「本当に私も行っていいの?」
山内みどりは少々くどいくらい念を押した。
「構わないのよ。だって、家族だけってわけじゃないんだから。大体、うちはどういうつながりか良く分んない知り合いが一杯いて」
郁子の言い分は少々グチめいて聞こえたかもしれない。
「でも、郁子の友だちって私一人でしょ? 緊張しちゃうな」
電車を降りて、駅を出ると、少し暗くなりかかっている。
「充江も呼びたかったけどね」
と、郁子は言った。「あ、みどり。一つ、我慢して」
「何を? 私、ビールでも飲めるわよ」
「そんなことじゃないわよ」
と、郁子は笑ってしまう。「家まで、あの坂道を上って行きたいの。それに付合ってくれる?」
「人恋坂、だっけ。いいよ」
「結構辛いよ。運動不足でしょ、みどり」
「失敬な! こう見えても、体育は〈4〉だぞ」
「へえ」
「小学校のときね」
と、山内みどりは続けた。「途中でのびたら、郁子におぶってもらう」
——今日は、郁子の誕生日である。十六歳。家では、誕生日のお祝いのパーティがある。郁子はそれに学校の友だち、山内みどりを連れて来たのだった。
「さ、行こう」
二人は歩き出した。
「ね、郁子のパパ、いるの?」
「ああ、今日ロンドンから帰って来てるはずよ。予定が狂わなきゃね。有名人って、予定が狂わなきゃいけない、って思ってるみたい」
「会いたいなあ。すてきだよね」
「そう?」
郁子は肩をすくめた。「あ、ここで渡ろう」
横断歩道を渡る。
途中までバスで行くこともできたが、今日は歩きたかったのだ。
「——充江って、そういえば消息、聞いた?」
と、みどりが言った。
「何も。どこかで新しい生活を始めてるのかな」
倉橋充江が「駈け落ち」して一週間。——むろん、まだクラスで話題には上るが、学校側は「すでに退学になった子のこと」として無視している。
充江の相手が誰だったのかも、分らないままだ。郁子は、やがて落ちつけば必ず充江から手紙でも来るだろうと、安心していた。
「でも、凄《すご》いな、充江」
と、みどりが首を振って、「私、とってもそんな度胸ない」
「誰か好きな人ができたら、きっと何でもやっちゃうよ」
「そうかなあ。私、だめだな。恋の方を諦《あきら》めちゃう。根性なしだもん」
と、みどりは言って笑った。
「倉橋さんから——充江のお母さんね。——何か分れば知らせてくれることになってるのよ」
「相沢先生が訊いてたよ、そう言えば」
「相沢先生? 英語の?」
「うん。ほら、充江、英語部だったじゃない。それで心配してるみたい。一番倉橋と仲の良かったの誰だ、って」
「何て答えたの?」
「当然、郁子よ」
「相沢先生か。——何も言われてないな。いつの話?」
「ええと……。おととい? うん、たぶんそうだ」
と、みどりは言って、自分で肯《うなず》く。
「おとといか……。じゃ、その内何か訊いてくるかもしれないね」
二人は、しばらく無言で歩いていた。
夜が降りて来て、二人を包んだ。街灯がためらいがちに光を投げかける。
「——人恋坂って、郁子のお姉さんが亡くなった所でしょ?」
ずっと前に、みどりにそんなことを言った憶《おぼ》えがある。むろん、正確に言うと裕美子は坂で死んだわけではない。けれども、漠然とみどりがそう思っているのも当然かもしれなかった。
「まあね」
と、曖《あい》昧《まい》に答えて、「そこから折れて、じきに坂だよ」
鞄《かばん》をもう一方の手に持ち直して、郁子は少し足どりを速めた。
「おい。——真子。どこだ?」
梶原は玄関を上ると、薄暗いままの部屋に、ちょっと眉《まゆ》をひそめた。
出かけたのか? いや、そんなことはあるまい。今朝もちゃんと念を押しておいた。憶えているはずだ。
大方、その辺へ買物に行っているのだろう。明りを点《つ》けて、梶原は一瞬ギクリとした。妻の真子がダイニングのテーブルについているのである。
「何だ……。びっくりするじゃないか」
と、息をつき、「明りも点けないで、何してるんだ」
真子は、眠っていたわけではなかった。じっと目を見開いて、彫像のように椅《い》子《す》にかけていたのだ。
「真子——」
「お帰りなさい」
