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怪談人恋坂08
日期:2018-07-30 20:27  点击:333
 4 警 報
 
 
 駅を出たころは、すっかり夜になっていた。
 
 風はひんやりと湿って、雨になる気配でもあった。
 
 ちょうど走り出すバスが見えて、むろん追いかけても仕方ない。十分もすれば次のバスが来る。
 
 通勤客が帰宅する時刻でもあり、今空っぽになったばかりのバス停には、郁子と同じ電車から降りた客が見る間に列を作る。
 
 座って行くほどの距離でもなし、郁子は、ふと思い立って公衆電話で家へかけた。
 
「——あ、お母さん? 私。今、駅なの。病院に寄って来たわよ」
 
 郁子はそう言ったが、向うで母が黙ってしまったので、「——もしもし? お母さん、聞いてる?」
 
「郁子。今、病院から電話があったの」
 
 と、早苗がやっと言った。
 
「あ、奥さんから?」
 
「そう。——小野さん、亡くなったって」
 
 郁子は、一瞬ゾッとした。今会って来た小野が幽霊だったのかと思ったのだ。そんなわけはない。
 
「じゃ、私が会った後すぐ?」
 
「そうらしいの。——たった今、電話でね。お見舞ありがとうございましたって……。でも、変だけど、間に合って良かった。話はできなかったんでしょ」
 
 郁子はちょっと詰ったが、
 
「ううん。お父さんのこと、ちゃんと話してたよ。今日からロンドンってことも憶えてて。びっくりした」
 
「そう! 大したものね。気の毒に……。お母さん、お通夜とか決ったら行かなくちゃならないわ。郁子、行ける?」
 
 いやよ。とんでもない! 郁子は反射的にそう言いそうになった。
 
「レポートとかテストとかあって……」
 
「無理しないで。お母さん、ちゃんと行くから。今、駅? じゃ、夕ご飯の仕度して、待ってるわ」
 
 早苗は、病人の見舞よりも、お通夜に行く方が気が楽な様子だ。
 
 郁子は、バス停の列の終りについた。——夕焼だったのに、雨になりそうだ。
 
 この辺だけの通り雨だろう。
 
 雨。——いつも雨だ。
 
 誰かがそう言った。兄さんだ。裕美子のときはいつも雨……。
 
 今日は、何の雨だろう? 小野が死んだからか。
 
 小野はあのまま死んだのだろう。郁子が手を振り切って逃げ出した、その直後に。
 
 重苦しい気持だった。
 
 バスが来て、郁子は乗り込んだ。たまたま空席があって座れたので、今日は坂を上らないで、乗って行くことにする。今日はぐったりと疲れていた。
 
 小野は、恐怖に青ざめたまま、裕美子に「連れて行かれる」と怯《おび》えながら死んだのだろうか。そう考えるのは辛かった。
 
 バスが動き出すと、間もなく、
 
「雨よ、ほら」
 
 と誰かが言っているのが聞こえた。
 
 窓の方を振り向くと、雨が細い跡を引いて当っていた。そうひどい降りではないし、傘は持っている。
 
 ——お姉ちゃん。もうじき私、十六だよ。あなたが私を産んだのと同じ年齢になる。
 
 バスの外は夜の暗がりで、窓を見ていないと、雨になったことにも気付くまい。
 
 座席に腰をおろしている男性たちは、ほとんどが顔を伏せて眠っているかのようだ。
 
 疲れてもいるのだろうが、正直なところ、眠っているふりをしているように思えた。
 
 たぶん、見たくないのだ。人の疲れている姿、人の不幸でいるところを。いや、他人のことなんか、知りたくもないのかもしれない……。
 
 それは寂しい光景だった。
 
 郁子は、窓に映っている自分の姿へ目をやった。
 
 私は、そういうわけにいかないのだ。私は私一人のものじゃない。お姉ちゃんもまた、私の目を通して、世界を見ている。
 
 もう、あれから——姉の死と、あの通夜での出来事から七年がたとうとしている。
 
 あの夜、郁子は九歳の子供で、姉から、とてもすぐには理解できない話を山ほど聞かされた。理解できなくても、決して忘れてはいない。
 
 いつもいつも、くり返し頭の中で裕美子の話を辿《たど》っていた。七年間、ずっとそうしていた。
 
 成長と共に、郁子は裕美子の話を少しずつ理解して来た。十歳は十歳なりに、十二歳は十二歳なりに、分ろうとした。
 
 次第に自分が「女」になっていくにつれ、裕美子の苛《か》酷《こく》な運命が肌に感じられるようになった。
 
 だから、ある意味では郁子は七年間かかって、あの夜の裕美子の話を聞き、そして理解したのである。
 
 お姉ちゃん……。
 
 どんなにか悔しかったろうか。暴力で犯され、相手さえ分らずに身ごもって、産んだ子は妹として接しなければならなかった。——自分に何の落度があったわけでもないのに。
 
 バスが信号で停《とま》った。
 
 少し遠くに警報器の音がして、やがて電車が通り過ぎる震動が伝わってくる。
 
 あの踏切は、家へ車で上って行くときの近道だ。むろん郁子もよく知っている。
 
 そうだった。裕美子の話の中にも、あの踏切が出て来た。警報器も、鳴っていた。ただ、その日は雨が降っていなかったのだ。本当は降っていてほしかっただろうに、降っていなかったのである。
 
 もちろん、郁子は憶《おぼ》えていない。その場の登場人物ではあるが、郁子はまだ名前すらなく、裕美子の腕の中に抱かれていたのだから……。
 
 
 
