こういうとき、大人たちはそれぞれ色んなことを言うものだ。
「疲れただろう。郁子ちゃんはもう寝なさい」
と言う人がいるかと思えば、
「郁子ちゃんも、そんなに小さな子供ってわけじゃないんだから、お客さんたちがみんな帰ってしまうまでは、寝ちゃいけないよ」
と言う人もいて——。
郁子としては、母に訊くのが一番確かだと思うのだが(何が正しいということではなくて、今、さし当りどうしたらいいか、という点で)、母の早苗は来客の応接に追われて、とても郁子が話しかけたりできる雰囲気ではない。
兄の圭介は、親《しん》戚《せき》たちと飲んでいて、すっかり酔っ払ってしまっている。——もうずいぶん早い内から飲んでいるのだ。当り前である。
郁子は、これは一体誰のためのお通夜なんだろう、と思った。
和室の、二間をつなげて通夜の席ができている。いつもはあまり使わない部屋だが、今は、郁子の目に少しまぶしいほど明るい。
眠気がさしているせいだけでなく、一つは香が立ちこめて目にしみるせいでもあるし、白木の明るさ、白い菊の花の明るさが、部屋の照明をさらに明るくはね返しているからでもある。
それにしても——まるで魔法のようなスピードでこの大がかりな祭壇が出来上るのを見たときは、郁子も裕美子を失った悲しさをしばし忘れて唖《あ》然《ぜん》としてしまったものだ。
正面では、モノクロの写真の中で裕美子が笑っている。——いつの写真なのか、ともかく十六のとき、事故に遭ってから寝たきりだった裕美子である。元気で起きている写真はそれ以前のものしかない。
郁子も初めて見る、その裕美子の笑顔は、ふっくらとして、もうじき自分を待ち受けている辛い運命など全く予感することもない明るさに満ちている。
郁子は、座《ざ》布《ぶ》団《とん》の上でお尻をモゾモゾと動かした。今の子供としては、郁子は正座することに慣れているが、それでも長くなると辛い。
八幡の叔母さん——柳田靖江に言われて着た、グレーのワンピースが少し小さくてきついせいもあっただろう。
弔問の客はあらかた終って、今は七、八人の親族だけが固まっておしゃべりをしていた。
郁子は、ちょっと立って台所へ行った。
「——和代さん」
と覗くと、椅《い》子《す》にかけてタバコをふかしていた和代が、
「あら。——見られちゃいましたね」
と、少しあわてた様子で灰皿にタバコを押し潰した。
「和代さん、タバコ喫《す》うんだ」
「時々ね。内証ですよ。奥様、いやがられますからね」
「喉《のど》がかわいたの。何かちょうだい」
「はいはい。——ずいぶんお酒も出たわ。酒屋さんが何回も配達してくれて……」
郁子は、タバコの匂《にお》いの漂っているのをちょっとかいで、
「お兄ちゃんと同じタバコね」
と言った。「匂いで分る」
「同じのにしとけば、圭介さんが喫ったんだって思われるでしょ。——はい、冷たいお茶の方がいいでしょ」
「ありがとう!」
コップを受け取って、飲み始めると、どんなに喉がかわいていたかよく分って、一気にほとんど飲み干してしまった。
「——おい、もう少しビール、あるか?」
と、圭介が顔を出し、「何だ、郁子も逃げて来たのか」
「逃げたんじゃないわ、飲みものがほしかっただけ」
と言い返すと、和代が、
「逃げたくもなりますよね。男の人たちは飲んでばっかり」
「いいから、何本か持って来てくれよ」
「はい、すぐに」
圭介は、少し足もとも危なっかしい感じで戻って行く。
「——郁子さん、もう寝た方が。どうせあの人たち、夜中まで飲むんですよ」
和代が盆にビールを三本のせて出て行く。
郁子は、広い台所の中で、一人になってホッと息をついた。
考えてみれば、何だかくたびれちゃったのは、今日一日一人になる時間がほとんどなかったからかもしれない。
郁子は一人でいるのが少しも苦にならない。いや、むしろ一人でいる方が楽——といっては子供らしくない言い方かもしれない。
電話が鳴り出して、郁子はびっくりした。
ともかく静かな中に甲高く鳴り響く電話の音は、飛び上るほどのショックである。
誰かが出てくれるかと思ったが——お通夜の席は、普段あまり使わない部屋なので電話から離れている。
郁子は、鳴っているのが家族や特に親しい人間しか知らない番号の電話だと気付いて、放っておくわけにもいかなくなった。
立って行って、受話器を取る。
「はい、藤沢です」
と言うと、どこか表かららしい、ザワザワした気配。
「——郁子か?」
少し遠い声だったが、
「お父さん? 今、どこ?」
「成田だ」
と、父は言った。「小野が迎えに来てない、何か聞いてるか」
九つの子に、そんなことを誰も言うわけがない。
「誰か呼んでくる?」
「ああ、今来た! ——おい! こっちだ!」
と、怒鳴っている。
