「葬式ってのは、暑いか寒いか、どっちかだな」
と、誰かが言っているのが聞こえて、郁子はおかしくなってしまった。
もう今日、これで何人目だろう、同じことを言った人は?
確かに——明け方まで降っていた雨は、夜明けと共に止んで、まるでひと月も気候が戻ったように、まぶしい夏の日射しが照りつけていた。
前日の雨が残した湿気と、強い日射しで、耐えがたいほど蒸し暑い一日になったのである。
じっと座っていると、郁子の背中を時々汗の滴がくすぐったく滑り落ちていく。
兄の圭介は、二日酔で頭が痛いと言ってバファリンをのんだせいか、眠気がさすのとも闘わねばならないようだった。いくら何でも、妹の葬儀に居眠りするわけにもいかない。汗っかきでもあるので(しかも黒い背広だ)、ほとんどひっきりなしにハンカチで汗を拭いていた。
父、藤沢隆介は、そう汗も見せず、しかもほとんどゆうべは眠っていないのに、どっしりと座って動じる様子がない。母、早苗の方が疲れているようだった。
まさか、とは思ったが、郁子の目には母の白髪が一夜でふえたように思えた。
「この度はどうも……」
見も知らない人たちが、そう言って郁子の前を通り過ぎて行く。たぶん、大部分は父の関係の知人たちで、裕美子自身は会ったこともあるまい。
郁子は、あの医師の笹倉がフラッと入って来たのに気付いた。——一応黒い背広は着ているが、誰かからの借り物か、サイズが小さく、袖口から骨ばった手首がみっともないほどはみ出ている。
しかも、酔っている! 目の周りが赤らんでいるのを見なくても、焼香に進んだだけで酒くさい息が匂《にお》った。
腹が立った。あんな奴に来てほしくない! しかし、口に出してそう言うわけにはいかない……。
郁子は、じっと身じろぎもせずに座っていた。こめかみを汗が伝い、ハンカチで拭《ぬぐ》いたくなることもあるが、じっと堪えることが裕美子への真心を示すことだ、と思っていた。
それに——郁子は昨日の郁子ではなかった。
裕美子の話は、郁子の記憶に刻まれていたものの、その意味することを受け容れるのには、長い時間がかかるだろう。しかし、それが今までの自分を根こそぎ引っくり返してしまうような、とんでもないことだというのは、郁子にもよく分っていた……。
「先生。——先生、ちょっと」
八幡の叔母さん——柳田靖江が、笹倉を呼んでいる。そして笹倉に何か耳打ちした。
何だろう?
郁子は、笹倉が肯いて、叔母の後について行くのを目の端で捉えていたが、母の方へそっと、
「お手洗に行っていい?」
と、言った。
「ええ。何か冷たいものでも飲んどいで」
母は、郁子があまりにじっとしているので、却《かえ》って心配だったらしい。少しホッとした表情だった。
席を立って、焼香に訪れる人たちの間を抜け、廊下を行く笹倉の後ろ姿を見付けた。
叔母と笹倉は小さな応接室へ入った。
「ちょっとお待ち下さいね」
と、叔母はすぐ出て来て奥へ入って行く。
郁子は、階段の辺りで少し息抜きしている感じに立っていた。——妙なもので、あの祭壇の前を離れると、汗を拭きたくなる。
真新しくたたまれたハンカチを取り出して、軽く顔を叩くと、汗がしみ込んで広がって行った。兄のハンカチなど、もうクシャクシャで雑《ぞう》布《きん》のようになっている。
叔母がタッタッと戻って来て——。手に紙袋をさげている。そして応接室へ入って、ドアを閉めた。
郁子は、足を滑らせるようにしてドアの前に行くと、鍵《かぎ》穴《あな》に目を当てた。古い家なので、鍵穴も充分中を覗けるくらい大きい。
