裕美子は決意していた。
郁子は誰にも渡さない。渡してなるものかと。
「——遅いわね」
と、早苗が言った。
もう三回も言っている。当人は全く気付いていないだろうが。
「雨になりそう」
早苗は、居間の窓から灰色の空を見上げた。「いやね。重苦しくて」
昼過ぎなのに、もう日が暮れたかと思うような暗さが居間に忍び入って来た。
「お母さん」
と、裕美子は言った。「——お母さん」
聞こえているに決っているのに、早苗は、
「ちょっと見て来ようかしらね」
と、わざとらしく言って、居間を出て行こうとする。
「この子は渡さないわ」
と、裕美子は腕の中で眠っている郁子をそっと揺って言った。
「お父さんも、もう戻るわよ」
「お母さん」
「待ってるのよ。ちょっと見てくるから」
早苗は、パタパタとスリッパの音をたてて行ってしまう。
裕美子は、郁子を腕に抱いたまま、ソファから立ち上って窓辺に寄った。
空はさらに暗さを増して、遠くに雷の音も聞こえている。
「どこにもやるもんですか」
裕美子は郁子を高く抱き直し、頬《ほお》をその小さな手に触れた。赤ん坊はピクッと体を動かして、そのまま眠り続けた。
——母の言い分は、もちろん分っている。
ちゃんと、そのことは話し合って納得したじゃないの。そう言いたいのだろう。
だから、裕美子の言葉が聞こえないふりをしている。いや、本当に聞こえていないのかもしれない。
子供のようなところのある母だ。「聞きたくない」ことは、締め出すことができるのかもしれない。
パタ、パタと音がしたと思うと、たちまち雨足は強まって、視界を遮るほどの降りになった。
「——何だ。まだいたのか」
圭介が居間へ入って来る。
「大学は?」
と、裕美子は訊いた。
「目が覚めたら、もう昼さ。今さら行ってもしょうがねえ」
圭介は、ソファにだらしなく身を沈めると、
「親父、連れて来るんだろ、その子の里親を」
「ええ……。でも、関係ないわ。いやだってごねてやる。びっくりして帰るわよ」
圭介は笑って、
「見物してる分にゃ面白そうだな」
と言った。「だけど……。お前まだ十六だぞ。どうするんだ。そんなチビ連れてさ」
裕美子は、チラッと兄の方を見ると、
「たとえ父親が誰でも、母親は私よ」
と言った。
圭介は、一瞬裕美子の気迫に呑まれたように黙ってしまったが、
「——お前、変ったな」
と、タバコを取って火を点《つ》けた。
「やめて」
と、裕美子は険しい顔で圭介をにらんで、「この子に悪いわ。目の前で喫《す》わないで」
圭介は、文句も言わずにおとなしく火を消して、
「本当に変ったよ。——大人になっちまったな」
皮肉の気配はなかった。むしろ素直に感心しているらしい。
「十か月近くも、子供をお腹に入れて育てるのよ。死ぬかと思うくらいの痛い思いをして産むのよ。——変って当り前」
「そうだろうな。俺、別にそれがいいとも悪いとも言ってんじゃないぜ」
と、圭介は言った。「ただ、お前、まだこれから大学行ったり、遊んだり、一杯やることがあるだろ。それにゃ少々不便なんじゃねえか?」
裕美子は皮肉っぽく微《ほほ》笑《え》んで、
「じゃ、お兄さんが面倒みてて。その間に私、遊びに行くわ」
「俺の柄じゃねえよ」
と、圭介は笑って、「お袋も、そんなことしちゃくれそうもないしな」
裕美子は、郁子を抱いたままそっとソファに腰をおろした。雨はしばらく上りそうもない。
「お母さんが、もう少し私のことを分ってくれると思ってた」
と、裕美子は言った。「この子の顔を見たら、あやしてくれるぐらいのことはすると思ってた。でも……」
「気が小さいんだ。世間体だって大切だしな、お袋にとっちゃ」
「でも、この子に何の罪があるの? 産まれて来たからには、生きたいはずよ。愛されていいはずよ」
「まあ……放っとけ。お袋はああいう風で、親父を怒らせるのが怖いのさ」
圭介は欠伸《あくび》をした。「——来たのかな?」
玄関の方で物音がしたようで、裕美子は、ハッと身を固くして郁子を抱き直した。
「ああ、ひどい雨」
と、早苗が肩先辺りを濡《ぬ》らしてやって来る。「あら、圭介、起きたの?」
「ああ」
と、圭介は立ち上って、「また寝るよ。おやすみ」
居間を出て行ってしまう圭介を見送って、
「何してるのかしら、あの子」
と、早苗は苦笑した。「裕美子。ね、お客様のお茶碗を出してくれる?」
「お母さん。その方には帰っていただいて」
早苗は、やっと裕美子をじっと見つめた。
「——裕美子」
「何も言わないで。私、自分でこの子を育てるわ。出ていけと言われれば出て行きます」