「どうして停るんだ」
 
 不機嫌そのものの声で、藤沢隆介は言った。
 
 ハンドルを握っていたのは圭介である。
 
「だって、電車が……」
 
 警報器が点滅し、にぎやかに鳴っていた。
 
「まだ来んだろう。行ってしまえ!」
 
「でも——」
 
 圭介はためらっていた。
 
 無人踏切で、遮断機もない。それだけに怖いし、実際見通しがあまり良くないので、よく事故の起る場所だった。
 
「電車が来れば分る! 早く行け」
 
 圭介は車を出そうとしたが、焦ってエンストを起してしまった。
 
「——下手くそめ!」
 
 と、隆介が吐き捨てるように言った。
 
「お父さん」
 
 と、裕美子が言った。「動かなくて良かったわ。踏切の途中で立ち往生してたよ……」
 
 近付いて来る電車の響きが伝わって来た。
 
「充分渡れたぞ、そんなドジさえやらなけりゃ」
 
 圭介は真赤な顔でじっと前方を見つめている。
 
 そのとき、自転車が車のわきへ進んで来て停った。
 
 狭い踏切で、当然互いの顔が見える。
 
「——お父さん」
 
 と、裕美子が言った。「あの人……」
 
 自転車に乗っていたのは、すぐ近所の奥さんで、いつも町内会の回覧板を持ってくるので、顔を知っていた。
 
 車の中を見て、裕美子と目が合うと会釈したが、その目は裕美子の腕の中の赤ん坊を見つめていた。
 
「無視しろ」
 
 と、隆介は言った。「だから行けと言ったんだ!」
 
 電車が目の前を駆け抜けていく。裕美子の腕の中で赤ん坊が身動きした。
 
「泣かないでね。——何でもないのよ」
 
 と、裕美子は軽く赤ん坊を抱き直した。
 
「早く行け!」
 
 電車が行ってしまうと、隆介は言った。
 
 車はガクンと大きく揺れて、飛び立つように走り出した。びっくりした赤ん坊が目を覚まして泣き出した。
 
「お兄ちゃん、ゆっくりやって!」
 
 と、裕美子は言った。「泣かないで。——ほら、何ともないわよ」
 
 隆介は、苦々しい表情で前方を見つめている。
 
「——とんでもない奴に見られたな」
 
 と、首を振って、「アッという間に噂《うわさ》が広まる」
 
 裕美子はチラッと父親を見たが、何も言わなかった。泣きやまない赤ん坊の方が、今は差し迫った問題だったのだ。
 
 ——圭介が車を玄関前に着けると、中から出て来たのは早苗ではなく、叔母の柳田靖江だった。
 
「お帰りなさい。早く中へ」
 
 裕美子の体を気づかうでもなく、赤ん坊を見るわけでもない。ともかく急いで家の中へ入れて、
 
「大丈夫?」
 
 赤ん坊はまだ泣いていた。
 
「病院出るとき、おしめは替えたんだけど、ミルクをあげるわ」
 
 ——裕美子は、赤ん坊の泣き声を大分聞き分けられるようになっていた。
 
「早苗はどうした」
 
 と、隆介が言った。
 
「いますよ。——ああ、早苗さん」
 
 裕美子は、哺乳びんを出して、赤ん坊にミルクを飲ませていた。赤ん坊は小さな手を精一杯開いて、全身でミルクを飲んでいる感じだった。
 
 裕美子は、母がじっとこっちを見ていることに気付いていた。しかし、今は見えないふりをして、ひたすら赤ん坊にミルクをやり続けた。
 
「——近所の誰だかに見られた」
 
 と、隆介が舌打ちした。
 
「誰ですか?」
 
 と、早苗が訊く。
 
「名前なんか知らん。ともかく噂になるのは避けられん」
 
 隆介は、ため息をついて、「早く何とかすることだ」
 
「そうですね」
 
 ——何とかする。それはこの赤ん坊のもらい手を捜すということだった。
 
「やっと眠った」
 
 と、裕美子は哺乳びんを傍へ置いて、「お母さん。布《ふ》団《とん》敷いて、私が小さいころの、あるでしょ」
 