「——どうぞよろしく」
と、叔母が頭を下げている。「世間の口に戸は立てられませんからね。ここはひとつ先生にお口を閉じておいていただくしかありませんの」
「分った、分った」
笹倉は面倒くさそうに、「悪いようにゃせん。大丈夫だ」
「ええ、そりゃもうよく存じておりますけども……」
「これで全部かね?」
「お確かめ下さい」
「ま、大丈夫だろう」
「いえ、こういうことはちゃんとしておきませんと。私も兄から任された身ですから、後で何かあると困りますのでね」
「そりゃあそうか」
体を少しずらして、郁子にはやっとテーブルの上が見えた。
ゆうべ見た、銀行の包み。それがテーブルに置かれて、そこから笹倉が取り出しているのは、帯をかけた札束だった。
一体いくらあるのだろう? 積み上げられる札束を、郁子は七つまで数えたが、人の声が近付いて、ドアから離れた。
「——あら、郁子さん、どうしました?」
和代が黒のワンピースでやって来た。
「冷たいもの、飲んでおいで、ってお母さんが」
「はい、はい、とんでもなく暑いですもんね」
和代は台所へ郁子を連れて行き、氷を入れた麦茶をグラスに入れてくれた。
「ありがとう」
郁子は、すぐ一気に半分ほど飲み、口に氷を含んで転がした。チクチクと刺すような、痛みに近い冷たさが快適だ。
「——私、向うに行ってますから、空のグラス、テーブルの上でいいですよ」
と、和代が行ってしまうと、郁子は流しに行って水道を出し、顔を洗った。
タオルで顔を拭うと——。
「やあ」
梶原秀一が立っていた。
「あ……。早かったんだ」
「うん。すぐ仕度して出て来た」
梶原は気になるのか、黒のネクタイをしきりにいじっていた。「——郁子君は寂しくなるな。彼女と仲良しだったからね」
梶原は台所へ入って来ると、
「——暑いね」
と、言った。「そこまでタクシーで来た。あの坂を上ってくるのはきついから」
郁子は、梶原と直接会うのは久しぶりのことだ。裕美子が寝たきりの状態になってからも、梶原は時々やって来てくれていた。
郁子も、ずいぶん小さいころから梶原のことは知っていたのである。
しかし、梶原ももう勤めに出て七年余り。——確か、三十になっているはずで、ここ何年か、せいぜい正月や夏休みなど、年に二、三度顔を出すだけになっていた。
もちろんそれは仕方のないことだ。裕美子もそのことで郁子にグチらしい言葉を洩《も》らしたことはない。
「二十……五だったかな、裕美子君は」
と、梶原は言った。「気の毒だったね。あんなに元気で、やりたいことが一杯あって——」
「やめて」
と、郁子は首を振った。「泣いちゃうよ、そんなこと聞くと」
「そうか」
梶原は、郁子の肩に軽く手を置いて、「裕美子君のことは、僕と君が一番良く知ってたんだ。忘れないでいよう」
「うん」
郁子は微《ほほ》笑《え》んだ。ごく自然な微笑だった。
「あの……」
と声がして、見たことのない若い女が、おずおずと台所を覗いた。
やせた、目の大きな女性である。
「あ、ここだったの」
と、梶原を見てホッとしたように、「どこへ行ったのかと思った」
「すぐ行くよ」
と、梶原は少し苛《いら》立《だ》ったような口調で、「待ってろと言ったじゃないか」
「でも……」
梶原は、郁子の視線に気付き、
「郁子君。——真《まさ》子《こ》だ。僕の奥さんだよ」
と、目をそらしながら言った。
「今《こん》日《にち》は」
