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怪談人恋坂05
日期:2018-07-30 20:22  点击:293
 1 十六歳
 
「誕生日おめでとう」
 
 郁子は、そう言われて顔を上げた。
 
 その表情に、一瞬戸惑いが浮かんで、こっちを見下ろしている山内みどりの屈託のない笑顔に、「やられた!」と思った。
 
「みどり。——びっくりさせないでよ」
 
 と、広げていたカラフルな女性誌を閉じる。
 
「郁子もびっくりすることがある」
 
 と、みどりは郁子の前の席に座ると、「でも、チラッと思ったでしょ。本当に今日だっけ、って」
 
「人を疑うことを知らない、この純情な乙女をからかうなんて、罪だよ」
 
 と、郁子は言い返した。
 
「でも、あと一週間だよね」
 
「そう。——とうとう十六か」
 
 と、郁子は明るい窓の方へ目をやって、呟《つぶや》いた。
 
 昼休みというものはにぎやかなのが普通である。この女子校にしてもそうだ。高校一年生という年代からいっても、教室のあちこちで笑い声が弾けていて然るべきだが……。
 
「静かだね。何となく」
 
 と、みどりが言った。
 
「うん。——やっぱり、倉橋さんのことがあるせいかな」
 
「さっき見かけたって。私じゃないけどね」
 
 郁子はチラッと目を廊下の方へやった。視線がそこから出て、職員室まで届くとでもいう様子で。
 
「来てるの?」
 
「ご両親と。——もちろんお詫《わ》びなんだろうけど、無理だよね、退学と決ったのを」
 
 そう。学校側にも面《メン》子《ツ》というものがある。あくまで人に知られずに処理してしまいたかっただろうが、運悪く、その病院に父母会の理事をしている医者が勤めていた……。
 
「——でも、充江がね」
 
 と、みどりが首を振って、「信じらんないよ」
 
 信じられるわ、と郁子は思った。あのいつも真《ま》面《じ》目《め》に、ひたむきに生きている子だから、うまく「遊ぶ」なんてことができなかったのだ。真剣に男を愛し、身ごもってしまった……。
 