「ええ」
 
 早苗は無表情だった。赤ん坊の顔を見ても、何とも言わなかった。
 
「どこに?」
 
「私の部屋でいいわ。私も少し横になる。疲れたわ」
 
 赤ん坊を抱いて二階へ上る。
 
「——裕美子。どうするの」
 
 と、早苗は下に布団を敷いた。
 
「何が?」
 
「何が、って……。あんた、高校生なのよ」
 
「今の学校はやめるしかないでしょ。そういう話になったんでしょ」
 
 そっと赤ん坊を寝かせる。——こんなに小さい生きものが、いつか母親さえ追い越して育っていくのだ。
 
「先生とは色々お話ししたわ。お父さんのこともあるし、学校側でも考える余地はあるかもしれないと……」
 
「もう、学校の子たち、みんな知ってるわ。今さら何もなかったような顔で通えやしないわよ」
 
 裕美子は赤ん坊の傍に横になった。
 
「ご近所の人に見られたの?」
 
「うん。——あの、いつも回覧板持ってくるおばさん。でも、その内泣き声でもすれば、いやでも分るわ」
 
「本当に……どうしてこんなことに……」
 
 早苗は涙声になった。
 
「やめて。——今さら、仕方ないじゃないの。この子は間違いなくここにいるのよ」
 
「裕美子——」
 
「少し寝かせて。くたびれてるの」
 
「ええ……。分ったわ」
 
 ためらいがちに、早苗が部屋を出て行こうとする。
 
「——お母さん」
 
 と、裕美子は言った。「この子、『郁子』って名にするわ」
 
「え?」
 
「『馥《ふく》郁《いく》』の『郁』。私、そう決めたの」
 
 早苗は、何も言わずに出て行った。
 
 裕美子は、ほの暗い部屋の中でもつややかに光っている我が子の頬っぺたにそっと指を触れた。赤ん坊が小さく首を振った。
 
 これが私の子……。この子には誰もいない。私が守ってやらなければ、誰もこの子を構ってはくれない。私が愛さなかったら、誰もこの子を愛してはくれない……。
 
「郁子……」
 
 と、裕美子はそっと呼びかけた。
 
 自分がそんな風に呼びかけることがあろうとは、思ってみたこともなかった。
 
 あの恐ろしい出来事が、遠い昔のようだ。裕美子は全く別の人間になった自分を感じていた。
 
 あの日の出来事を、誰にも話すことはできなかった。恐怖と恥ずかしさ。——それに、何があったのか、裕美子自身はっきりと知っていたわけではなかった。
 
 むろん、想像はついたが、できることならそれを否定したい思いが一方にあって、何ごともなかったように振る舞っていることで、本当に「なかったこと」にしてしまえるような気がしていたのだ。
 
 ショックからは次第に立ち直っていったが、体の変調に気付いたとき、それこそ裕美子は途方に暮れた。
 
 早く病院へ行かなければ、と思いつつ、間違いであってほしいと願う気持が捨てられない。——父が知ったらどうするか。母もまた、こんなことを相談したところで、現実的な対応のできる人ではない。
 
 迷い、考えあぐねている内に日々は過ぎて行った。
 
 時折つわりの症状を見せる裕美子に、やっと早苗も気付いた。
 
 裕美子は、話をした。何もかも正直に。
 
 ——少しは母が同情し、一緒に悲しんでくれると思っていた。
 
 しかし、母が真先にしたことは、その日、父の帰りを待って、何もかも父にしゃべってしまうことだったのだ。母が一番恐れているのは、娘の身ではなく、自分が責任をしょい込むことなのである。
 
 父は怒鳴り、母は泣いた。——しかし、裕美子はただしらけ、黙っているばかりだった。父が怒っているのは、世間に知られている自分の名と地位をおびやかされたからで、母が泣いているのは、こんな状態になった自分自身を哀《あわ》れだと思ってのことだった……。
 