その女性は、郁子を幼稚園くらいの子供とでも思っているような言い方で、「郁子ちゃんね。秀一さんから、よく話は聞いてるわ」
郁子の目が、自分の腹部に向いていることを知って、「梶原の奥さん」は、何となく居心地悪そうに、
「お焼香しないと……」
と、夫に言った。
「分ってる。すぐ行く」
「じゃあ……」
真子というその女《ひと》は、郁子の方をチラッと見てから行ってしまった。
「——僕もお焼香させてもらうよ」
梶原は郁子と目が合うのを避けていた。
「おめでとう」
と、郁子は言った。「いつ結婚したの?」
「三か月……くらい前だ」
と、梶原は言った。「色々急でね、あんまりあちこちへ知らせる暇がなかった。仕事も忙しくてね」
「お姉ちゃん、知ってた?」
「いや……。今度会ったときに話そうと思ってた」
梶原は息をついて、「じゃ、行くよ。僕はまた会社へ行かなくちゃならない」
台所を出て行こうとする梶原へ、
「赤ちゃん、いつ産まれるの?」
と、郁子は訊《き》いた。
「たぶん……今年の暮だな。十二月か……。そのころだと思うよ」
「おめでとう」
と、郁子はもう一度言った。
「ありがとう」
梶原は何か続けて言おうとして、思い止《とど》まったのか、足早に行ってしまった。
郁子は、しばらくその場に立ちすくんで動かなかった。——突然、梶原が遠い人間になってしまったのだ。
梶原も男だったということ。当り前のそのことを、しかし、九歳の郁子に理解するのは無理なことであった。
ふっと我に返り、郁子は台所を出た。ちょうど和代がやってくるところだ。
「郁子さん。そろそろ戻って下さいって、お母様が」
郁子はただ黙って肯いた。
暑さはさらに増しているように思われた。
郁子が席に戻ると、もう焼香も一応終ったところで、たぶん梶原とその妻が最後だったようだ。
「——大丈夫?」
と、早苗が訊くと、郁子は小さく肯いた。
「ずいぶん大勢みえたわ」
と、早苗はホッとしたように言った。
郁子も、そのときになって初めて、予定の時間を四十分近くもオーバーしていることに気付いた。
「これをもちまして、告別式を終らせていただきます」
と言ったのは、父の秘書、小野だった。
暑いせいだろう、真赤な顔をしている。
人々が立ち上って玄関へ向う。——足がしびれて思うように立てない人、やっと立っても、足を引きずるようにしている人もいた。
手早く、祭壇が解体されていた。
「——暑い!」
家族だけになったせいか、圭介がたまらずに声を上げた。
「もう少しよ。我慢して」
と、早苗が小さい子供にでも言うような口調。
圭介は少しむくれていた。
郁子は、裕美子の棺が部屋の中央へ下ろされ、花が一杯に詰められるのを、じっと眺めていた。その事務的な手つきは、むしろ今の郁子には快いものだった。
「——先生」
梶原が、戻って来て、おずおずと声をかけて来た。
「うん。ご苦労さん」
「家内が身重で……。暑さで参ってますので、申しわけありませんが、これで……」
「まあ、大変でしたね」
と、早苗が言った。「お大事にね」
「ありがとうございます」
梶原は、チラッと郁子の方を見たが、そのまま何も言わずに立ち去った。
郁子は、今の言葉をお姉ちゃんが聞いてなきゃいいけど、と思った。——何も知らずにいればいいけど。
「では、皆様、お別れでございます」
と、葬儀社の男が言った。
「郁子。お花を持って。——中へ入れてあげるのよ」
「うん」
——花。お姉ちゃんは、花が好きだった。でも、こんな風に花に埋れたいと思っただろうか?
