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怪談人恋坂03
日期:2018-07-30 20:19  点击:329
 3 絆
 
 
 どうして気絶したり、悲鳴を上げたりしなかったのか……。
 
 それでも、郁子はストンと尻《しり》もちをついて、立てなくなってしまった。腰が抜けた、ということなのだろう。
 
 座ってしまったことで、郁子の目には棺の中が見えなくなった。郁子が気を取り直すことができたのは、たぶんそのせいだろう。
 
 私……夢を見たんだ。きっとそうだ。
 
 でも——棺を見上げると、白い指がそっとその縁にかかるのが目に入った。
 
 違う! 夢じゃない。これは……夢なんかじゃない。
 
 郁子が、よろけそうになりながら立ち上ると、同時に、棺の中の裕美子が見えない糸に引かれたように起き上ったのである。
 
 一瞬、郁子は裕美子が本当は死んでいなくて、眠っていただけなのかと——そして今目覚めたのかと思ったが、しかしそんなわけはない、と思い直した。
 
 生きていたときですら、裕美子は自分で起き上ることなどできなかったのだ。今、裕美子は少し背を丸めた格好で棺の中にいて、懐しい目で郁子を見ていた。
 
「——怖い?」
 
 と、裕美子は何となく力のない声で言った。
 
「少し」
 
 と、郁子は正直に答えて、「でも……話ができて嬉《うれ》しい。お姉ちゃんに『さよなら』も言わなかったもん」
 
「ありがとう」
 
 裕美子は、穏やかに肯《うなず》いて、「郁子——」
 
「待って」
 
 こんなときに、と自分でもびっくりした。郁子は駆けて行って障子を閉めると、
 
「——お父さん、帰って来て、まだ起きてるから」
 
 と、戻って来て、「お兄ちゃんたちは酔っ払ってるから、大丈夫」
 
「そう……。郁子はしっかりしてるわね。私なんかよりも、ずっと……」
 
「お姉ちゃん」
 
 郁子は、裕美子の手を両手で挟んだ。冷たい。生命の息吹は、そこには感じられなかった。
 
「——聞いて、郁子」
 
 と、裕美子は言った。「話しておきたいことがあるの。生きている間に、郁子にいつか話さなくてはと思っていたことが」
 
 郁子は黙って肯いた。
 
「私はそのために、ほんのわずかの間だけ、こうしてあなたに会っているの……。あんまり時間がない。言いたいこと、言わなきゃならないことはいくらもあるのに——。聞いて、そして、憶《おぼ》えていてね。今夜、私の話したことを、大人になっても忘れないで」
 
「うん……」
 
「郁子」
 
 裕美子の冷たい指先が、悲しげに郁子の髪に触れた。「——あなたは私の妹じゃないの。あなたは、私が十六のときに産んだ、私の娘なのよ」
 
 郁子は、相手が誰なのかも忘れて、思わず、
 
「——嘘《うそ》だ」
 
 と、言ってしまった。「お姉ちゃん……」
 
「私は郁子の『お姉ちゃん』じゃない。『お母さん』なの」
 
 郁子は、言葉を失ったまま、立ちすくんでいた。十六という年齢の差が珍しいということは、自分でも分っていた。けれども、ずっと「お姉ちゃん」だった人を、突然「お母さん」と呼ぶことなどできない。
 
「——あなたには辛い話かもしれない。でも、聞いて。もう、話す機会は二度と来ないだろうから……」
 
 雨の音が高くなる。裕美子が言った。
 
「あの日も、雨だった……」
 
 
 
 その坂道に、見憶えのある傘が前後にゆっくりと揺らぎながら上って来るのを認めると、もう雨のことなどちっとも気にならなくなった。
 
 裕美子は二階の廊下を靴下でスーッと滑って階段の所まで行きついた(これは、いつもやっているので、力の入れ具合をどれくらいにしたらちょうどいい所で止るか、よく分っていた)。
 
