれる風習が復活した時には、むしろホッとしたのを覚えています。
 三年ぐらいになるとみんな少しは大人になるみたいで、からかわれるといってもたいしたことはなかったのもあるけど。
 なんか長々と書いてしまったけど、所しよ詮せんこんな間柄の域を出ない二人でした。
 あなたが期待しているようなことがもしあったとしたら、それはお互いの名前が違っていた場合の方が確率は高かったと思うわ。
 でもどのみちそれもなかったかな。
 …………あなたは彼のどこに惹ひかれたのですか?
藤井 樹 
 拝啓、藤井樹様。
 彼はいつも遠くを見つめているような人でした。
 その瞳はいつも透き通っていて、今まで出会った誰よりも綺き麗れいでした。
 あばたもえくぼという奴かな。
 でも彼を好きになったのはきっとそれが理由だと思います。
 彼は山登りと絵が好きで、絵を描いているか、山に登っているかどちらかでした。
 今もきっとどこかの山に登っているか、絵を描いているかどちらかだと思います。
 あたしはあなたの手紙の中からいろんなことを推理します。
 たとえばあなたの手紙の中に、
〝図書室に来ても仕事の邪魔ばっかりしてる?
 なんて書いてあると、彼だったらどんな風にしてあなたの仕事の邪魔をしたんだろう?
 と考えてみたりするわけです。
 あの人のことだからまたきっと変なことをしたりしたんだろうな、本に変な落書きでも書いてたりしたんじゃないかな、なんて勝手に想像してみたりするんです。
 だからなんでもいいから教えて下さい。
 つまらないと思えることでいいんです。
 こっちにはいろいろ推理する楽しみがありますから。
 よろしくお願いします。
渡辺博子 
 拝啓、渡辺博子様。
 あなたのお願いはあたしにはかえって難しいわ。
 だってつまらないことと言われても、つまらないことなんかもう忘れてしまったもん。
 卒業して十年経ってるんですよ。もう記憶もなにもおぼろげなのは事実です。
 ただ悪戯で思い出したことがあるので、今日はその話を書きます。
 三年の時かな。
 あたしは実は無理矢理やらされた図書委員が結構気に入って、三年の時は自分から図書委員に立候補したんです。
 ところがあたしが手を上げると、あいつも手を上げたの。
 立候補はこの二人だけ。もちろん予想通りみんなからの冷やかし攻撃はあったわ。でもそれよりあたまに来たのは、あいつが立候補したことよ。
 だってあいつ図書委員になったって絶対働かないんだもん。あいつもそれが狙ねらいなのよ。二年の時にすっかり味を占めたのね。
 案の定、あいつはちっとも働かなかったわ。部活が忙しいとか言って大抵顔も出さないんだけど、たまに来たって、本かたづけるぐらいしてもいいじゃない。返却された本を本棚に戻すのも図書委員の仕事だったの。それで受付が忙しい時はひとりじゃそこまで手が回らないのよ。だけどあいつはたまに来ても、全然やってくれませんでした。
 で、なにをやってるかっていうと、なんか妙な悪戯をしてるの。
 あいつ図書室に来ると必ず何冊か本を借りていくんです。それもどんな本かというと、そう……たとえば青木昆陽の伝記とか、マラルメの詩集とか、ワイエスの画集とか、そういうやつ。要するに絶対誰も借りないような本。
 ある日あたしがこんなの読むの? って訊きくとあいつは読むわけないよ、って言うんです。じゃどうして借りるのかと思ったら、あいつ単に誰も借りてない本のまだ白紙になってるカードに自分の名前書くのを楽しんでたんです。
 それの何がおもしろいのか、あたしにはさっぱりわかりませんでした。
 本人は誰にも借りてもらえない本がかわいそうだ、なんて言ってましたが……。
 あいつがそういう悪戯をしていたことは覚えています。
 でも図書カードそのものに落書きをしていた記憶はありませんが、ひょっとしたらしていたのかもしれません。
 あ、落書きで思い出したけど、そういえばこんなことがありました。
 あれは確か期末テストの時。
 採点された答案が返ってきて、あたしは立ち直れないぐらいのショックを受けたんです。
 あれはあたしの得意な英語だったんだけど、なんと二十七点。
 この二十七って数字は今でも忘れられないわ。ところがよく見るとこれがあたしの筆跡じゃないんです。それで名前はちゃんと藤井樹って書いてあるところを見ると、これはもうあいつの答案に間違いないでしょ?