今、一人で暗い棺の中に密封されようとしている裕美子のことを思うと、郁子はほとんど初めて、胸がしめつけられるように痛んだ。——お姉ちゃん。お姉ちゃん。一人にしたくないのに。一緒にいてあげたいのに……。
「郁子」
と、父が促した。
郁子は、棺に近寄って、白い肌がまだつやを失っていない裕美子の顔を見下ろした。
そうだ。お姉ちゃんの頼みを、せめて一つだけでも叶《かな》えてあげよう。
郁子は身をかがめると、手にした花を棺へ落とし、そのまま裕美子の上に身を伏せて、花の中へ両手を突っ込んだ。そして裕美子の頭を抱きかかえ、しっかりと頬《ほお》を冷たい頬に押し当てると、その耳もとに口を寄せて言った。
「お母さん」
聞いて。聞いていて。
「——お母さん」
早苗が、郁子の行動にびっくりして駆け寄ると、
「郁子、離れて。——ね、郁子」
郁子は、そっと裕美子の頭を元へ戻した。
あの言葉は、誰にも聞こえていないはずだ。——しかし、きっと裕美子は聞いてくれたに違いない。
外では、ちょっと騒ぎが起っていた。
「——困るじゃないか」
と、小野が眉《まゆ》をひきつらせている。
「何だ」
藤沢が歩いて行く。
「先生。今、葬儀社の方が……」
「どうした?」
「霊《れい》 柩《きゆう》 車《しや》がここへ入って来れないと言うんです。どうしても向うのカーブが曲り切れなくて」
「どうするんだ?」
「恐れ入りますが……」
と、葬儀社の男が汗を拭って、「時間も大分過ぎておりまして。棺を……この坂の下でお乗せしたいのですが」
「坂の下?」
藤沢は、長く続く下り坂を見下ろして、「これをかついで下りろって言うのかね」
「申しわけありません。この先の道へは大きな霊柩車を停《と》めておけませんので」
「困るじゃないか。前もってそんなことは——」
と、小野が言いかけて、藤沢の厳しい目に出くわして口をつぐんだ。
出棺を待つ人々の間に囁《ささや》き合う声が広がっていた。藤沢は、面《メン》子《ツ》を大切にする人間だ。小野が騒ぎ立てれば、それだけ人は面白がって話題にすると分っていた。
「——よし」
と、藤沢は肯いて、「坂を下ろそう」
「ありがとうございます」
と、葬儀社の男が深々と頭を下げる。
「小野。人手を。若い男を頼め。坂を下りて行くのは骨だぞ」
「はい」
小野が駆けて行った。
「では、ここでご挨《あい》拶《さつ》を」
「ああ、そうだな。ハイヤーも何台か下で待たせてくれ」
「下でよろしいんですか」
「棺だけ坂を下ろすわけにいかん。ついて行く」
と、藤沢は言った。
——棺は坂を下ろして運ぶ、と聞いたとき、郁子はふと胸が熱くなった。
裕美子はこの〈人恋坂〉が好きだった。雪の日などに、わざわざこの坂を上り下りした、と郁子は聞いたことがある。
「——そんなわけで、坂を運んで下ろす」
と、藤沢は家族の所へ戻って説明すると、「早苗、疲れていたら、無理するな。ここから車で行ってもいい」
「私は歩いて行きます」
と、早苗は言った。「靖江さんは車で」
「じゃあ……そうさせていただくわ」
「郁子も乗せていただいたら?」
「大丈夫。歩くよ」
と、郁子は言った。
「よし。——圭介、お前は棺を運ぶんだぞ」
「ええ?」
圭介は顔をしかめたが、「分った。——分ったよ」
父の視線に射すくめられて、あわてて言った。
郁子は、外の暑さがさほど気にならなかった。坂は、半ばまで容赦なく照りつける太陽で焼けていたが、ここで裕美子を見捨てるわけにいかない。
父が挨拶をしている間、郁子は日かげに入っていた。大分楽だ。
「では……」
と、誰が言ったのか。
棺が運ばれて来た。男たちの肩にのっているので、郁子からはずいぶん高い位置にある。
「坂ですから、気を付けて。——後ろの方は肩でなく、手で支えるようにした方が平らになるでしょう」
と、父の大学の部下が言った。
結局、圭介は却って邪魔というので、そばについて格好だけ寄り添っていた。
「郁子。写真を持ちなさい」
と、父が言った。
「うん」
裕美子の写真を、しっかりと前に持って、郁子は嬉《うれ》しかった。たとえ遺体はあの棺の中でも、裕美子と一緒に歩いているという気がしたのだ。
