「小野の奴!」
つい、そう口走って、藤沢隆介は思い出した。
そうだ。——小野は同行できないのだった。
あいつは、死にかけている。とんでもないことだ。俺に何の断りもなく、死のうっていうんだから。
八つ当り、と頭では承知である。しかし、隆介はすべてを他人任せにして、自分はそれにのるだけ、という暮しを長くし過ぎたのである。
頭で分っていても、感情や気分はそれを受け容れてくれない。
だが今日の場合は……。ロンドンへ向うブリティッシュ・エアライン機は、とっくに搭《とう》 乗《じよう》手続を始めている。
隆介はせっかちな性格である。いや、何ごともというわけではないが、列車や飛行機の時間に関しては、うるさかった。
小野はそういう隆介の性格を呑《の》み込んでいて、空港に着くと真先にチェック・インをすませていたし、事前にチェック・インできるようになってからは、予約と同時に便宜を図ってもらっていた。
しかし……。隆介が成田に着いても、新しい秘書は来ておらず、しかも何の連絡もなく三十分も待たされている。
「クビにしてやる!」
と、隆介は怒っていた。
何という名前だったろう? ——江口。そう、江口愛子といった。
やはり一度も会わずに決めてしまうのではなかった。面接してからと思ったのだが、忙しくて、ロンドン行きまで時間も取れなかったので、
「これでいい」
と、言ってしまったのである。
確か、二十七か八か……。書類では申し分なく優秀な秘書ということだったが、やはり実際のところは会ってみないと分らないものだ。
もう何十回めかのため息をついたところへ、
「失礼します」
と、女の声が、「藤沢先生でいらっしゃいますか」
その女は、少しも急いで駆けつけて来たように見えなかった。
「ああ。君は——」
「江口と申します。江口愛子です。イギリスへお供させていただきます」
小ぶりなスーツケース一つ、カラカラと引いている。
「もうチェック・インはすんでいます。ラウンジで休まれますか」
遅れた詫《わ》びもしないことに腹が立った。
「今何時だと思ってるんだね」
わざと、さりげなく訊《き》いてやる。
「十一時少し過ぎです」
時間を訊かれたと思ったらしい。あっさりとそう答えて、
「ラウンジで十五分か二十分はお休みいただけますわ」
と、さっさと歩き出す。
隆介は、肩すかしを食らった気分で、仕方なくその女の後について行った。
「——私、一時間近く前から来ていたんです」
と、エスカレーターでラウンジの方へ下りながら、江口愛子が言った。
「一時間も?」
「ええ。上のティールームで時間を潰《つぶ》してたんですけど、五分置きくらいに、先生がおいでになってるかと見てたんです」
「しかし……」
「お写真が、お書きになったご本の裏表紙のものだったんです。お見かけしたことがなかったものですから」
そう言って、笑い出し、「——ずいぶんお若いころの写真を使ってらっしゃるんですね。私、分らなくて。でも、あんまりおいでが遅いので、もしかしたらと思って、一人一人、それらしい男性を見て回って——。そしたら、何となく写真と似た人がいるんで、『もし違ってたらどうしよう』なんて心配してたんですよ」
隆介は、腹を立てるのさえ忘れていた。
確かに、著書にのせているのは、十年以上前の写真だ。しかし、だからといって、そんなことを当人に向って言うとは。
どういう女なんだ、これは?
