その日、郁子が小学校から帰ると、お姉ちゃんが死んでいた。
——何となくおかしい、と感じたのは、門が目に入った辺りで、タクシーがちょうどその前に停《とま》って、中から叔《お》母《ば》さん——「八《はち》幡《まん》の叔母さん」といつも郁子は呼んでいる——がいつになくせかせかと出て来て玄関へと入って行くのが見えたからだ。
あの叔母さんは、いつも落ちつかなくてせかせかしてはいるけれども、今日はどこか違ってる、と郁子は思った。
いつもなら胸をそらし、少し空の方へ顔を向けて「これが私の歩き方よ」と言わんばかりに歩いていく。もし誰かが向うからやって来ても、当然相手がよけるものと信じ切っているから、全く構わずに歩き続ける。
でも、今日は同じ「せかせか」でも、いつもとは違って、気ばかりが焦っているように、「前のめりになって」中へ入って行ったのである。
もちろん、九つの郁子にそこまでの意識があったわけではないにしても、「いつもと違う」ということだけは分った。そしてそれは何か「とんでもないこと」が起ったしるしであるということも。
「——ただいま」
玄関の引き戸を、少しためらいがちにガラガラと開ける。同時に、奥の話し声がピタリと止んだのが分る。
広い屋敷だが、もう大昔から(と郁子は教えられて来た)建っているので、数え切れないくらいの障子や襖《ふすま》がある。
そして、いつも絶えずどこからともなく人の話し声が聞こえているのである。
それが——今、郁子が引き戸を開けたことで一斉に静まり、何の物音もしなくなった。
「ただいま……」
少し気味が悪くなり、囁《ささや》くような声になって、玄関を上る。いつもなら、土間にポンと脱ぎ捨ててしまう通学用の革靴を、今日は上り口に膝《ひざ》をついて、きちんと揃《そろ》えておいた。
ギッ、と廊下が鳴って、
「郁子ちゃん、お帰り」
八幡の叔母さんが和服姿でやって来た。
「今《こん》日《にち》は」
と、郁子は言った。
「お腹が空いた? ママが何かおやつを用意しといてくれるといいわね」
ママだなんて。——郁子は、いつも「お母さん」である。
「お母さん、いないの?」
郁子が訊《き》くと、返事を聞くより早く、当のお母さんが廊下へ顔を出した。
「お部屋へ行って、手を洗ってらっしゃい」
お母さんは不機嫌だった。眉《まゆ》の間に深くしわが寄るのは、何かとてもいやなことが起ったときだ。
そういうときは言われた通りにするのが一番、と郁子はよく知っている。
「——あ、これ」
階段を上りかけて、逆戻り、ランドセルを下ろし、中のポケットからクシャクシャになった封筒を取り出して、「先生が……」
「後で読んどくわ」
と、お母さんは気もそぞろの様子で受け取って、トントンと階段を上る郁子の背中へ、「離れに行っちゃだめよ!」
と、叫ぶように言った。
郁子は、
「はい」
と、二、三段は勢いで上り、何が起ったのか、察した。
母——藤沢早苗も、自分の言葉が郁子にどう受け取られたか、気付いたようで、
「今……お医者さんが——笹倉先生がみえてるからね」
「お母さん」
郁子は、階段を下りて来た。「お姉ちゃんが……」
「郁子ちゃん」
と、八幡の叔母さんが、少し身をかがめて——本当はそんなに背丈も違わないのだけれど——肩に手をかけ、「裕美子ちゃんはずっと具合が悪かった。知ってるわね」
郁子は母に答えてほしかったのだ。しかし、母は障子の奥へふいと消えてしまった。
「——ともかく、先生がお帰りにならないと」
奥から若い男の声がした。郁子も知っている、父にいつもついて歩いている男で、若いのか年とってるのか、よく分らない人だ。