 階段を下りて行くときは、ちょっと慎重でなくてはならない。何しろ古い家で、二階が高い。この長い階段を転り落ちたら、少々のけがではすまないかもしれなかったのだ。
 
 それでも、十五歳の少女の、バネのようにしなやかな膝《ひざ》は、巧みにバランスを取って下まで下り切った。
 
「何なの、急いで?」
 
 と、母、早苗がお出かけの和服姿で現われる。
 
「お母さん、出かけるの?」
 
 つい、声に嬉しそうな気配がにじんだらしい。
 
「梶原先生ね? どうせお母さんはいない方がいいのよね」
 
 と、早苗は笑って言った。「お芝居見て、九時ごろには帰るわ。靖江さんのお誘いなの」
 
「八幡の叔母さんの? 好きね、あの人も」
 
 と、玄関で母が何をはいて行こうかと迷っているのを眺め、「楽屋まで押しかけてくんだって? お母さん、一緒になって騒がない方がいいわよ」
 
「お母さんは、お付合いで行くだけよ」
 
 と言いながら、裕美子から見れば、母の方がよっぽど「嬉しそうにいやがって(?)」見える。
 
 ガラリと戸が開いて、
 
「あ、どうも」
 
 ヒョロリとノッポの大学生が、傘を手に頭を下げる。
 
「ま、先生、ご苦労さまです」
 
 と、早苗は微笑一杯の愛想の良さで、「私、ちょっと用がございまして失礼いたしますが——」
 
「お芝居見物ですって」
 
「裕美子!」
 
 と、早苗がにらむ。「先生、大分降っておりましょうか?」
 
「ええ、本降りですね。タクシー、停めましょうか」
 
「先生! いいのよ、そんなことしなくたって」
 
「いや、その通りから拾って、一旦こっちへ入ってもらわないと大変だよ。この前はまず空車なんか通らないし、といって、坂を下りて行くのはもっときつい」
 
 梶原は本を入れた重い鞄《かばん》を裕美子へ渡し、「これ、二階へ持ってっといて。待ってて下さい。すぐ拾って来ます」
 
 もう一度傘を広げて、ザッと落ちる水滴に肩先を濡《ぬ》らしながら、人の好いこと。ポンポンと水たまりを飛び越えて門から出て行く。
 
「先生って、いい方ね」
 
 と、早苗は何でも人にやってもらうのは慣れっこで、「ちゃんとお勉強してる? だめよ、ポーッと見とれてちゃ」
 
「濡れちゃって! 風邪でもひいたら、お母さんのせいよ」
 
 裕美子は口を尖《とが》らしてむくれている。
 
「貞子さんに何か出してもらって。今日は五時で帰ると言ってたから、あんた、自分で運びなさい」
 
「はい。——お父さんは?」
 
「講演会ですって。終ってから食事が出るってことだから、どうせ飲んでくるでしょ。電話でもあったら聞いといて」
 
「うん」
 
 と、裕美子は梶原の鞄を抱えて上り口に立っている。
 
 じき、梶原が乗ったタクシーが門の前に着く。
 
「——良かった。これでそう濡れなくってすむわ」
 
 早苗は傘を持って、「じゃ、行ってくるわね」
 
「行ってらっしゃい」
 
 裕美子は、母と入れ替りに家庭教師の梶原が入って来ると、まだ傘から雨の滴を振り落としている間に、さっさと戸を閉めて鍵《かぎ》をかけてしまった。
 
「先生、大丈夫? 濡れちゃって! お母さんのことなんか放っときゃいいのよ」
 
「おいおい」
 
 と、梶原は笑って、「僕の鞄を持って、部屋へ行ってろと言っただろ」
 
「行ってるわ。気持だけ先に」
 
 と、口は達者で、そこへやって来た、もう六十近い家政婦に、「貞子さん。先生にお茶をね」
 
 と、声をかける。
 
「はいはい」
 
 人は悪くないのだけれど、何しろ動きがもう鈍くなっていて、若い裕美子など、見ていて苛《いら》々《いら》することもある。
 
「先生、足、濡れた? 雑《ぞう》布《きん》持って来ようか」
 
「ああ、いや大丈夫。——靴下、脱いどくかな」
 
「ほら! 何か持って来るから」
 
 裕美子が駆け出して行く。
 
 ——梶原秀一は大学二年生である。
 
 裕美子の父、藤沢隆介は、大学教授だが、娘の教育にはとんと構わない。家庭教師などいくらでも捜して来られそうだが、散々妻の早苗にせっつかれて大学の学生部に話をしたのだった。
 