「——でも、男の方は何ごともなしよ。不公平だなあ」
 
 と、みどりは言った。「気を付けなきゃね。女はいつも被害者だ」
 
 倉橋充江はそう思っていないだろう。思っていれば、男の名を出したはずだ。いくら問い詰められても、充江はついに男の名を言わなかった。
 
「——郁子、寂しいね。充江がいなくなると」
 
 と、みどりが言った。「文学の話なんて、このクラスで交わせたの、あの子くらいじゃない」
 
「そんなこといいけど……。大丈夫なのかな、体の方」
 
「学校へ来てるくらいだから。——夏休みにでもなってりゃね。こっそり片付いたかもしれないのに」
 
 みどりは、唐突に話を変えて、「ゆうべ、郁子のお父さん、TVで見たよ」
 
「そう」
 
 みどりは、重苦しい話が嫌いなのだ。世の中に不幸は数々あって、そんなことは百も承知しているが、「見たくない!」と、目をそらしていれば平和でいられる子なのである。
 
「もう、六十過ぎだよね。若いよね、元気そうで」
 
「六十七よ」
 
「六十七か! うちの親父の二十近くも年上? 信じられない」
 
 みどりだって、十六にしちゃ若い。若いというのは妙か。小柄で童顔なので、中学生に見られるのはいつものことだ。
 
 郁子は、腕時計をチラッと見て、
 
「あと五分しかない。——レポート、見直そうと思ってたのに」
 
「あら、お邪魔しました?」
 
「そうじゃないの。何だかその気になれなくて」
 
 郁子は、お弁当を食べながら飲んだ紙パックのジュースを、きちんと飲み干したか確かめるように振ってみて、手の中で握り潰《つぶ》した。
 
「——郁子」
 
 みどりの目が、教室の後方の出入口へ向いていた。
 
 振り向くと、少し目を伏せがちにして倉橋充江が入って来るところだ。
 
 充江はとても静かに入って来たのに、すぐに教室の中がシンと静まり返って、みんなの目が彼女の方に向いた。
 
 郁子は立ち上って、
 
「充江。大丈夫?」
 
 と言った。
 
 重苦しい沈黙がフッと緩んで、
 
「どうなったの?」
 
「もう、来ないの?」
 
 と、問いかけが飛ぶ。
 
 その方がむしろ充江には気が楽なようだった。もう、充江はここでは「よそ者」だったからだ。
 
 充江は制服を着ていなかった。白いブラウスと紺のスカートで、これ以上シンプルにはできないというスタイル。
 
「心配かけてごめん」
 
 充江はクラスメイトに囲まれて、やっと微笑を浮かべた。
 
 郁子は、あえて充江に近付こうとはしなかった。何も言わなくても、充江のことを一番良く分っているのが郁子だということ。——それを彼女も承知しているはずだ。
 
「今日でお別れ」
 
 と、充江は言って、教室の中を見回した。「色々ありがとう。みんな元気で」
 
 誰もが、ちょっとの間無言でいて、
 
「——元気でね」
 
「手紙ちょうだい」
 
 と、代る代る握手をする。
 
 充江がここの人間でないというのは、退学になったとか、そんなことのせいではない。
 
 それはみんなの目の中に現われていた。
 
 充江は、男を知ってるんだわ。——男と寝たのよ。
 
 妊娠し、中絶手術を受けたことで退学になっていく充江を、みんなは好奇心と優越感と、いささかの畏《い》怖《ふ》をもって眺めているのである。
 
「——郁子」
 
 充江の方がそばへやって来た。「ロッカーの物、出しに来たの」
 
「寂しいな」
 
 郁子は、充江の手を取った。「少しやせたよ」
 
「具合、悪かったから」
 
 充江はちょっと笑って、「郁子から借りた本、一度まとめて返しに行くね。それでいい?」
 
「もちろん。いつだっていいよ」
 
「じゃ、一冊ずつ返すか。会う口実になるものね」
 
 二人は、ちょっと笑った。
 
「郁子。——髪の毛が」
 
 充江は郁子の方へ身をかがめ、肩に落ちた髪の毛を指でつまみ取ると、「——帰りに、〈R〉で」
 
 と、囁《ささや》いた。
 
 郁子も、他の誰もが気付かない程度に小さく肯いた。
 
 もともと、倉橋充江は地味で大人びた顔立ちをしている。今、充江は、「身も心も」大人になっていた。
 
 始業のベルが鳴った。
 
「——じゃ、ありがとう」
 
 充江が自分の机——今はもう誰のものでもない——の中の私物を出して、きちんと椅子を中へ入れると、教室の前方の戸口から、早くも午後最初の授業の女教師が入ってくる。
 
「——あら、倉橋さん。いたの?」
 
 と、意外そうに、「出席できないのよ。分るでしょ」
 
「私物を片付けに来ただけです」
 
 と、充江は穏やかに言った。
 
「そう。じゃ、すんだら静かに退出して」
 
 初老の婦人は、充江に対して明らかに敵意を抱いていた。充江がそれを感じないわけがなかったが、ただ黙って一礼し、何冊かの本やノートをしっかり抱えて教室を出て行った。
 
 後には机が——空っぽの椅子と机だけが残されていた。
 
 
 