「お母さんと代る?」
「今から帰る。そう言っとけ」
「はい」
電話が切れる前に、
「何やってるんだ!」
と、文句を言う父の声が聞こえて来た。
父の声はよく通るのだ。何しろ大学の教授として、もう何十年もやって来ている。
でも——お姉ちゃんのことを、ひと言も言わなかった。
さほど驚きはしないが、寂しかった。
ともかく、母に伝えなくては、と歩きかけたとき、また電話が鳴り出した。
お父さんかな? 言い忘れたことでもあるんだろうか。
「——はい」
と出て、すぐに、父でないことは分った。
電話口の向うは、静まり返っていたのである。
「もしもし?」
と言うと、
「郁子ちゃんか」
ホッとしたような声音で、「梶原だよ」
「あ……」
「仕事で出張しててね。今、まだ大阪なんだけど」
「聞きました」
「裕美子君が……」
「うん」
「伝言をホテルで受け取ってね。——すぐ駆けつけたいが、明日にならないと……。告別式には必ず行く」
「うん」
「残念だね」
「うん」
しばらく、梶原は黙っていたが、郁子には、その沈黙は互いに慰め合う言葉そのもののように聞こえていた。
「お姉ちゃんは、何か言い遺したかい?」
と、梶原は訊いた。
「私……学校から帰ったら、もう……」
「そうか。きれいな顔してたかい」
「——うん」
包帯のことを話したかったが、今は誰が台所へ入ってくるか分らない。
「じゃ、あまり苦しまなかったんだろう。——明日、できるだけ早く戻るからね」
「うん」
「郁子ちゃんのことを、彼女は一番好きだったからな」
梶原の言葉は、郁子にとっても嬉しかった。
「じゃあ……」
電話を切って、郁子は少し頭の痛みが取れた気がした。
「——郁子さん、お電話、出て下さったんですか」
と、和代が戻ってくる。
「あ。——お父さんから電話。今、成田だって」
と、郁子は言った。
梶原からの電話のことは、言わなくてもいいだろう、と思った。言いたくなかった、という方が正確かもしれない。
「あら。じゃ、奥様にそうお伝えしなきゃ」
と、和代が言ったところへ、当の早苗がやって来た。
「和代さん、明日は朝六時から手伝いの人が来てくれるから——。郁子、ここにいたの。もう寝たのかと思った」
お母さんに何も言わないで寝るわけがない。
「今、先生からお電話で、成田だということで……」
「そう。他に何か言ってた?」
「私が出たの」
と、郁子は言った。「今から帰るって、それだけよ」
「じゃあ、あと——何時間かかかるわね。郁子はもう寝ていいわよ。明日も早く起きなきゃいけないから、そのつもりでね」
「うん」
「和代さん、大変だと思うけど——」
「いえ、これが最後ですから、裕美子さんのことは私がやらせていただきます」
「よろしくね」
「ちょっとウトウトすれば充分で——。奥様も少しお休みになったら? 先生が帰られたら、お起しします」
「ありがとう。でも、そうもいかないわ」
郁子は、母と和代が明日の細かい打ち合せを椅子にかけて始めたので、黙って台所を出て二階へ行くことにした。
廊下は少し明りが落としてあって、通夜の席の話し声が響いている。酔っているせいで、声が大きくなっているのだ。
お兄ちゃんたら……。自分の妹が死んだというのに、悲しくないんだろうか。どうしてあんな風にお酒を飲んで酔っ払えるんだろう。
階段の方へ行きかけた郁子は、玄関の方へ目をやって、誰かが話しているのに気付いた。
「——夜分にどうも」
と、八幡の叔母さんが礼を言っている。
「いえいえ、いつもお世話になっておりますから」
玄関に下りて、頭を下げているのは……。誰だっけ?
ちょっと首を伸してみて、時々家に来ている銀行の偉い人だと知った。——普通なら、郁子などが顔を憶える相手ではないが、父と話しているときには、いつもニコニコとして愛想のいいその人が、一歩表に出たとたん、ついて来ていた若い部下に、
「貴様のおかげで恥をかいたぞ!」
と、怒鳴りつけるのを、偶然見てびっくりしたことがあったので、憶えているのである。
「では、確かに——」
叔母の前には、紙包が置かれていた。
四角く包んだ,ちょうど両手で持てるくらいの大きさで、叔母は大事そうにそれを持つと、足早に奥へ入って行く。
あれは何だろう? ——その包み紙の模様には見憶えがあった。そう、あの銀行のくれるティシュペーパーとかメモ用紙とかに印刷してあるのと同じ模様だ。
でも——あの包みは何だろう?
郁子は、母が、
「じゃ、和代さん、よろしく」
と言っているのを聞いて、急いで階段を上って行った。
眠りの途中で目を覚ますことは滅多にないとはいっても、「特別な夜」である。
郁子が寝返りを打った拍子に目を覚ましたとしても、そう驚くほどのことはない。
もう……朝?