 しかし、その結果やって来た「先生」は、裕美子の十五歳の胸をときめかせるに充分だった。格別二枚目というわけではないにしても、誠実そのものという印象の若者である。
 
「——本当、ふしぎだわ」
 
 と、机に向って、きちんと勉強はこなしながら裕美子は言った。
 
「何が? どこか分らない所があるかい?」
 
 と、梶原は少し眠そうな目で裕美子のノートを覗き込む。
 
「そうじゃないの! 先生、大学生でしょ。うちの兄も大学生。でも、同じ大学生でこんなに違う人がいるってことがふしぎなの」
 
「兄さん——圭介さん、だっけ?」
 
「会ったことないわよね、先生。会ってほしくもないけど」
 
 と、裕美子は眉を上げる。「もう二十歳。大学なんて、本当に行ってるんだかどうだか……」
 
 梶原は、ちょっと笑った。
 
「ま、色々いるのさ。僕のように、あれこれバイトで稼がないと通えない学生と、そういう心配の全くない学生とじゃ、大学ってものの意味が違う。お兄さんだって、大学へ行かなくても、何か自分のしたいことを捜してるのかもしれないよ」
 
 裕美子には兄のことがよく分っている。といって、兄のことを梶原にこきおろして聞かせるのも気が進まなかった。
 
「何といったって、藤沢隆介先生の息子だからな。何かとプレッシャーもかかるさ」
 
 父。——そう、父にしたところで……。
 
 梶原が父を尊敬していることは、裕美子も知っている。父が、梶原の思っているような人間ではないということを、裕美子はやはりあえて口にするつもりもなかった。
 
 それに人間、誰しも「外の顔と内の顔」というものがあるということ。——裕美子にはそれもよく分っていた。
 
「——お先に失礼いたします」
 
 と、貞子が顔を出して、「お盆は台所へ置いといて下さいな」
 
「はい、ご苦労様」
 
 と、裕美子は言った。
 
 五時に少し間があった。——梶原は電話を借りると言って廊下へ出て行き、裕美子は窓辺から表を眺めた。
 
 雨はもう上って、青空が雲間に覗いている。しかし、灰色の雲がまだつながってゆっくり移動しており、また降り出すかもしれないと思えた。
 
「——また降りそうかな」
 
 梶原が入って来ていた。
 
「もしかするとね」
 
「何を見てるんだ?」
 
「別に——。ここから眺めると、坂道がよく見えて」
 
「ああ……。夏はかなりきつそうだな、あの坂は」
 
 梶原は、裕美子と並んで窓から表を見た。
 
「——〈人恋坂〉っていうんだろ?」
 
「本当の名前は〈一《ひと》越《こし》坂〉なの。一番下にそう書いた柱が立ってるでしょ」
 
「そうか? 気付かなかった」
 
 藤沢家は、高台の一番端に位置している。そして、裕美子の部屋は角になっているので、窓から外を見ると、視界は眼下に大きく広がって、まるで雲の上から見下ろしているかのようだった。
 
 そして、藤沢家の前から下っている坂道が、この窓からはよく見えた。ゆるやかに曲線を描くその坂は、下界へ続くらせん状の滑り台のようにも見える。
 
「一つこの坂を上ると、一番高い所を越えたってことになるからでしょうね」
 
 と、裕美子は言った。
 
「じゃ、〈人恋坂〉ってのはあだ名か」
 
「そう。ずっといいわね、〈人恋坂〉の方が」
 
「どうして〈人恋坂〉なんだろう?」
 
「私も本当かどうか知らないけど……。ほら、あの坂って、ずっとゆるく曲ってるでしょ。だから、上る人も下る人も、少し行くと前にも後にも坂しか見えなくなっちゃうの。両側はほとんど石垣だしね。だから、心細くなって、誰か通りかかってくれないかなって思うんですって。それで人が恋しくなるから〈人恋坂〉」
 
