「誰か来るのか」
藤沢隆介は、食卓を一目見て言った。
郁子は五分ほど前から仕度を手伝っていたから、もちろん料理が五人分用意されていることも知っている。しかし、あえて、母にも和代にも誰の分なのか訊かなかった。
「さっき、電話があって」
と、早苗がわざとらしいさりげなさを口調ににじませて、「圭介たちが」
「そうか」
藤沢は、冷ややかに、「何の用だ。また金の話か」
「あなた……」
「心配するな。俺からは言わん。向うが言い出さない限りな」
椅子を引いて、藤沢は腰を下ろすと、「待ってなくてもよかろう」
「ええ。和代さん、ご飯をよそって」
早苗が急いで言った。本当は待ちたかったのだろう。しかし、これ以上夫の機嫌をそこねるのは得策でないと考えたのだ。
「郁子は?」
「私……待ってようか、お兄さんたち」
「そうする?」
早苗は一瞬、郁子の言葉を喜んだようだったが、自分も食べないでいるとなると、夫一人が食べることになる。当然、面白くあるまい、と考え及んで、
「でも、お腹空いてるでしょ。先にいただきなさい」
「うん。それじゃ」
郁子がすぐに呑み込んでくれるので、早苗はホッとした表情。
電話が鳴って、和代が出たが、すぐに、
「郁子さん、お電話」
と、呼びに来る。
「はい、誰?」
「倉橋さんって——。お友だちの親ごさんのようですよ」
充江のことだ。もちろん郁子にはすぐに分った。
「——はい、お待たせしました」
と、電話に出る。
充江の母親からだった。充江が家出したらしい。行先に何か心当りは、という予想していた通りの話で、
「色々聞いてるでしょうけど、藤沢さんも」
と、充江の母親は言った。「もしかして、充江が自殺でも、と思うと心配で」
一瞬、郁子もドキッとした。そんな可能性は考えてもみなかったのだ。
しかし、充江の様子からは、そんな気配は全くうかがわれなかった。郁子は気を取り直して、
「充江さん、しっかりしてますから。何か分ったら教えて下さい」
「ええ。ごめんなさい。ご心配かけて。あの——もし、充江が何かそっちへ言ってくることがあったら……」
母親の声が少し低くなって、「帰って来なくても、手紙だけでも出すように言って下さい」
「はい……」
——電話を切って食卓に戻ると、
「倉橋さんって、あの……」
と、母の早苗が言う。
「そう。——充江が家出したって」
「まあ」
早苗の方は、それ以上口にしないつもりのようだったが、和代が、
「妊娠して退学になった子でしょ? うちにも遊びに来たことありますね。そんな子に見えませんでしたけどね」
郁子としては、充江のことを芸能人のゴシップ扱いして食事どきの話題にしたくなかったので、何も言わなかった。しかし、父は黙っている人間ではない。
「退学? そんな話、初耳だな」
「いいお嬢さんですけどね。魔が差すってこともありますよ」
と、早苗が話をそらそうとするように、言った。「和代さん、お鍋《なべ》大丈夫?」
「見て来ます。——一《いつ》旦《たん》、火を止めますか?」
「いえ……。そうね、圭介たちが来たら、また温めればいいわね」
郁子は、父が不機嫌そうに食べているのを、横目で見ていた。
「——親に認めてもらえん内に、子供を作ったり。そんな奴はどうせろくなものにならん」
と、お茶をガブ飲みして、「早苗。俺がロンドンへ行ってる間、圭介が何を言って来ても、耳を貸すんじゃないぞ」
早苗は何も言わない。実際はどうでも、適当に夫の言うことに合せておけばいいのだが、早苗はそういうことのできない性格だった。
「——お父さん、いつ帰るの」
郁子がごく自然に話の流れを変えた。
「一週間で帰る。郁子の誕生日には、帰るからな」
「憶えてたんだ」
と、郁子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「ああ。——最近、暇になって手帳に書くことがなくなったから、メモしといた」
父らしい言い方に、郁子は笑った。早苗が少し和んだ空気にホッとした表情を浮かべる。
「あなた、今日病院の方へは?」
と、早苗が思い出したように言う。
「うん? ——ああ、小野の所か。寄ってる時間がなかった。お前、何か果物でも送っとけ」
「小野さん……。具合悪いの」