そう。——裕美子の写真は、坂をじっと見下ろしている。人恋坂を。秘めた恋の記憶が、この坂には影を落としているかもしれない。
「気を付けて!」
前後のバランスがどうしてもうまく取れない。足取りもずれるから、棺は複雑に揺れた。
そして石を敷いた坂道に照り返す熱気。
坂道がゆるやかに曲って日かげに入って行く辺りが見えてくると、早くそこへ行こうと、足どりが速くなった。下り坂で勢いもつく。
「待って! ちょっと止って!」
と、一人が声をかけて、棺が止る。
「急がないで。ゆっくり行こう。危い」
みんな息をついて、気を取り直す。汗が光っていた。
棺は静かに坂をまた下り始めたが……。
妙な声を上げたのは、棺の一番前をかついでいる二人の内の一人だった。突然足を止めたと思うと、棺から手を離してしまったので、棺は傾いて、危うく落ちるところだった。
「何してる!」
と、声が飛ぶと、
「見ろよ……」
その男は、両手を広げて、他の男たちの方へ向けて見せた。——赤く、ベっとりと手についたのは、血だった。
「まさか——」
沈黙が坂を支配した。
白木の棺の底の合せめから、じわじわと血がしみ出していた。白木にしみ込みながら、やがてにじみ出て、滴り落ちて行った。
「——おい!」
と誰かが言った。
いや、叫んだのかもしれない。血のしみはどんどん広がって、他の男たちの手を濡《ぬ》らし始めたのだ。
悲鳴を上げて、何人かが棺から離れた。
残った何人かでは支え切れなかった。棺が滑るように落ちて、角が敷石に打ち当った。
棺は、人々が見守る中、坂をズルズルと落ち始めた。そして勢いがつくと転って、大きくはねたと思うと、叩きつけるように落ちて木が裂けた。
中の花が飛び散り、血が溢《あふ》れるように流れ出した。
お姉ちゃん! ——郁子は、しっかりと写真を抱きしめた。
早苗がよろけて倒れたが、郁子は気にしなかった。
聞いていたんだ。私が「お母さん」と呼んだのを。そうだね?
棺から裕美子の白い手が覗いていた。焼けるような石の上に流れ出た血は、見る間に乾いて行った。
誰もが、棺に近付く勇気を持てず、ただ立ちすくんでいた。
郁子は——たぶんただ一人、この場で恐怖を覚えていない存在だった。むろん、郁子自身はそんなことを考えてもいなかったが。
突然、ピシッと鞭《むち》打《う》つような音と共に、郁子の腕の中で写真立てにはめ込まれたガラスが割れた。細かい破片が足下に落ちて音をたてる。その音が坂道に反響するのさえ聞き取れるほど、静かだった。
「郁子、大丈夫か」
と、父が声をかける。「けがしなかったか」
郁子は、写真をガラスの破片のこぼれるままに、父の手に渡すと、棺の方へと駆けて行った。
「郁子! だめよ」
早苗が悲鳴のような声を上げたが、誰一人止めようとして郁子を追ってくる人間はいなかった。
郁子は、棺の傍に膝をついた。下の石が熱く焼けている。溢れるように流れ出た血は、今は石にしみ込み、赤黒く、乾いて行くところだった。
棺から飛び散った花も見る間にしおれて、香りさえ失っていった。
割れた棺の板の間から、裕美子の左手が石の上に垂れている。郁子は何もためらうことなく、両手でその白い手を包んだ。
——もう眠って。お母さん。もう私、そう呼べるから。お母さん、と。
郁子がその手を自分の頬へそっと当てると、後ろで見守っている人たちの間に、音にならない動揺が風のように起きた。
——安心して。
郁子はそう呼びかけた。私はあなたの子よ。
——不意に、日がかげった。
坂に影が広がって、誰もが戸惑うように空を見上げる。郁子も目を上げると、あんなにギラギラと光を放っていた太陽を黒い雲が覆い隠していくのが見えた。
坂はたちまち影に包まれて、一瞬、湿った風が坂を吹き下ろして行った。
そして——空を仰ぐ郁子の顔に、温い水滴が当った。それは肩や腕にパタパタとほんの数秒間広がったと思うと、一気に勢いを増して、強い雨となって降り注いだ。
雨。——雨だ。
雨は熱した石に湯気をたてて、しかしすぐに霧のように辺りを包みながら、激しく降り続けた。
誰もが雨に打たれながら、その場を動かなかった。郁子だけが知っていた。その雨が裕美子を送る涙なのだと。
——雨は山間の急流のように、人恋坂を流れ落ちて行った。