「そうか。何か、恋人たちの伝説でもあるのかと思った」
 
 裕美子は笑って、
 
「先生、女の子みたいなこと言ってる」
 
「何だ、男だってロマンチックな恋に憧《あこが》れるんだぞ」
 
 と、梶原は言って、「さ、もう少しやっておこう。来週は来られないかもしれない」
 
「何だ、つまんない」
 
 と、裕美子は口を尖らした。
 
 ——六時ごろまで勉強して、梶原は、
 
「用があるから、これで帰るよ。お母さんによろしく」
 
 と、本を束ねた。
 
「うん……。先生、私と二人だから遠慮してるの?」
 
 裕美子にそう訊かれて、梶原は思いがけず赤くなった。
 
「大人をからかうもんじゃない!」
 
 と、にらむと、「もう来てやらないぞ」
 
「ちゃんと来るわ。お月謝もらっておいて来ないなんて、先生にはできないでしょ」
 
「しょうのない奴だな」
 
 と、梶原は苦笑いした。
 
 玄関で見送っていると、電話が鳴っているのが聞こえ、
 
「じゃ、先生! また来週!」
 
 と手を振って駆け出す。
 
 そして受話器を取りながら、
 
「坂を下るとき、こっち見てね!」
 
 と呼びかける。「——はい、藤沢です。——何だ、お兄さんか」
 
「でかい声出して、誰かいるのか」
 
 と、圭介の声の背景には騒がしい音楽がかかっていた。
 
「先生よ。お兄さん、どこにいるの?」
 
「あの家庭教師か? とんでもないこと教わってんじゃねえだろうな」
 
「どういう意味よ」
 
「俺は、じき一《いつ》旦《たん》帰るけど、また出かけるからな。お袋、いるか?」
 
「お芝居。八幡の叔母さんと」
 
「またか」
 
「お母さんのこと、言えないでしょ。晩ご飯は?」
 
「どこかで食うよ。じゃあな」
 
「お兄さん——」
 
 と言いかけたときは、もう切れている。
 
 一体何のためにかけて来たんだろう? 裕美子は首をかしげて、
 
「——そうだ!」
 
 と、急いで二階へと駆け上った。
 
 自分の部屋へ飛び込み、窓をガラッと開ける。
 
 坂道を、ヒョロリとした人影が下って行く。
 
「先生!」
 
 と、呼んでみると、梶原が立ち止って、裕美子の方を振り仰いで手を振った。
 
 力一杯手を振り返して——梶原の姿が坂を下り、石垣に隠れて見えなくなるまで見送った。
 
 窓を閉めると、欠伸《あくび》が出た。——ゆうべ、遅くまで起きていて、眠気がさして来たのである。
 
 すぐにはお腹も空いていない。
 
 裕美子は、ベッドにゴロリと横になった。——六時を過ぎて、外も薄暗くなっていた。
 
 明りを消した部屋の中は、沈み込むように暗さを増し、横になった裕美子の眠気をさらに誘った。
 
 そして——憶えているのは、また雨の音が聞こえて来て、あ、降り出したんだ、と思ったこと。
 
 一段と暗くなったのは、夜になったからか、それとも雨のせいか、どっちとも分らなかった。
 
 寝返りを打って、お腹を冷やしては、と思って軽い毛布を引張って腰の辺りにかけた……。たぶん、それも事実だったろう。
 
 しかし、そのまま眠り込んだ裕美子は、恐ろしい「悪夢」を、現実に体験することになる。
 
 ——何? どうしたの?
 
 地震でも来たのか、と思った。真暗で、体が揺さぶられている。
 
 うつ伏せにされて、何かが上にのしかかっている。息が苦しかった。胸を圧迫されているだけではない。
 
 やっと、自分が目覚めていることに気付いた。何も見えず、吐く息が熱く顔に当るのは、頭ごとスッポリと毛布で包まれているからだった。
 
 誰? 何してるの?
 
 足が割られて誰かの体が入り込んでいた。
 
 突然、裕美子ははっきりと意識が戻り、同時に全身の血の気がひいた。
 
 スカートがまくり上げられ、下半身を誰かが荒々しくまさぐっている。
 
 裕美子は、起き上ろうとした。毛布がさらに首に巻きついて、締めつけられた。恐怖に、凍りついた。——殺される!
 
 冗談や遊びではない。
 
 助けて! やめて! やめて!
 
 声は出なかった。たとえ出たとしても、毛布が遮って部屋の外までも洩《も》れなかったろう。
 
 下着が引き裂かれた。——雨音が聞こえた。
 
 そんなはずはなかったろうに、裕美子は、はっきりと雨が屋根を叩《たた》く音を聞いていた。
 
 苦痛が裕美子を引き裂いた瞬間にも、雨音は聞こえていた。
 
 
 