「充江!」
 
 郁子は手を振った。
 
 充江が足早にやって来る。——この〈R〉は、よく二人で小説や映画のことを飽かず語り合った喫茶店である。
 
「ごめんね、呼び出して」
 
 充江は、小ぶりなボストンバッグを持っていて、傍に置いた。どこで着替えたのか、ジーパンをはいた充江を見るのは初めてで、郁子は目を丸くした。
 
「そんなこと……。どうせ帰り道だもん。充江——」
 
「私、時間がないから」
 
 と、オーダーを取りに来たウエイトレスを断って、「郁子。私、家出して来た」
 
 郁子は言葉もない。充江が、しっかり目を据えてこっちを見ている。
 
「——どこに行くの?」
 
 郁子は、やっと訊いた。
 
「訊かないで。正直言って、自分でもよく分らないの。でも、落ちついたら、手紙出すから」
 
「充江。——二人?」
 
 ほんの少しのためらいの後、充江が肯いた。
 
「彼とね。——私、家族に失望したの。親だって、結局世間体が自分の娘の幸福よりも大切なんだわ。私、つくづく思い知った。そう知ってしまった以上、もう家にいられない」
 
 郁子は、まるで自分が駈《か》け落ちしようとしているかのようにドキドキしていた。
 
「——体、大丈夫なの? 無理しないでね」
 
 こんなことしか言えない自分が少々情ない。
 
「色々ありがとう」
 
 充江の手が、郁子の手を軽く包んだ。冷えた、あまり力強くはない手である。
 
「気を付けて」
 
「うん。——もう行かないと。列車に乗り遅れる」
 
 と、ボストンバッグを取り上げ、腰を浮かす。
 
「充江」
 
 何を言うでもなく、呼んでいた。
 
「郁子。最後に会えて良かった」
 
 充江は、もう一度、空いた左手で郁子の手を包むと、「郁子が一番の友だちと分ってるから、後でうちから何かと訊いてくるかも……」
 
「知らないことは話せない」
 
 と、郁子は微《ほほ》笑《え》んだ。
 
「それもそうだ。——何も知らない、聞いてない、で通してね」
 
「うん。もう行って」
 
「ありがとう。じゃあ……」
 
 充江は足早に店を出て行った。
 
 郁子は、一言、「幸せに」と言ってあげれば良かったと後悔した。でも、自分のような子から言われて、充江が嬉しかったかどうか。
 
 言わなくて良かったのかもしれない。少なくとも、郁子の目には、充江の中に何の迷いもないように見えた。
 
 恋の力か? ——郁子の手の届かない所に、充江は行ってしまっていた……。
 
 
 
 ほとんど無意識に、〈次、停ります〉と書かれたボタンを押している。
 
 郁子は、バスがスピードを落とすほんの何秒かの間に、なぜ今日はここで降りる気になったのか、分っていた。
 
 シュッと空気の抜ける音と共に降車口の扉が開いて、郁子は路面へ下り立った。他に降りる客はいない。そうだろう。ここで降りなければ、バスが大きく迂《う》回《かい》して、あの坂の上へ運んでくれるのを、わざわざこうして……。
 
 夜が近付いていて、ちょうどその場の街灯がチカチカと音をたてて点灯したところだった。
 
 郁子は歩き出した。坂道へと。人恋坂へと、足を運んだ。
 
 人恋坂は、もうかなり夜の気配である。
 
 郁子は、ゆっくりと坂を上って行った。
 
「——坂を使わないようにして」
 
 と、母、早苗から言われていた。
 
 その母の気持は分る。しかし、郁子は時間の都合で、急がなければならないときを除いて、たいてい坂を上って帰ったのである。
 
 五月の夕空は、もう日が長いが、この坂には一足早く夜が降ってくる。
 
 ゆるやかにカーブする坂を辿《たど》って、やがて郁子は、ある箇所で足を止める。
 
「——ただいま、お姉ちゃん」
 
 郁子はそう低い声で呟いた。
 
 今、郁子は、七年前のあの日、裕美子の棺が割れた、正にその場所に立っていた。
 
 青白い光が射した。——今通り過ぎて来た街灯が点《とも》ったのである。郁子の影が坂に落ちて、その影は奇妙な形に広がって見えた。
 
 郁子には分っている。それは影ではないのだ。あの日、焼けつく日射しの下で、敷石に広がり、一瞬の内に乾き切った、裕美子の血の痕《あと》なのである。
 
 信じられないことかもしれない。七年間もたって、今なお血《けつ》痕《こん》がくっきりと石に焼きつけられているということなど。
 
 しかし、事実なのだ。あの後、裕美子の遺体は改めて白木の棺へ納められ、火葬に付されて、灰となった。
 
 雨が上っても、血痕は洗い流されていなかったので、父、藤沢隆介は大学の学生を何人か雇って、この血痕を洗い落とさせようとした。しかし、逞《たくま》しい腕力自慢の学生が数人でかかっても、血は石の奥深くまで浸み込んで、ほとんど洗い落とすことはできなかったのである。
 