「でも、明日になるわ。国際電話が……」
「連絡さえ取れれば、パリですから」
「圭介はあてにならないから、小野さん、お願いね」
「はい、一切は——」
「さ、上に……」
と、叔母さんが郁子を促す。
階段を、郁子はほとんど駆け上るような勢いで上って、
「——まあ、そんなに急がないで。叔母さん、死んじゃう」
と、息を切らして上って来た叔母さんが、自分の言ってしまったことにハッと引っかかって、胸もとへ手をやる。
「——お姉ちゃん、死んだ?」
郁子が訊くと、叔母さんは少しホッとした様子。
「ええ。でも、少しも苦しまなかったのよ。眠るみたいに静かで——」
と言いかけて、何も言わない方がいいと思い直したのか、「さ、着がえてらっしゃい。お葬式でも、きちんとしててあげないと、お姉ちゃんが可《か》哀《わい》そうね」
郁子は黙って叔母の手から逃れると、二階の廊下を小走りに自分の部屋へと急いだ。
中へ入って襖を閉めると、ランドセルを投げ出し、窓へ寄る。
窓からは庭と、緑色の屋根の離れが見下ろせた。離れとはいっても、母《おも》屋《や》と渡り廊下でつながっている。
その渡り廊下を、今、母と話していた小野が急いで離れへと向うのが見えた。
お姉ちゃんは死んだ……。
郁子は、なぜだかずっと前からその日のことを知っていたような気がした。一度、思い出せないくらい昔に、この日を経験したことがあるような気がした。
でも、もちろんそんなことはないのだ。九歳の郁子にとって、「遠い昔」なんて、まだ存在しないのだから。
離れから、小野と、笹倉が出て来た。——TVの時代劇でいつも悪役をやる役者とよく似た医者である。いつも酒くさかったりして、郁子はほとんど近寄ったことがない。
二人は、何やらしゃべりながら母屋へと戻ってくる。
郁子は窓から離れた。
離れの戸は細く開いていた。
——郁子はそっと戸を引いて、中へ入って行く。
少しも怖くはない。だって——死んでしまったとしても、ここが「お姉ちゃんの部屋」であることには変りない。
入って、すぐにおかしいと思った。
足の感触が……。ここは、父の仕事場だった所で、洋間になっている。床に古くて色のあせたカーペットが敷きつめてあった。
それが……。今は、床がむき出しで、カーペットは外されてしまっていた。
あんなに大きな物を、どうしたんだろう?
郁子は、いつものベッドにお姉ちゃんが寝ているのを見た。いつもなら、郁子が入ってくると、嬉《うれ》しそうに頭を枕《まくら》の上でゆっくり動かして、
「お帰り」
と、言ってくれた。
郁子は、ベッドへ近寄ってみた。
自分でも、涙一つ出て来ないのがふしぎで、といって、お姉ちゃんが死んだということは、きちんと受け止めていたのである。
カーテンが引かれているので、部屋の中はやや薄暗く、お姉ちゃんの顔は柔らかい薄《うす》闇《やみ》に包まれていた。
白い顔色も、もともとのものだったから、いつもと変らない。
お姉ちゃん——裕美子は、郁子の知っている限り、ずっとこうして寝たきりの生活をしていたのだ。
髪は大分白くなっていた。乾いて、水気をすっかり失っている。
郁子は、ちょっと眉をひそめた。
お姉ちゃんの首に、びっしりと包帯が巻かれているのである。
何だろう? 郁子はそっと顔を近付けて、目をこらした。
もちろん、寝たきりの裕美子の首は細くて、若いのに——まだやっと二十五だった——そこだけが年寄りのようにしわだらけになっていた。郁子は、いつも裕美子と話すとき、首の辺りを見ないようにしていたものだ。
でも今はそこに分厚く白い包帯が巻かれている。——一体何の意味なんだろう?