「——あ、ここですね」
と、ガラスの分厚い扉を開ける。
ラウンジのソファに腰を落ちつけると、
「何かお飲みになりますか?」
江口愛子も、やっと秘書らしいことを言い出した。
「うん? ——じゃ、コーヒーをもらおう」
と、隆介は言った。「ミルクと砂糖も入れてくれ」
「はい」
江口愛子は、足早に飲物の用意してあるカウンターへ行って、カップにコーヒーを注いで来た。
「——どうぞ」
「うむ……」
一口飲んで、隆介は顔をしかめ、「おい、砂糖が入ってないぞ」
と、文句を言った。
「分っています」
「——何が?」
「先生のお年《と》齢《し》では、糖分を取り過ぎるのは良くありません。コーヒーは砂糖なしでお飲み下さい」
押し付けがましいことを、当り前の口調で言われて、隆介は呆《あつ》気《け》に取られた。
「いいかね——」
「味には慣れます。お砂糖抜きのコーヒーを、この旅行中ともかくお続け下さい。お体のためです」
江口愛子は、淡々と、しかし決して後にはひかないという気配で、「旅行から帰られて、やっぱり砂糖を入れないと、ということでしたら、お入れします」
隆介は、言葉もなくこの「生き物」を眺めていたが、やがてクリームだけを入れたコーヒーをゆっくり飲み始めた。
「結構です」
と、新しい秘書はニッコリと微《ほほ》笑《え》んで、「先生に倒れられたら、困る人が大勢出るんです。私も秘書として雇われたので、寝たきりの先生のお世話をするのなんて、いやですから」
何と無遠慮なことを平気で言う奴だ!
「スピーチの原稿、ゆうべ読んで来ました」
隆介の思いなど、まるで気にとめる様子もなく、さっさと鞄《かばん》からコピーを取り出す。
そして、パラパラとめくりながら、
「言い回しの古くさい所は直しておきました。言葉は生き物ですから、やはり時代に合せて行かないと」
隆介は、腹を立てることも忘れて、その女を眺めていた。
「飛行機の中で、目を通されますか?」
と、江口愛子が訊く。
「先生」がしばらく黙っているので、初めて不安になったらしい。
「先生。——私、何か失礼なことを申しました?」
それを聞いて、藤沢隆介は、怒らなかった。いや、笑い出してしまったのである。
「君は面白い奴だ」
と、コーヒーを飲むと、「——うん。甘くないコーヒーも悪くないものだな」
「そうでしょ?」
と、得意げに言って微笑む。
そのときになって、隆介は初めて気が付いた。江口愛子の笑顔が実に可愛いということ。
そして、彼女がハッとするほどの美人だということにも……。
「いつもありがとうございます」
と、店員がていねいに見送ってくれる。
別に郁子が自分のお金で果物を買ったわけではないが、やはり客として丁重に扱われるのは悪い気がしない。
学校の帰り、病院へ小野を見舞うことは母の頼みだが、午前中は正直どうしようかと迷っていた。小雨模様で、学生鞄に傘を持ち、果物の入ったかごをさげて歩くなんて、想像しただけでくたびれてしまう。
しかし、下校時には雨も上り、青空になって、もう降る心配もなさそうだったのでやって来たのである。
傘は全くさしていないので、小さく折りたたんで鞄へしまった。荷物が一つ減るのは助かる。
病院は、名前こそよく知られているが、実際に来てみると古ぼけていてびっくりする。
中も迷路のようで、郁子は何度も訊いて、やっと小野のいる病室を捜し当てた。
二人部屋らしいが、外の名札は〈小野安幸〉一人だけ。——あの人、〈安幸〉って名だったんだ、と初めて知った。
どうしよう、と迷っていると、郁子へ、
「ご用ですか」
と、声をかけて来てくれた女性。
小野の奥さんだろう。会ったことはあるが、もう大分前である。
「藤沢郁子です。母の代りにお見舞に伺いました」
と言うと、相手はびっくりして、
「まあ、お嬢様! ——わざわざおいで下さって」
と、手を髪へやった。「あの……。主人は中ですわ」
「入ってもいいですか?」