 雨音は、今も聞こえていた。
 
 ——もちろん、そのときの雨音とは違うだろう。けれども、郁子にとっては裕美子の話がそのまま自分を包み込んでいるように思えた。
 
「こんなお話を聞かせるのは辛かったけど……」
 
 と、裕美子は言った。「でも、郁子の『お姉ちゃん』のままで死んでしまうのはいやだった。郁子——」
 
 郁子は青ざめた顔で、畳に座ったまま、立てた両《りよう》膝《ひざ》を抱え込んでじっとしていた。
 
「ごめんね、郁子」
 
 と、裕美子はじっと郁子を見下ろしながら言った。「——分るよね。そうやってあなたが産まれたんだってこと」
 
 郁子も、どうして子供ができるのか、学校で習って知っている。郁子はまだだが、クラスでも体の発育の早い子はもう生理が始まっていた。
 
 しかし——知識があるということと、今の姉の話を理解することとは別だ。姉の話? いや、「母の話」を。
 
「——誰だったの」
 
 と、郁子は訊いた。「そんなひどいことしたの、誰だったの」
 
 裕美子はゆっくり首を振った。
 
「分らないの。私はしばらく半分死んだようになって動けなかった……。その男は、すぐに逃げるように行ってしまって——。頭にかぶせられていた毛布を外して、真暗な部屋の中を見回したのは、たぶん何時間もたってからだった……」
 
 裕美子は、ふっと我に返ると、「まだ話しておかなきゃいけないことがあるの」
 
「まだ?」
 
 郁子が怯《おび》えたような表情を浮かべる。
 
「大丈夫よ。もうこんなひどい話は出てこないわ」
 
 と、裕美子が微《ほほ》笑《え》んだ。「——郁子」
 
「うん……」
 
「あなたに、一度だけでも、『お母さん』って呼ばれてみたかったわ」
 
 と、裕美子は言って、「さあ、後は手短かに話しましょうね」
 
 ——雨の音はずっと聞こえていた。
 
 郁子は、眠っている兄の圭介たちが目を覚まさないこと、父や母がここへやって来ないことがふしぎだった。もしかすると、裕美子と郁子の二人以外にとって、時間は止っていたのかもしれない。
 
 雨音が、魔法のカーテンのように、二人のことを包み隠しているようで、その夢のような平和の中で、裕美子の悲惨な運命の物語は、まるで毎夜おばあさんが子供たちに話して聞かせてくれる、「ちょっと怖いおとぎ話」のように続いた。それは、ある意味では、もっともっと「ひどい話」だったが、郁子は逃げ出そうとも耳をふさごうともせずに、聞いていた。
 
 特に注意して聞いていたわけではないにしても、裕美子の言葉は一旦郁子の耳から入ると、決して出て行こうとしなかったのである。
 
 そして——どれくらい時間がたったのだろう。
 
「——朝だわ」
 
 と、裕美子が目を上げて、まるで天井や壁を透かして表の気配が見える、とでもいうように、「明るくなる。郁子」
 
 郁子は立ち上った。立て膝のままだったので、足はしびれなかったのだが、お尻が少し痛かった。
 
「お姉ちゃん!」
 
「今の話を——私のことを、憶えていてね」
 
 裕美子が白い手を伸した。郁子はその冷たい手を包むように両手で取って、そっとこすった。力を入れると壊れてしまうガラス細工ででもあるかのように。
 
「忘れないよ」
 
 と、郁子は言った。
 
「郁子——」
 
 裕美子が何か言いかけたとき、廊下に声がした。
 
 郁子はハッと振り向いた。
 
「——圭介の奴は何してるんだ」
 
 父の声が響いた。こっちへ来る!
 
「お姉ちゃん——」
 
 と、棺の方へ向いて……。
 
 そこには、もう蓋で蔽われた棺が、音もなく、横たわっているだけだった。
 
 郁子の手から、いつ裕美子の手が逃げて行ったのか、記憶がない。——どうしちゃったんだろう?
 
 ガラッと障子が開いて、
 
「——郁子。何してるんだ」
 
 と、父、藤沢隆介が言った。
 
 郁子は、小さな窓から見える姉の白い顔をじっと見つめた。もうその瞼《まぶた》は開く様子がなかった。——姉の? そうではないのだ。
 
 それとも、何もかも夢だったということ……。そんなことがあり得るのだろうか。
 
「郁子」
 
 と、父が言った。
 
「お姉ちゃんの顔、見ときたくて」
 
 と、郁子は言った。
 
「そうか。明日もまた見られる」
 
 父の大きな手が郁子の肩をつかんだ。
 
「——まあ、起きてたの?」
 
 と、母の早苗が覗いてびっくりしている。「もう朝になるわよ」
 
「平気だよ」
 
 と、郁子は言うと「おやすみ!」
 
 と、投げるように言って、部屋を出た。
 
「——何だ、みっともない!」
 
 父が怒っている声が聞こえた。圭介を起こしているのだろう。
 
 郁子は階段を上って行った。
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