 父は、諦め切れずに、何度か同じことを試みたが、むだな努力だった。——結局、「時がたてば消えていくだろう」と自分へ言い聞かせるように言って、それまではできる限り坂を通るな、と家族に言い渡したのだ。
 
 その期待は外れた。七年たっても、裕美子の血はしっかりと跡を止《とど》めているのだから。
 
 郁子は、その場にしゃがむと、鞄《かばん》を置いて、そっと指先を黒く染った石の表面に触れた。
 
「お姉ちゃん。——私、もうじき十六だよ」
 
 と、郁子は言った。
 
「お母さん」と呼んでほしいだろうか、と考えることもある。けれども、あの日まで、ずっと「お姉ちゃん」だった人を、別の名で呼ぶことは難しかった。結局、郁子は呼び方にはこだわらないことに決めたのだ。
 
「憶《おぼ》えてるからね、ちゃんと」
 
 と、郁子は言った。「お姉ちゃんの話してくれたことも、私が約束したことも、何もかも、忘れてないからね」
 
 そして、もう一度、
 
「じき、十六よ」
 
 と、付け加えた。
 
 ——ふと、足音が坂を上って来るのを聞いて、立ち上った。指先のざらつきを軽く払うと、歩き出そうとして、
 
「——郁子か」
 
 上って来たのは、父、藤沢隆介だった。
 
「お帰りなさい」
 
 と、郁子は足を止めて、父が上って来るのを待った。「早いね、今日は」
 
「明日からロンドンだ」
 
 と、藤沢は郁子と並んで一旦足を止めると、「よく坂を通るのか」
 
 と訊く。
 
「ときどき」
 
「そうか」
 
「お父さんも、通るな、って言っといて」
 
「そうだな」
 
 と、藤沢は笑って、「しかし……ふしぎなことだな」
 
 と、足下の血痕を見下ろす。
 
 郁子は何も言わなかった。
 
「さあ、行こう」
 
 と、藤沢が促す。
 
 人恋坂に、二人以外の人影はなかった。
 
 ——郁子は、少し間を置いて、父に訊き返した。
 
「お父さんも、よく通るの」
 
「いや……。たまに、だ。何となくその気になるとき。たとえば、明日から遠い国に出かけるというときぐらいか」
 
 少し意外だった。父が裕美子の話をするのも、ほとんど聞いたことがない。
 
 それでいて、遠くへ旅に出るときは、ここを通る。——郁子にとっては「発見」だった。
 
 玄関を一緒に入ると、母が出て来て、
 
「あら、どうしたの一緒に?」
 
 と、びっくりしている。
 
「そこで会ったんだ」
 
 と、藤沢は靴を脱いだ。
 
 坂で会った、とは言わない。母、早苗が最も神経質になって、決してあの坂を通らないことを知っているから。
 
「じゃ、一緒に夕ご飯にできるわね。——和代さん」
 
 と、少し大きな声で呼ぶ。
 
「——はい」
 
 安永和代。——裕美子の面倒をみていてくれた、あの和代である。
 
「あら、お珍しい」
 
「一緒にご飯ですって、珍しいこと。突然帰って来てこうですものね」
 
 早苗は嬉しそうである。
 
「着替えてくるわ」
 
 と、郁子は言った。
 
「少しゆっくりね。仕度だって、そうすぐにはできないわ」
 
「いいよ、ゆっくりで。そんなにお腹空いてるわけじゃないから」
 
 郁子は、二階へと軽い足どりで上った。
 
 ——自分の部屋へ入ると、鞄をベッドの上に投げだし、着替える前に窓辺へ寄って、外を眺めやった。
 
 ——坂が、夕暮の影の中に包まれていくのが見える。
 
 今、郁子の部屋はかつて裕美子が使っていた所である。人恋坂を見下ろせる部屋。裕美子が郁子を宿した日、梶原を見送って手を振った、その部屋である。
 
 郁子は、坂がすっかり影の中に沈んでいくまで、窓辺から動かなかった。
 
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09/04 16:21
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