と、無表情に、「座ってるだけなら、明りはいらないわ」
「そりゃそうだろうけど……。出かけよう。すぐ出ても、間に合うかどうか」
梶原は、ネクタイを外し、「楽なシャツに替えてく。お前、それで行くのか」
真子は普段着だった。梶原は、
「何かワンピースでもあるだろ」
と、しわになったワイシャツを脱ぐ。
「あなた一人で行って来て。私、行かないわ」
「何だって?」
梶原は、呆《あつ》気《け》に取られた。「——どうしたんだ? 何を怒ってる。前から言ってあるじゃないか。お前だって行くと言って——」
「あなた一人で行けばいいわ。私、どうせあのお宅とは関係ないんだもの」
梶原は、ため息をついて、椅子を引くと腰をおろした。
「何だっていうんだ? 郁子君の誕生日のお祝いに招かれてる。それは分ってるだろ。プレゼントまで、わざわざ買いに行ったんじゃないか。由紀子をお義《か》母《あ》さんの所へ預けて。それを今になって、どうしていやだなんて言い出すんだ」
真子は、初めて夫を見た。——梶原の初めて見る妻の目だった。いつもの、上目づかいに夫の機嫌をうかがっている真子ではなかった。
「行くのなら、あなた、他の人を連れてらっしゃいな」
妻の言葉に、梶原は面食らった。
「何のことだ? 他の人って、誰のことを言ってるんだ」
「誰のことか、あなたが一番よく知ってるはずだわ」
と、真子は言い返した。「私、今日銀行へ行ったのよ」
梶原の表情がこわばった。真子は続けて、
「振り込むのを忘れていたものがあったの。それで、急いで行ったのよ。三時の閉店ぎりぎりに入って、振り込んだついでに、通帳を打ってもらった。——私の通帳なんて、もうずいぶん長いこと打ってもらってなかったから。ところが……」
真子は、テーブルに預金通帳を出して、ピタリと置くと、「これはどうなってるの? 私の口座を通って、毎月毎月、何万円ものお金が引き出されてる。ボーナスからも十万円も! ——私、あなたに給与の明細を見せてもらったことなんかなかったわ。いつも、渡してくれる現金だけが収入の全部だと思ってた。ところが……」
「真子。——待ってくれ」
と、梶原は言った。「分った。お前の言いたいことは分った。つまり、俺が女にこづかいでもやっていると思ってるんだな」
「そうじゃないのなら、何に払ってるの?」
梶原は、少しの間黙っていたが、
「——真子。聞いてくれ。お前がそう思うのも無理はない。でも、それは違う。女なんか俺にはいないんだ」
「それじゃ——」
「待て。ともかく、今その話をしていたら、間に合わない。そうだろ? 藤沢先生のお嬢さんだ。今日は先生も帰国される。欠席するってわけにゃいかないんだ。その話は、帰ってからしよう。な?」
「信じられないわ! その間にあなたは何か他の口実を見付けるんでしょう」
真子の目から涙がポロポロとこぼれて行った。
「なあ、真子。誓ってもいい。お前の思ってるようなことじゃないんだ。——頼む。俺一人で行くわけにゃいかない。今は、我慢して一緒に行ってくれ」
梶原は、妻の手を握った。
真子は手を振り払おうともせず、なおもしばらくしゃくり上げていたが、やがて手の甲で涙を拭《ぬぐ》った。
「真子——」
スッと真子は立ち上ると、
「仕度するわ」
と、力のない声で言って、奥へ入って行った。
梶原はホッと息をついたが……。真子が、藤沢家へ行ってもずっとあんな具合だったら、どうしよう? もともと、確かに真子は藤沢家と何の関係もない。自分一人で行くことにしても良かったのだ。
しかし、藤沢隆介から、
「郁子の誕生日のお祝いなんだ。良かったら、奥さんと一緒に」
と言われて、行かないわけにはいかない。
もちろん、「良かったら」と言われているのだから、「家内はちょっと用があって」とでも言って断ることもできた。
しかし、藤沢隆介のような人間は、「断られる」ことに慣れていない。自分の要求は、いつも受け容れられて当然と思っている。
梶原にとって、藤沢隆介の機嫌を損ねるのは、何よりも恐ろしいことだった。