郁子はベッドの傍の時計に目をやった。——三時。
もちろん、夜中の三時に違いない。
もう、父も帰って来ているだろうし、みんな床に入っているのではないだろうか、と郁子は思った。
眠らなきゃ。——眠らないと、明日が辛い。明日……。今日、と言う方が正しいのかな。
でも郁子は、たとえ今夜一睡もしなかったとしても、姉、裕美子のお葬式の間、きちんとしている自信ぐらいはあった。
「きちんとして」
と言われれば、その通りにできる。それなら……。それなら、お姉ちゃんのことを考えていたところで構わないわけだ。
暗い天井をじっと見上げていると、小さいころからのお姉ちゃんの思い出が次々に取り止めもなく浮んでは消えた。
「——お姉ちゃん」
フッと思い付いた。
まだお姉ちゃんの棺はあの部屋にある。——誰か起きているだろうか。
郁子は、お姉ちゃんの顔を、もう一度ゆっくり見たいと思った。——離れで、あの酔っ払いの医者に邪魔されたことで、腹を立てていたのである。
あの医者は、今日は早々と帰って行った。もし、あそこに誰か残っているとしても……。
郁子は、こういうときには何かやっても大して叱《しか》られないものだと分っていた。——そうだ。行ってみよう。もし誰かと会ってしまったら、ちょっと寝ぼけたふりをすればいい。
パジャマ姿で、郁子はベッドからスルリと出た。
音がするから、スリッパははかず、裸足《はだし》でヒタヒタと廊下を急ぎ、階段を下りて行く。
下り切る前に、ちょっと足を止めて様子をうかがうと、明りの洩《も》れているのは居間らしい。
「——ともかく、俺がいないと話にならん」
父の、よく通る声が聞こえて来た。
母が何か言っている。
「——心配するな」
父の声だけが、はっきりと聞こえて、「発つのは夜だ。時差があるからな。何とか間に合う」
娘が死んだというのに、明日、お葬式の日にまた外国へ行ってしまうというのだ。——もともと、郁子にしたところで、もう今年六十にもなる父を、普通の子供にとっての「父」のように見たことはない。
相手をして遊んでくれたこともないし、ゆっくり話した記憶もない。郁子は初めから、父親とはそういうものだと思っていた。
幼稚園や、小学校に入ってからも、他の子のお父さんが運動会などにやって来て一緒にかけっこしたりするのを見て、羨《うらやま》しいよりもびっくりしたものだ。
それを不満に思ったことは、ほとんどない。ただ——郁子が父に対して持っていた不満といえば、姉の裕美子にも、父がひどくよそよそしい態度を取っていたことだろう。
それを思えば、父が明日外国へ仕事で行ってしまうというのも、驚くには当らなかった。
——郁子は、父と母の話が、まだしばらく続きそうなので、思い切ってお通夜の席へと歩いて行った。
障子は開いていて、中を覗くと、兄、圭介と親戚の男の人が二人、残っていた。といっても、三人とも、その場で横になって眠りこけている。
いびきと寝息の盛大な三重唱は、こんなときなのに郁子を笑わせてしまいそうだった……。
これなら大丈夫。
郁子は祭壇へと近寄って、香をたいていた台をわきへ押しやると、裕美子の棺を覗き込んだ。
蓋《ふた》は閉めてあるが、顔の辺りに窓が開いていて、そこから裕美子の白く化粧された顔が見える。ただ、ちょうど窓の部分のガラスに明りが映って、見にくい。
郁子は、ちょっとためらったが、これがもう最後と思うと、思い切って両手を棺の蓋にかけ、力を入れて動かした。
ズズ……。板のこすれる音がして、相当重かったけれど(こっそりやっているので、余計にそう思ったのだろう)、何とか蓋をずらして、裕美子の顔が覗くまで動かすことができた。
「——お姉ちゃん」
と、郁子は小さく呟《つぶや》いた。
首には、まだ包帯が巻かれたままだ。顔から首の辺りにかけて、うっすらと化粧してあるので、少し目立たなくはなっているが、誰が見ても不自然だ。
一体何だったのだろう? ——お姉ちゃんはなぜ死んだんだろう?
郁子は、すでに見抜いていた。あの酔っ払いの笹倉という医者をわざわざ呼んだというのは、姉の死因に何か隠したいことがあったからだということ。笹倉は、いわばこの家の「弱味」を握ったわけで、だからあんな風に好き勝手をしてお酒を飲んでいたりしたのだ。
そうまでして隠さなくてはならなかったことというのは、何だろう?
——今は、あまりに子供で、大人たちに訊《き》いたところで誰も相手にしてくれない。
でも、きっといつか——もっと大きくなるまで、このことはしっかり憶えておいて、必ず調べ出そう。姉の死に隠されていたことは何なのだろう?
——誰か来るといけない。
郁子は、いつの間にか頬を伝っていた涙を手の甲で拭うと、蓋を元の通りに戻そうとした。すると、サーッという音が遠く、包み込むように聞こえて来た。
また雨だ。
夕方には上って、お通夜の客にとっては良かったのだけれど、また降り始めた。
一旦、天井の方へ上げた目を棺に戻すと、姉、裕美子が目を開けて郁子を見ていた。
——夢? 私、夢を見てる?
郁子は、しかし裕美子がうっすらと化粧したその顔に微笑を浮かべて、
「また降り出したのね」
と言うのを、はっきり聞いたのだった。