「馬鹿を言わないで」
と、早苗はため息をついた。「お父さんが聞いたら……」
「私は誰も怖くないわ。——お母さん。私、変ったのよ」
腕の中で少し郁子がむずかった。「はいはい。——おっぱいの時間かしら、そろそろ?」
「ともかく、お客様がみえるのよ。この雨の中を。お茶の一杯もさし上げないでお帰り下さいとは言えないでしょ」
裕美子は、ちょっと肩をすくめて、
「どうして、わざわざお茶碗を出すの?」
「欠けてたのよ、いつものが。棚の上にあるの、知ってるでしょ。いつかいただいたの」
「ええ。——じゃ、待って」
廊下へ出る。階段の下に戸棚がしつらえてあって、明りがないので中はいつも薄暗い。そこへ物を出しに入るのは、裕美子の役目だった。
「箱ごと出せばいいのね」
「そう。出して一応ざっと洗わないといけないからね」
「じゃ……ちょっと抱いてて」
郁子を母の手に預け、裕美子は戸を開けると、少し頭を低くして中へ入った。埃《ほこり》くさい匂《にお》いがする。
裕美子が子供のころずっと飾っていた、ひな人形の大きな箱が何個も積み上げられていた。
「——あの白い箱よね」
と、裕美子は、隅に寄せてある踏み台を引いて来て、それに乗ると、棚の上の箱を慎重に取った。
すると——急に辺りが真暗になったのだ。
「お母さん。——お母さん」
振り向くと、踏み台から落ちそうだ。箱を一《いつ》旦《たん》戻すと、棚につかまって、そっと台を下りた。
「閉めないでよ!」
細い隙《すき》間《ま》からかすかに光が洩《も》れている。
「お母さん!」
裕美子は戸を開けようとした。——ほんの数ミリ開いただけで、いくら引いても動かないと知ったとき、裕美子は全身から血の気がひいていくのを覚えた。
まさか! ——そんなことがあるだろうか?
「お母さん! ——開けて!」
力一杯、戸を叩《たた》く。
すると、赤ん坊の泣き声がした。もちろん郁子だ。
その声は、廊下を遠ざかり、玄関の方へと小さくなっていく。
体が震えた。信じられないような出来事だった。娘を閉じこめておいて、その間に赤ん坊を渡してしまおうとしている!
話し声がかすかに届いて来た。郁子がさらに大きな声を上げて泣く。
「郁子!」
と、裕美子は叫んだ。
全身の力をこめて、戸を揺さぶった。板を叩き割らんばかりの力で蹴《け》る。
もともと、そうがっしりした戸ではない。下の溝を外れた戸がガタッとずれて、あとは力一杯けとばすと、外れて倒れる。
裕美子は廊下へ転るように飛び出すと、玄関へ駆けて行った。
——圭介が立っていた。玄関の戸の前に両手を広げて立つと、
「もうよせ。諦《あきら》めろ」
裕美子は、車のエンジンの音を聞いた。大雨の中で、どうして聞き分けることができたのか。
裕美子は走った。——階段を駆け上ると、部屋へ飛び込み、窓を開けた。
雨が細かい霧のように吹き込んで来る。
車が静かに動き出していた。しかし、門の前で向きを変えようとして手間取っている。
傘が二つ、手前に見えているのは父と母だろう。
裕美子は何も考えなかった。体が勝手に動いて、窓をのり越え、そのまま下の地面へと飛んでいた。
下が花を植えた柔らかい土だったのが幸いしたのだろう、泥に足は取られたが、そう痛めはしなかった。
振り向いた母が目を見開いた。立ち上った裕美子は、雨の中、泥だらけの体で父と母へ向って突進した。
「裕美子!」
母を突き飛ばすと、やっと何ごとかと振り向く父のわきをすり抜け、車に向って駆け寄った。
幸いドアはロックされていなかった。裕美子がパッとドアを引き開けると、郁子を抱いていた中年の女性がキャッと短く声を上げた。
ものも言わず、裕美子はその女の腕から郁子を奪い取った。
「——裕美子!」
父が愕《がく》然《ぜん》として見つめている。
雨が一段と強くなった。裕美子は泣き続ける郁子をしっかりと抱いて、雨に打たれ、立っていた。
「馬鹿はよせ!」
父が進み出てくる。
ほとんど迷うことなく、裕美子は坂へ向って駆け出していた。
「待つんだ! 裕美子!」
父の声が雨の中に消える。
裸足《はだし》で、裕美子は坂を駆け下りて行った。雨が坂を渓流のように流れ落ちていく。
誰かが追って来ているかどうか、確かめる余裕などない。ただひたすら走った。走った。
郁子だけは決して渡すものかと抱きしめて、泣き叫ぶのを聞きながらも、今はこらえて、お願い、逃げなければ。逃げなければ——。
足を取られた。水たまりから少し斜めになった石の滑らかな面へと足を踏み出していた。