「ええ。ただ……ついさっきお薬で眠ってしまって。起きているといいんですけど」
郁子は、間近に小野の奥さんを見て言葉を失っていた。三十代半ばのはずだが、髪にはずいぶん白いものが目立っている。
一気に十歳も老けたようであった。
「あの、無理に起さないで下さい」
と、急いで言って、「これ……。お口に入りやすいもの、というので母から」
「本当にご親切に」
と、奥さんは泣かんばかり。
「——大分お悪いんですか」
郁子は、廊下での立ち話にせよ、中へ聞こえないように気をつかって小声で話していた。
「ええ……。いつもは、家のことなんて何も考えない人でしたが、このところ、私や娘のためでしょうか、後のことを気にして……。それでまたストレスがたまるんでしょうね」
郁子は黙っているしかなかった。その内元気になるという病人なら、「早く元気になるといい」とか「お大事に」とか言えるというものだが、もう先が短いと知っていながら何が言えるだろう。
「じゃあ、これを——」
小野の顔を見たいという気持もないではなかったが、奥さんのやつれ方を見ると、それも怖くなった。眠っているのなら、却って幸い。フルーツを置いて帰ろうかと思った。
「せっかくおいで下さったんですから……。主人が起きているか、見てみます。最近は薬を服《の》んでも痛みで眠れないことが……」
そんなときに、わざわざ……。
しかし、奥さんは病室のドアを開けていた。
「——あなた。起きてる?」
半開きのドアから、オレンジ色の夕陽が射し込む病室の中を覗き込むと、ベッドにかがみ込んで話しかけている奥さんと、何か唸《うな》るように低く答えている小野の、わずかにわきへ垂れた手だけが見えた。
「じゃ、ちょっとお話をね。——お嬢様、どうぞ」
入らないわけにいかない。郁子はそっと病室へ入って行った。
「私、お湯を入れて来ますから。——申しわけありません、ちょっとここにいて下さいます?」
突然何を思ったのか、奥さんは郁子と病人を残して出て行ってしまう。
ここにいて下さい、ということは、奥さんが戻るまでは帰れないのだろうか? ——別に、帰ったからといって何も文句など言われやしないだろうが、それでも何となく後ろめたい気分になりそうである。
仕方なく、郁子は小野のベッドへ近付いて、
「小野さん——」
と、呼びかけてみた。
しかし……。郁子はそれ以上何も言えなくなってしまった。一瞬、自分が間違った病室を訪ねて来たのかと思った。
これが——これが小野?
頬《ほお》がこけ落ち、頭髪もまばらに抜け落ちてくぼんだ目には何の表情もない。土《つち》気《け》色《いろ》の顔と、骨と皮ばかりになった無惨な首筋……。
どう努力しても、かつて父の下で忙しく駆け回っていた秘書の面影はそこに見付けられなかった。
もう「死」は九割方、病人の体を占領してしまっている。
郁子の呼んだ声が、ずいぶんたってから届いたとでもいうように、小野の眼球が戸惑うように動いて、かすれた声が、
「どなた……です?」
と、言った。
奥さんの話を聞いていなかったのか、それとも理解できないのか、それでも弱々しい声音に、郁子は小野の声の記憶を見付けることができた。
「小野さん。——私、藤沢郁子です」
「ああ。——先生はお元気ですか」
と、そのやせた顔に微笑さえ浮かんだのにはびっくりさせられた。
「ええ。忙しいので来られないと言って。私が代りに来ました」
「そりゃあ……どうも、すみませんね」
と、小さく肯《うなず》き、「じき……良くなりますから、先生にそうお伝え下さい……。ご不便かけて申しわけないと思ってるんですよ……。本当に……」
何と言ったものか、迷った。でも、ここは病人に合せておくべきなのだろう。
「父も、そう言ってます。小野さんがいないと困るって。早く良くなって下さいね」
「いやあ……。本当に困ったもんで。丈夫だけが取り柄だったのに……。先生は……確か今、ロンドンですね」
「ええ」
郁子はびっくりした。