ともかく「お姉ちゃん」はいつもと少しも変りなく、美しかった。いや、生きているころ以上に、肌がつややかで滑らかに見える。そんなことはあるはずがないのかもしれないけれども、事実、郁子の目には、裕美子が「手を触れることもできない」くらいに滑らかで美しい人に見えたのだ。
「お姉ちゃん……」
そっと指先で裕美子の頬《ほお》に触れる。くすぐったがって、目を覚ましそうだ。
郁子と十六も年齢の離れた裕美子は、姉というにはあまりに特別な存在だった。でも、小さいころから、郁子はどこかで思っていた。
私と一番似ているのは、お母さんでもお父さんでもなくて——もちろん、お兄ちゃんでもなく、お姉ちゃんなのだ、と。
でも——もうお姉ちゃんは、学校であったことを楽しそうに聞いてはくれない。困ったときに、その微《ほほ》笑《え》みで助けてはくれない。
不意に、郁子の目から涙が溢《あふ》れて来た。そして一《いつ》旦《たん》溢れ出すと、しばらくは止りそうもなかった……。
「——何をしとる!」
しゃがれた怒鳴り声に、郁子は全身ですくみ上った。
笹倉医師が戻って来ていたのだ。
「入っちゃいかんと言われとるだろう!」
と、笹倉は不機嫌な目つきで郁子をにらみつけ、「触るんじゃない!」
郁子は、手の甲で涙を拭《ぬぐ》うと、じっとこの年寄りの医者を見返した。怖くなんかない。
「何だ、その目つきは」
笹倉は離れの中へ入って来ると、「可《か》愛《わい》げのない奴だ」
と言った。
お酒を飲んでいる。プンと匂《にお》った。郁子は匂いに敏感なのだ。
「さ、出てけ! 子供のいる所じゃない」
郁子は、黙って出て行く気にはなれなかった。
「お姉ちゃんは、酔っ払った人が嫌いだよ」
と、郁子は真直ぐに笹倉を見つめて言ってやった。
老いた酔っ払いは、反応が鈍い。郁子がそこまで見越していたかどうかはともかく、笹倉が怒りで顔を真赤にするころには、もう郁子は渡り廊下を母屋へと渡り切ってしまっていたのである。
「——雨か」
と、タバコを灰皿へ押し潰《つぶ》し、「あいつのときはいつも雨だ」
ひっそりと、人気の失せた居間に、その小さな呟《つぶや》きはしみ通るようによく聞こえた。
「お帰り」
と、郁子が言うと、
「何だ。——黙って突っ立ってるなよ」
兄、圭介は、まだ背広姿である。
「もう会社、終ったの」
と、郁子は居間に入ると、ソファに腰をおろした。
「電話で帰って来たのさ。——妹が死んだんだからな」
郁子は、何となく冷ややかに兄を眺めていた。——兄、圭介のことが嫌いというわけじゃない。何しろ九歳の郁子から見れば、もう今年三十になる圭介は「どこかの大人」でしかない。
それに、圭介はまるで感情というもののないような人間で(少なくとも、郁子から見れば)、郁子の憶《おぼ》えている限り、圭介が怒ったり泣いたりしているのを見たことがない。
笑うことはあるけれど、それはたいてい酔っ払っているときだった。
妙なことだが、寝たきりで一歩も動けなかった裕美子の方が、圭介よりもずっと「活き活きとして」見えたのだ。
「——何が『いつも雨』なの?」
雨……。秋の雨というよりは、真夏の夕立に近い雨だった。
少し前から、まるで何時間もくり上げて夜になったように辺りが暗くなり、やがて大粒の雨が叩《たた》きつけるように降り始めた。雷も鳴った。風も吹きつけて、窓ガラスを揺らしている。
それでいて、居間の中は静かで、郁子の問いにギクリとした圭介の息づかいさえ聞こえたのだった。
「何だって?」
「今、言ったじゃない。『あいつのときはいつも雨だ』って」
圭介は一旦妹へ向けた目をまた窓の方へそらして、
「そんなこと、言ったか?」
「言ったよ」
「そうか」
圭介は、上着のポケットからタバコを出して、「——これきりか」
最後の一本に使い捨てのライターで火を点《つ》け、パッケージをギュッと握り潰す。
「何が『いつも』なの」
「何でもないよ。お前——泣きわめいてるかと思ったぞ」
「泣いたよ。でも、ちゃんとしなきゃ。お葬式があるでしょ」
「そうだな」
圭介はふと思い付いたように、「親父はどうしたって?」
「小野さんがパリに電話してたよ」
「連絡ついたのか」