父、隆介の秘書である。このところ姿を見せないのには気付いていたが、入院しているとは思わなかった。
「飲み過ぎだ。自業自得さ」
「あなた……。気の毒よ、そんなこと言って」
「ともかく、ロンドンへは代りを連れてく。役に立つかどうか分らんが」
父、隆介のことは郁子もよく分っている。病院という所が嫌いだ。気が弱いのである。
自分自身は頑健な体を持ち、山内みどりが言ったように、とても六十七とは見えない。
食欲も若者並みにあり、酒も飲むが、肝臓を悪くしたという話も聞かない。
兄の圭介に言わせれば、
「あんだけ好きなことやってりゃ、ストレスなんかたまらねえさ」
ということになるが。
「——用がなけりゃ、呼ぶな」
早々と食べ終って、隆介は席を立った。
「でも圭介が——」
「だから、用があったら呼べ」
と言いつつ、もう出て行ってしまう。
「本当に……」
早苗は、ため息をついた。
「お母さん、いつもため息ばっかりついてると、老けるの早いよ」
「もう六十よ。老けて当然」
熱いお茶をそっとすする。
「また、叔母さんとでも旅行に出ればいいのに」
「ああ、そうね。——ここのところ、あの人もご主人が寝たり起きたりで、出にくいらしいわ」
「へえ。具合悪い人、多いんだ」
と、郁子はゆっくりと食事を続けた。
柳田靖江の夫というのは、郁子の記憶にほとんど入力されていない。妻の存在が大き過ぎて目立たないのかもしれない。
「みんな年齢は取るわよ」
と、早苗は肯《うなず》いて、「——小野さん、ガンでね、もう長くないのよ」
郁子は、食事の手を止めた。
「だって、まだ四十……」
「四十五、六? 子供さん、まだやっと小学校なのにね」
「あんなに元気そうだったのに……。そんなに悪いの」
「たぶん、あと二、三か月って」
小野のようなタイプの男は、郁子の興味とは最も遠いが、それでも子供のころから知っていただけに、ショックではあった。
「郁子。あなた、明日でも病院に見舞に行ってくれない?」
と、早苗が思い付いて言った。
「私? だって……」
「お父さんが一度もお見舞に行ってないので、お母さん、行き辛くて。郁子なら、あちらの奥さんも喜んで下さるわ」
郁子は少し迷ったが、
「——クラブが終ってからでもいい? 少し遅くなるけど」
「行ってくれる? 悪いわね」
早苗も、気が弱い点では夫と同様だ。
「お見舞、どうするの」
「千《せん》疋《びき》屋に電話して、作っておいてもらうわ。知ってるでしょ、いつもの?」
「うん。お金、そこで払えばいいのね」
「そうしてちょうだい。お願いね」
「うん……」
不謹慎かもしれなかったが、郁子は小野がどんな風に変ったか、見たかった。「死」と一番縁のなかったような人間が、いやでも真正面からそれと対面しなければならなくなったとき、どう変るだろう、と思った……。
「——圭介様です」
と、和代が顔を出して言った。
いつ玄関のチャイムが鳴ったのか、郁子は気付かなかった。
正確に言うなら、「圭介たち」である。
「——やあ」
と、ダイニングへ入って来て、圭介は母親と郁子に目をやりながら、「また降って来そうだぜ。ここへ来るときはたいてい天気が悪くなる」
「今晩は」
圭介のかげに隠れるようにしていた女性が早苗に向って頭を下げた。
「いらっしゃい。——さ、かけて」
と、早苗はごく普通の来客のように、その女性に声をかけた。
「突然申しわけありません」
「いいのよ、別に。こっちも忙しいわけじゃないしね。——お食事、これからでしょ? 和代さん、仕度をね」
「すぐに用意できます」
と、和代が台所へ消える。
「何かお手伝いしましょうか」
と、その女性は腰を浮かした。
「いいさ。座ってろよ」
と、圭介が言った。「妹に会ったこと、あったっけ」
郁子がその女性——神原沙織に会うのは、今日が初めてというわけではなかった。
「ええ……」
「お兄さん、忘れたの? 銀座でばったり会ったじゃないの」
「そうか。そうだった」
と、圭介は指先でテーブルをトントン叩きながら、「改めて紹介しとこう。——沙織だ」
「神原さん——でしたよね」
「いや、藤沢沙織だ」
圭介の言葉に、一瞬テーブルの周りは凍りついたようで、
「——圭介」
と、早苗が言った。「どういうこと?」
「今日、婚姻届を出した」