「空港で何かトラブルがないといいんですが……。すぐカッとなって、『帰る!』とおっしゃるんで、困るんですよね」
と、小野は小さく笑った。
「小野さんも大変ね。父も、八つ当りする人がいなくて困ってると思うわ」
と、以前のようにやっとしゃべれるようになる。
「そう……。そうですか……」
ふっと小野が目を閉じる。——眠り込んだのだろうか。
さっき薬を服んだと言っていたから、きっと……。これ幸い、と郁子は帰ろうと思った。
話していると辛くなる。家に年中出入りしているころは、気にも止めない存在——いやむしろうるさくて煩《わずらわ》しく、あんな男だけはいやだ、などと思っていた相手でも、こうして死のうとしているときには、その男なりの人生があったのだということ——そこにはやはりある「重味」があるものだということを感じさせられる。
——もう行こう。
このタイミングを逃したら、帰りにくくなる。郁子は正直、早くこの病室を出たかったのだ。
ベッドを離れようとしたとき、小野が目を開けた。
が、その目は、ついさっき郁子としゃべっていたときとは別人のように、まるで見知らぬ場所で突然目覚めたという表情を浮かべている。その目がゆっくりと天井を離れて郁子の方へと移って来た。
折から夕陽は血のように赤く部屋の中を染めて、当然のことながら郁子もまた朱く照らし出されていただろう。
小野が、郁子を見た。その目が大きく見開かれて、顔には恐怖が——はっきりそれと分る怯《おび》えの色がにじみ出た。
「——どうしたんです」
と言ったのは、郁子でなく、小野の方だった。
「え?」
と郁子は問い返した。
「何しに来たんです! ——迎えに来たんですか、僕を? 僕はまだ死なない。そうですよ。僕はまだ生きてるんだ……。あっちへ行って下さい! どうして僕が……僕が……死ななきゃならないんです。僕が何をしたっていうんです。僕は……言いつけ通りにしただけだ。あんたに恨まれる覚えはないんだ! そうでしょう……」
まくし立てるような声。——恐怖が、これほど残されたわずかな生命のエネルギーを絞り出すものか。
「お願いだ……。もう少し生かしておいて下さい。——ね、裕美子さん。僕は仕方なくやっただけです。他にどうしようもなかったじゃありませんか。僕は先生に雇われてるだけの身だったんです」
裕美子だと思っているのだ。郁子は、目を壁の鏡へ向けた。——赤い夕陽を受けて、郁子は確かに、そこに姉——いや、母とそっくりな少女を認めた。
「僕は……まだ行きたくない! お願いだ!」
小野の手が突然郁子の手を握る。ハッとして引っ込めようとしたが、小野は驚くような力で握りしめて離そうとしなかった。
「離して!」
「裕美子さん——。お願いだ——」
「離して!」
必死で力をこめて振り離すと、郁子は病室を飛び出した。小野が追いかけて来そうな気がして、駆けてはいけないと思いつつ、廊下を走ってしまっていた。
やっと足が止ったのは、病院を出て、外の通りへ出た後である。
道は病院の影に包まれて暗く、そこだけ一足先に夜になったかのようだった。
汗がこめかみを伝い落ちた。暑いという陽気ではない、恐怖の汗だった。
一体何が起ったのか。
しばらく歩いてから、やっと郁子は今の出来事を思い返すことができた。
小野は何のことを言っていたのだろう?
病人の幻覚としても、郁子を裕美子と見間違えていたことは確かである。そのこと自体はふしぎでないとしても、なぜ小野が裕美子を恐れるのか?
小野は裕美子が自分を死の世界へ連れ去ろうとしていると思ったらしい。そうされる覚えが、小野の方にあったということだろうか。
僕は言いつけ通りにしただけ。——仕方なくやっただけ。
おそらく、裕美子の死の真相を隠すように立ち回って、それで恨まれていると思っていたのだろうか。
——分らない。
ともかく、一つ確かだったこと。
それは郁子が裕美子とますます似て来たということだった……。