 休学届を出し、父のつてを辿《たど》って病院へ行ったが、中絶は危険だと言われた。
 
「母体に危険があります」
 
 と、医師から言われたとき。——裕美子は今でも憶えている——母は青ざめて、
 
「死ぬと決ったものではないんでしょう?」
 
 と言った。
 
 医師の方が面食らって、
 
「そりゃあそうですが……」
 
 と、母を眺めていた。
 
 結局、どうしても産むしかないと母が納得するまでに、医師と三十分近くも話さねばならなかった……。
 
 その病院からの帰路の長かったこと。重苦しかったこと。
 
 昨日のように鮮やかに、裕美子は思い出せる。早苗は、こんな不幸が自分の身にふりかかってくるのを嘆き、裕美子は父にも母にも、何一つ期待してはいけないのだと実感していた。
 
「可《か》哀《わい》そうな子……」
 
 裕美子は「郁子」の寝顔を、じっと眺めていた。自分だって可哀そうだ。でも、今はそんな風に自分を憐《あわれ》んでいる暇などない。
 
 この子には、私しかいない。私一人しかいない……。
 
 裕美子の目に涙が熱く浮かんで来た。
 
 
 
「——あら、郁子さん」
 
 自宅の方へ歩いて行くと、後ろから呼びかけられた。和代である。
 
「お出かけだったの?」
 
 めかし込んだ和代を見て、郁子は訊いた。
 
「ええ、ちょっとミュージカルをね」
 
「へえ」
 
 和代とミュージカルというのも、何だかうまく結びつかない感じではあった。
 
「今日、小野さんのお見舞だったんでしょ」
 
 と、和代が一緒に歩きながら言った。
 
「ええ。見舞ったすぐ後に亡くなったんですって」
 
 和代は一瞬足を止めたが、すぐに、
 
「亡くなった? それはそれは」
 
「お母さん、お通夜へ行くとか言ってたわ」
 
「人なんて、儚《はかな》いもんですね。毎日顔を見てると、つい当り前みたいに思ってる。でも、いなくなったら、じきに忘れちゃうんですよ、きっと」
 
「代りの人が来るんでしょ?」
 
「女の人を選ばれたようですけどね」
 
「女の人が……」
 
 和代と父……。兄、圭介の言っていたことを思い出して、しかし郁子はどうにも信じる気持になれなかった。
 
「誰か出て来た」
 
 ちょうど玄関を開けて、重そうな鞄をさげた背広姿の男が出てくる。——銀行の人だ。
 
 このところ時々やってくる銀行員である。まだここへ来るようになって半年くらいか。
 
「あ、どうも、いつもお世話に」
 
 と、郁子と和代を見て頭を下げる。
 
「ご苦労様です」
 
 と、郁子は言った。
 
 銀行員は和代の方へ、
 
「安永様も、いつもありがとうございます」
 
 と、頭を下げ、「昨日、ご入金ありがとうございました」
 
「いいえ」
 
 和代は首を振って、「ティシュペーパーでも置いてってちょうだい」
 
「はい」
 
 と、銀行員は笑っている。
 
 郁子たちは、玄関を入った。
 
「お帰り。——あら、和代さんも?」
 
「そこで一緒になったんです。お夕食、すぐ仕度しますから」
 
「お鍋は火にかけたわ」
 
「はいはい」
 
 和代は、よそ行きのまま台所へ。
 
 郁子は、二階へ上ろうとして、ふと足を止めた。——「昨日、ご入金」とあの銀行員は言った。
 
 和代の月給日はいつも月末のはずだ。こんな時期に何の入金があるのだろう。
 
 もちろん、郁子が和代の懐具合を知っているわけではないし、知ったところでどうということでもないが……。
 
 もし、父とのことが本当なら、給料以外にお金が入るのだろうか。
 
 確かに、和代がこのところお金を使うようになっているのは、郁子にも感じられた。
 
 郁子は二階へと上って、着替えをした。
 
 机の上に、裕美子の写真がある。
 
 ——小野が言ったのは、何だったのだろう?
 
「お姉ちゃん……」
 
 と、郁子は言った。「私、何をすればいいの?」
 
 裕美子の話を聞くことはできても、九歳の郁子に、そこから自分に与えられた役割を理解することは無理というものだった。
 
 ただ、郁子が知っていたのは、裕美子を犯した男が誰だったのか、探り出してその罪を償わせるのが、自分の最終的な役目だということだった。
 
 それが同時に、自分の「父親」を捜すことでもあると郁子が気付いたのは、ずっと後になってからだったのである……。
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