と、圭介は言った。「いいだろ? 二十歳前の子供じゃないんだ、二人とも。それに、結婚してすぐ出産じゃ、却ってみっともないと思ってさ」
平然と言っているつもりだろうが、目をそらしているのがいかにも圭介らしい。
「本当なの?」
と、早苗は言って、ため息をつくと、「わざわざお父さんを怒らせるようなことして!」
「同じじゃないか。どうせ話す気はないんだ。それなら、こっちはこっちでやっていくしかないよ」
と、強気で言い張っている。「一応、報告しとかなきゃ、と思って来たんだ。沙織がぜひ話しておいてくれ、と言うもんだからね」
郁子は、じっと控えめに圭介のそばに座って目を伏せている沙織の様子に、やや驚いていた。
以前、兄と神原沙織が連れ立って歩いているのを見たときには、沙織は派手なピンクのスーツだった。ホステスという仕事柄、仕方なかったのだろうが。
それに比べると、今は化粧っけもなく、地味過ぎるほど地味に装っている。
「——申しわけありません」
と、沙織が早苗の方へ頭を下げると、圭介は面白くなさそうに、
「よせ。謝ることなんかないんだ」
と口を挟んだ。
「お兄さん。そんなんじゃ、いつまでたってもお父さんの同意なんか得られないよ」
「子供は黙って遊んでろ」
と、圭介がからかう。
「あの——お義《と》父《う》様はおいででしょうか」
と、沙織は訊いた。
「ええ……。でも、食事がすんだら、忙しいとか言って——。明日、ロンドンへ発つものですからね」
もちろん、そんなことが理由にならないのは、みんな百も承知だ。
「どうせ、出てくる気なんかないんだ。無理に会っても、言い合いになるだけだ」
と、圭介は、とりあえず和代の仕度してくれた食事に箸《はし》をつけた。
沙織の方も、多少おずおずと食事に手をつける。——郁子は、二人だけが食べるのでは気詰りだろうと、
「お母さん。私、お茶漬を一杯もらおうかな」
と、茶《ちや》碗《わん》を出した。
圭介は何も聞こえないふりをして、そっと郁子の方を見ていた。
——圭介は今年三十七歳。やや老けて見えるのは、三十過ぎから始まった、髪の生え際の後退が、ますます目立って額の面積を広げているから。
加えて、髪そのものにも白いものが目立ち始めている。
「沙織さん」
と、郁子は言った。「予定日はいつなんですか?」
「暑い盛り。八月の末の予定ですけどね。でも、たぶん九月に入るんじゃないかしら」
沙織は、お腹の子供のことを訊かれたのが嬉しかったらしく、ホッとした笑いが浮かんだ。
「じゃ、これから大変だ」
「ええ。——でも、ぜひ元気な子を産みたい。頑張るわ」
——沙織は、圭介よりも年上の、四十歳である。四十で初めての出産だ。
父、隆介にしてみれば、息子が年上のホステスと恋仲になったことだけでも面白くなかったわけで、顔を合わせる度に喧《けん》嘩《か》になっていた圭介は、いやけがさして沙織の住むマンションに行ってしまった。しかも、沙織が身ごもっていると来ては……。
隆介が腹を立てて、会わないと言っているのも、そんな事情だった。
「——じき、十六だな」
居間へ移ってコーヒーを飲みながら、圭介が言った。
「憶えてた」
「ああ」
圭介は、沙織がまだダイニングの方にいるのをチラッと見て、「——ありがとう」
と、小声で言った。
「何が?」
「沙織のことだ」
「私は、反対する理由なんてないもの。私のお嫁さんじゃないし——。でも、大丈夫なの? 仕事してる?」
「友だちに誘われて、結構いい商売してるよ」
そうは思えない、と郁子は思ったが、口には出さなかった。
「——郁子さん、紅茶です」
と、和代がティーカップをテーブルに置いた。
「君も永いね」
と、圭介が軽口を叩く。「嫁に行かないのか」
「もう三十六ですよ」
と、和代は言った。「今さら面倒で」
「三十六? そうか。俺と一つしか違わないんだっけ」
——和代は、裕美子が死んだ後も、そのまま残ることになった。今では、早苗もずいぶん気をつかうような存在になっている。
「早いものですね」
と、和代は郁子を見て、「あのとき、郁子さんは九つで……」
「可愛かったよな。今みたいに生意気でもなくて」
「お兄さん」
と、郁子は冗談ににらんで見せる。
「和代さん、悪いけど」
と、早苗が呼んだ。「あの人の仕度、手伝ってくれる?」
「はい」
和代が出て行き、束の間、郁子と圭介が二人で居間に残った。