 ところがあいつはなんにも気づいていないみたいで、答案用紙を裏返しにして落書きなんかしてるわけ。
 あたしの予想に間違いがなければ、それはあたしの答案用紙なわけです。
〝勝手に人の答案用紙に落書きなんか書かないでよ?ってほとんど喉のどまで声が出かかったんだけど、授業中だしどうにもならなくて、とにかく休み時間まで待ったんです。
 だけどせっかく休み時間になってもあたしは声をかけることができなかったの。
 なにしろあの頃はみんなにからかわれることに恐怖症になってたから、人前であいつに気安く声なんかかけられないわけ。
〝あたしの答案返してよ!?
 その一言が言えないばっかりに、その日は思いがけない長い一日になってしまったんです。
 言い出すきっかけをみつけられないまま勝負は放課後に持ち越され、ついには校舎裏の自転車置き場で彼を待ち伏せするという事態になってしまったんです。
 あの頃放課後の自転車置き場なんて恋人たちのメッカでした。
 常に何人かの女の子たちがお見当ての先輩の男子を待ち伏せして、そこかしこで告白したり手紙を渡したりしてたもんです。
 あたしなんかいつもよくやるなって、ふだんは他人顔で通りすぎてたんだけど、その日はそんな悠長な状態ではありませんでした。
 最初はあたしもことの重大さに気づいてなくてただ片隅でぼんやり立っていただけなんだけど、やけにみんなじろじろあたしを見ていくわけ。
 なんだろうとしばらく考えてあたしは、やっとその理由に気づいて、その気づいた瞬間なんか思わず気絶しそうになりました。
 あたしはただ答案を返してもらうためにそこにいただけなんだけど、傍はたから見ればさかりのついた女生徒たちと見分けなんかつかないわけでしょ。
 違うんだ! あたしは違うんだ!
 あたしは心の中で思わず叫んでしまいました。
 でもまわりは全くそうは見てくれないわけです。
「あいつ二組の藤井だぜ」
 なんてひそひそ声まで聞こえてもうどうしようかと思いました。
 あれはほんとにきつかった。
 どうにもいたたまれなくてあきらめて帰ろうと思ったんだけど、その時すぐ隣にいた女の子が声をかけて来たの。
 見るとその子は隣のクラスの及川早苗でした。
 口を利きくのはその時がはじめてだったけど、よく男子たちが噂うわさするタイプの女子、中学生の癖に変に色気のある女子。いたでしょ? そういう子(あなたがそういう子だったら、ごめんなさい)。
 及川早苗はあたしにこう訊きいたの。
「あなたも誰か待ってるの?」って。
 待ってると言えば待ってるわけだし、あたしはうっかりうなずくと、彼女こう言うのよ。
 来ないの? って。
 しかたなくまたうなずくと、彼女、
「……お互いつらいわね」
 それでフウッとため息までつかれて、あたしにすればちょっと待ってって言いたかったんだけど、なんにも言えなくて、そのまましばらくふたりでそこに立ってたの。
 するとまた彼女が言うの。
「男ってずるいよね」
「え?」
「そう思わない?」
 …………なんにも答えられなかったわ。
 ところがそれから、彼女突然泣き出したの。
 ひょっとしたら彼女は中学生の癖に、大人の高みを垣かい間ま見みているのかもしれないと思うと、なんかすごい気がしてドキドキしたのを憶えてるわ。
 どうすることもできなくて、あたしはとりあえずハンカチだけ貸してあげたの。下校の生徒たちがまたひときわジロジロ見て行ったわ。あたしは友達でも何でもない彼女の肩に手をかけて、慰めるふりをしてまわりの視線をやりすごしたの。
 ひとしきり泣くと彼女は立ち直って、洟はなをすすりながら、「でも女のほうがもっとズルいもんね」
 ……ひょっとしたら未だにあたしは彼女の高みには届いてない気がするけど、それはともかく、彼女はわたしにハンカチを返してくれて、「お先に。がんばってね」