よろけて、ハッと息を呑む。——坂道である。止らなかった。
裕美子は転り落ちた。坂を、果しなく落ちて行った。
痛みも冷たさも、感じなかった。ただひたすらに郁子を両腕で抱きかかえ、
「この子だけは死なせないで!」
と、祈っていた。
人恋坂は雨に煙り、裕美子の姿はその白い闇の中へ消えた……。
「——奇跡だって」
と、圭介が言った。「運が強いよな、お前」
裕美子には分っていた。兄の笑顔は引きつっている。
「本当のことを言って」
と、裕美子は言った。
「まあ」
早苗が息をのんで、「口がきけるのね!」
「ともかく、命を取り止めただけでも、感謝しなきゃな」
父は背広姿で、どこかへ出かけるか、それとも帰りに立ち寄ったという様子だった。
裕美子の視界は、広くなかった。じっと顔は真上の天井へ向いているだけで、目で左右を追うことはできるが、頭は全く動かない。それだけではなかった。体中の感覚が、痺《しび》れたように失われていた。
「あの子は?」
と、裕美子は言った。
父と母が目を見交わす気配があった。
それがどっちを意味するのか、裕美子にも測りかねた。
「嘘《うそ》をつかないで。本当のことを言って」
かすれた声で、必死で言った。
「赤ん坊は死んだ。当り前だろう。あんなに長い坂を転り落ちたんだ」
「ここへ来て言って」
と、裕美子は言った。「私の目を見ながら言って」
重苦しい沈黙があった。——裕美子の青ざめた頬にさっと朱が射した。
「生きてるのね」
自分でも、声の弾むのが分る。「言って! あの子、助かったのね」
返事をしなければ、肯定しているのと同じだ。——父が渋々ベッドの方へやって来て、
「そんなことより、俺はお前のことを心配してるんだ」
「生きてるのね、あの子は?」
と、たたみかける。
圭介が言った。
「奇跡だってさ。——赤ん坊は風邪ひとつひかなかったんだぜ」
裕美子は目を閉じた。そして開けたとき、涙が一滴、目の端からこぼれた。
「そんなにあの子が大事か」
と、父が言った。「お前はこんな体になったのに!」
「あの子を連れて来て!」
「裕美子——」
と、母が言いかける。
「ここへ連れて来て」
裕美子はくり返した。「動けなくても、舌をかみ切るぐらいのことはできるわよ」
「お前は何てことを!」
母がゾッとしたように、「母さんたちが心配しなかったとでも思ってるの!」
「連れて来てやれ」
と、父が言った。
「あなた——」
「いいから。この子には、他に楽しみがないんだぞ、もう」
母が病室を出て行く。
「お父さん。私、ずっとこのまま?」
「背骨が折れた」
父は、目をそらして、「回復の見込みはほとんどない」
「寝たきりだってさ」
と、圭介が軽い口調で、「もう勉強することもないんだ」
「手は少し動かせるようになるかもしれん。しかし、起きたり歩いたりは……」
「分ったわ」
裕美子は、じっと天井を見上げた。
「お前……」
「あの子をそばに置いて。でなければ、私、死んでしまう」
裕美子の言葉は、父にとってショックだったようだ。
しばらく、父は病室の中を歩き回っていた。
ドアが開いて、
「まあ、目が覚めたのね」
穏やかな、やさしい看護婦さんがベッドの方へやって来た。「ほら、ママが目を覚ました。良かったね」
郁子の顔が、裕美子の視界に現われると、裕美子は涙が溢《あふ》れて止らなくなった。
「涙を拭《ふ》いて。——見えなくなっちゃう」
「ああ」
圭介が、ハンカチで裕美子の眼を押える。
「——郁子! ——郁子!」
看護婦さんが、赤ん坊を抱えてそっと裕美子の方へ下ろして行った。
郁子のつややかな頬《ほお》が裕美子の涙に濡《ぬ》れた頬に触れる。
ありがとう……。ありがとう。
この子を救ってくれて、ありがとう!
あの人は誰だったんだろう?
「お腹、空いてるわ、この子」
と、裕美子が言うと、じき郁子が泣き出した。
「本当ね。よく分るのね、ママは」
と、看護婦さんが笑いながら言った。「ミルクをあげるわ。見ている?」
「はい!」
裕美子は、看護婦さんが一旦出て行くと、
「——お父さん」
と言った。
「何だ?」
「あの子をそばに……。お願い」
父は深々と息をついた。
「お前には負けた」
と、父は言うと、「誰か雇って、お前と赤ん坊の面倒を見させよう」
父は圭介の方へ、
「俺は仕事だ。お前、そばにいてやれ。どうせ暇だろう」
「そういう言い方って……」
と、圭介が苦笑している。
父が出て行くと、圭介が覗き込んで、
「やったな」
と言った。
裕美子がウインクして見せると、圭介はちょっと涙ぐんだ様子だった……。