「——しばらく見ないと、ずいぶん変って見えるもんだ」
と、圭介は言った。
「私のこと?」
「違う。和代のことさ」
そう。確かに郁子の目にも、和代は垢《あか》抜《ぬ》けて小ぎれいにしているようになった、と映る。
「お給料、使うこともないんだっていつか言ってたわ。食費もいらないわけだし」
「給料か。どれだけもらってると思うんだ?」
と、圭介はちょっと笑った。
「私、知らないわ。お母さんが出してるんでしょ」
圭介は、コーヒーをゆっくり飲んで、
「郁子」
と、廊下の方をチラッと見て、「知らないのか、お前」
「——何の話?」
言い出しておいて、圭介はためらっている。
「何よ。それだけでやめるのはひどい」
「そうだな。——その内、お前にも分る。男と女のことが分るようになる」
男と女。唐突にそんな言葉が出て来て、郁子はドキッとした。
「どうして、和代さんの話から、そんな——」
と言いかけて、「——まさか。和代さん、男の人と?」
「でなきゃ、ああ優雅にやってけやしないだろ」
「私……分んないわよ。自分で働いてるわけじゃなし」
と言い返しておいて、「じゃ、その男の人からお金もらってるっていうの?」
「当然だ。だからこそ家に居座ってられる」
兄の言葉の意味を呑み込むのに、少しかかった。一旦分ってしまうと、どうして今まで考えてもみなかったか、ふしぎでさえある。
「お父さんと……和代さん?」
郁子が唖《あ》然《ぜん》としていたのは、和代がそういう雰囲気のない女性だったからで——美人と言えないということは別としても、少なくとも、郁子から見て、いわゆる「女らしい」魅力を感じさせなかったのである。
「子供にゃ分らないだろ」
と、圭介らしく皮肉っぽく言って、「俺が言ったなんて、内緒だぞ」
「でも……」
郁子は、言いかけてやめる。あまりに当然のことを訊こうとしたのだ。——「お母さんは知ってるの?」と。
圭介が知っているくらいだ。早苗も知らないわけがないが……。ということは、この家で、妻と愛人が一緒に暮しているということになる。
郁子が呆《あつ》気《け》に取られているのも、当然のことだったろう。
沙織がやって来ると、今度は和代が、
「圭介さん」
と、呼びに来た。「先生がお会いしたいとおっしゃってます」
沙織も立ち上りかけたが、圭介が、
「待ってろ」
と抑えて、出て行く。
今度は、沙織と二人になってしまった郁子。
「——郁子さんはとてもしっかりしてらっしゃるのね」
と言われてくすぐったい。
「末っ子で、図《ずう》々《ずう》しいだけ」
「圭介さん、いつも『妹は怖いから』って言ってるわ」
「そんなこと言ってる? 仕返ししなきゃ」
郁子は、沙織の笑いに、ふと自分と近しいものを聞き取った。若いころから、世の哀《かな》しみを身にしみて感じた者の笑いだ。
郁子は、何となくこの女性に親しみを覚えた。
「手がかかるでしょ、お兄さん」
「そう……。そうね」
と、沙織は微笑んで、「手はかかるし、何一つ自分じゃやらないし。もっとも、無器用だからね、何もしてくれない方が却って助かるんだけど」
「分る」
と、郁子は肯いた。
「でも……。人って、一つだけいい所があれば……。ねえ、もちろん人によって、違うでしょうけど。私はそう思うの」
「じゃ、圭介兄さんにも、一つはいい所があったんだ」
「ええ。——もちろん。私のことを人間として扱ってくれたのは、圭介さんだけだったの」
人間として扱う。——そんな、いわば「大仰な表現」が出てくると思わなかった郁子はびっくりした。
「それって……どういう意味ですか?」
と、素直に訊く。
「文字通りの意味よ。私は……たぶん、お父様もご存知でしょうけど、私生児なの。母は気の弱い人で、父を失うのが怖くて何でも私に我慢させた。——学校でも、ずいぶんいじめられたわ」
郁子は、言葉もなく聞いていた。沙織はちょっと首を振って、
「ごめんなさい。何だか……あなたにこんなこと言っても仕方ないのに」
「そんなこと——」
もっと話して、と言いたかったが、二人の会話を、父、隆介の大声が遮った。
「二度と帰って来るな!」
家中に、その声は聞こえたはずだ。
郁子は息をのみ、沙織は反射的に立ち上って、やや青ざめた顔で立ちすくんでいたのだった……。