 なんて言って帰ってしまったの。
 あたしはまたひとりぼっち。
 でもあたしの苦悩なんて及川早苗に比べたらどってことないもの。
 そう思うことにして、しかたなく待つことにしたの。
 部活を終えたあいつが現れた頃にはほとんどみんな下校してしまって、近くには誰もいませんでした。
 日も暮れてあたりは真っ暗で声をかけるには絶好のチャンスでした。
「ねえ、ちょっと」
 暗がりで呼び止められてあいつけっこう驚いてました。あたしもきっとかなり凄すご味みの効いた声だったと思うの。だってこいつが自分の答案に気づかなかったせいで、こんなだいなしな一日になってしまったのよ。
 正直首でもしめてやろうかと思ったぐらいよ。
「なんだ。お前か。驚かすなよ」
 あたしは単刀直入、用件だけ言いました。
「今日のテストの答案用紙、間違ってなかった?」「え?」
「これ藤井君のじゃない?」
 そう言って答案をかざしたんだけど、真っ暗でなんにも見えないんです。
 あいつは自転車のペダルを回してライトをつけて、それで見ようとしたんだけど、回しながら見るのはちょっと無理があったのね。
 どうもうまくいかなくてしかたないから、あたしがペダルを回してあげたわ。
 あいつしばらく自分の答案とあたしの答案を並べて見比べてたんだけど、なかなか顔をあげないわけ。
「なにやってんのよ? 見ればすぐわかるじゃないよ!」 でもあいつ、ちょっと待ってろって言って、やっぱりなかなか終わらないの。
 あたしはだんだん手が痺しびれてきて、なにやってんだろうって思ってたら、あいつボソッと、
「brokenか。breakedじゃねえんだ」
 だって。
 ようするにあいつ答えあわせなんかしてんのよ。信じられないでしょ。
 そこまで書いたあたしはふと気づいて屋根裏部屋に駆け上がった。そして中学時代の教科書やら、ノートやらが入っている箱を開けて中を漁あさった。そしてバインダーにファイルされたプリントの束の中から、問題の答案用紙を見つけた。
 間違いなく英語の答案で、裏には彼が知らずに描いた落書きが残っていた。その落書きが予想外にきれいなデッサンなのを見て、あたしは驚いた。そういえば博子の手紙に絵を描いてた、とあった。ひょっとするとそれは博子なんかにしたらプレミアものかもしれない。送ってあげたら喜ぶだろう。
 その絵は当時流行はやった宮崎美子のジーンズを脱ぐCMの模写だった。
「なにやってんだ?」
 びっくりしてふりかえると、祖父がこっちをのぞいていた。
「なに?」
「引っ越し準備か」
「ちがうわよ」
「そうか」
 祖父はそれでも何か言いたいのか、去ろうとしない。
「なによ」
「樹、お前も引っ越しには賛成なのか?」
「え?」
「賛成か?」
「賛成も反対もないじゃない。もうこんなにガタが来てるのよ」「賛成なのか」
「…………」
 祖父は何かブツブツ独り言を言いながら去って言った。あたしは少しゾッとした。いよいよ来るべきものが来たか、そう思った。
 その話をママにすると、ママは恐ろしいことを言ってあたしを驚かせた。
「人間じゃなければこの家に捨てて行くんだけどね」「何よ、それ」
「ほんとにおじいちゃんにはそれが幸せなのよ」
 この人と祖父の間には時折計り知れない断絶が見え隠れすることがあった。パパ亡き今、二人はアカの他人には違いなかった。しかしあたしはこの問題についてはあまり立ち入らないことに決めていた。どうせ大人の話だから。中学時代からそう決めつけて、そのまま今日に至っているのである。
 あたしは部屋に戻って手紙を仕上げた。そして例の宮崎美子付きの答案用紙と一緒に封筒に入れた。
 そのいわくつきの答案を見つけたので送ります。裏の落書きは彼の直筆です。
藤井 樹 
 
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