「じゃないの? お母さんに訊《き》いて」
と、郁子は言った。「——ね、どうして『いつも』なの?」
「しつこい奴だな」
圭介は笑った。——妹が死んだというのに、笑ったのである。
「あいつが大けがしたときも……凄《すご》い雨だったのさ」
圭介はそう言って立ち上ると、窓の方へと歩いて行った。「——雷が見える。な、見ろよ」
部屋を揺がすような雷鳴が空を満たした。
郁子は窓の所まで行ってみた。
「今見えたんだ。ギザギザの光が。——あの辺にさ」
灰色の分厚い雲の合間を、一瞬、白い光が裂け目のように走った。そして、何秒かの間を置いて、這《は》うような低い轟《とどろ》き。
——お姉ちゃんが死んで、空が嘆き悲しんでる。
郁子はそう思った。信じているわけでなくても、そう思うことはできる。それが郁子をわずかに慰めた。
「——お姉ちゃん、どうして死んだの?」
郁子の問いに、圭介は初めて戸惑った様子を見せた。
「ずっと悪かったんだぜ、知ってるだろ、お前だって。いつどうなっても——」
「首に包帯してた」
圭介は、しばらく何も言わなかった。
「——包帯?」
「それに、どうしてカーペット外しちゃったのかな」
圭介は黙っていた。分らなくて何も言えないんだろう、と郁子は思った。
「——そうだったか? さっきチラッと見たけど……忘れたな」
忙《せわ》しげに、足音が階段を上り下りして行く。けれども、居間は忘れられたように、ポツリと取り残されているのだった。
「誰か来たか」
と、圭介は言った。
「八幡の叔母さん」
「ああ、そりゃ分る。あの声なら、百メートルも家から離れたって聞こえるぜ」
圭介は、何かと意見したがるあの叔母が苦手なのだ。
「あと、あのお医者さん、お酒飲んで、酔っ払ってる」
「——笹倉? そうか。自分だって、もう葬式の日取りでも決めて予約した方が良さそうなのにな」
郁子も、こういう圭介の言い方は時に面白いと思うことがある。
「——お帰りでした?」
居間を、少し頬《ほお》の赤い丸顔が覗く。
「ああ、今帰って来た。お袋にそう言ってくれ」
「もしお帰りになったら、離れにおいで下さい、って奥様が」
「俺も? 小野がいるんだろ? 俺なんか用ないじゃねえか」
と言いつつ、タバコを消す。
郁子は、圭介が裕美子のことを「さっき見た」と言ったのが嘘《うそ》だったと知った。離れに入りたくないのだ。
「お前も長いことご苦労さんだったな」
圭介は、和代に言った。
和代は、ずっと裕美子の面倒をみて来たお手伝いさんだ。太い腕、がっしりした腰つき、どっしり踏みしめる足……。
寝たきりの裕美子を入浴させたりするのに、和代は誰の力も借りないでやってのけていた。確かに大変な仕事ではあっただろう。
「いいえ」
いつも、あまり表情というものを見せない和代である。
圭介が離れへと気が進まない様子で行ってしまうと、和代は郁子を見て、
「お腹、空きませんか?」
と言った。
郁子はそんなこと、考えてもいなかった。
「少し空いたかな」
お姉ちゃんが死んだのに、お腹が空いたなんて言って……。郁子は胸が痛んだ。
すると、和代は、
「親が死んでも、お腹は空くもんですよ」
と言ったのである。
郁子は、自分の気持を和代が分ってくれているという驚きと、その言葉に少しホッとして、
「何か食べたい」
と、素直に言った。
「そうそう」
和代は、郁子の頭をその大きな手で軽くつかむと、「九つの女の子なら、どんなときでもお腹が空いて当り前」
「和代さん。辞《や》めるの?」
別に深い意味があって訊いたわけではない。和代は裕美子の世話だけをしていて、それ以外の家事は、通いの家政婦と母がしていたから——それは和代の労働の大変さを思えば当然のことだ——その仕事がなくなって、辞めるのかしら、と郁子は思ったのである。
だが、郁子の問いは和代にとって単なる質問以上のものを持っていたようで、
「——さあ、どうなるかしら」
と、何か考え込みながら言ったのである。
「どうなるかしらね」
和代はくり返して言った。それから、
「さ、台所で何かサッと食べちゃいましょ。奥様に呼ばれたら、しばらくは何も食べられませんよ」
と、郁子を促したのだった。