勤め先が倒産し、娘の由紀子がちょうど幼稚園の入園を控えて、途方に暮れた梶原は、妻、真子の重苦しい嘆きから逃れるように、あてもなく外出し、いつしか、かつて家庭教師として通ったあの坂道までやって来ていたのである。
あの暑かった日——真子が大きなお腹を抱えていた、裕美子の葬儀の日に何があったか。自分たちが先に帰った後、あの坂道で起ったことは、梶原も何人もの口から聞かされていたのだ。
オーバーな、と思える話ではあったが、何人もの目撃談を聞かされたのだから、大筋のところは事実だったのだろう。
二度と——もう二度と藤沢家へ足を運ぶことはあるまいと思っていた。それが……。
何か見えない手に引き寄せられるかのように、梶原は坂を上っていた。あの〈人恋坂〉を……。
坂を上り切ったところで、梶原は家から出て来た藤沢隆介とバッタリ出会った。
「——君。梶原君か。久しぶりだね」
こんな風に出会うと思っていなかった梶原は気後れした。
「近くへ来たので……」
と、何気なく寄っただけ、という顔で挨拶し、
「これからTV局でね」
と言われて、初めて何とかしなくては、という気持になった。
「じゃあ、また」
迎えの車へ乗り込もうとする藤沢へ、思わず、
「先生! お願いが」
と、声をかけていた。
ドアを開けた手をそのまま止めて、
「金か」
と、藤沢は言った。「それとも違う用件か」
「仕事が欲しいんです、先生。会社が潰《つぶ》れて。困ってるんです」
一気に言って、自分でもびっくりした。「すみません! 突然こんな……」
と、頭を深々と下げる。
藤沢は、車に乗ろうとするままの格好で梶原を見ていたが、
「考えておこう」
と、肯いて、「今夜、電話しなさい」
「ありがとうございます!」
先生、と付け加える前に藤沢は車に乗り込んで行ってしまった。
そして、翌日には梶原はTV局の下請けをしている小さなプロダクションを訪ねて採用してもらった。梶原にとって、仕事の中身を問題にしている余裕はなく、ともかく収入が途切れないことが何よりありがたかった……。
「あなた」
と、声がして、振り向くと真子がスーツ姿で立っていた。「おかしくない?」
「ああ。——ちっともおかしくなんかないよ。きれいだ」
実際、あまり外出しない真子が、こうして化粧もして髪を整えている様子を見ることは珍しかった。
真子はちょっと笑って、
「きれいだなんて……。無理しなくていいわよ」
梶原はホッとした。
「さあ、行こう」
と、立ち上って促す。
「車にしてね。疲れてるの」
「いいとも」
去年、やっと買った中古車である。電車で行くつもりだったが、今は真子の機嫌がせっかくいつもの調子に戻ったところで、逆らわないことにした。
「由紀子は、明日どうするんだ?」
「お母さんがちゃんと学校へやってくれるわよ」
真子は、玄関へ出て、「靴、どれがいいかしら……」
と、考え込んだ。
梶原は、しかし、忘れていたわけではない。藤沢家から帰ったら、あの金のことを真子に説明しなければならないということを……。
「郁子! ——待ってよ! ちょっと!」
案の定、坂の途中で山内みどりは音を上げてしまった。
「頑張って」
と、先を行く郁子は振り向いて言った。「大丈夫。迷子にはならないわよ」
「もう! ——薄情者!」
みどりは足を止めて、「少し休んでく。先に行って!」
「大げさねえ」
と、郁子は笑って、「十六歳でそれじゃ、どうするのよ」
「いいの。長生きする気ないもん!」
「そういうこと言ってる人ほど長生きするんだよ。——お腹空いてんでしょ」
「それもある」
と、みどりは大げさに息をついて、「ここで倒れたら?」
「明日、朝学校に行くとき、起こしてあげるよ」
と、郁子は言った。「みどりも来るって、お母さんに話しとくから。早くおいで」
郁子は坂を大きな歩幅で、勢いをつけて上って行った。
ゆるくカーブしているので、じきにみどりの姿は振り向いても見えなくなった。
「しょうがないな」
置いていくってわけにもいかない。郁子は足を止め、坂を見下ろして立つと、みどりが上って来るのを待った。
——すっかり夜である。
街灯の光がぼんやりと輪を作っている。足下が見えないほど暗くはないが、一人でいると少々心細いのは確かだろう。
「みどり……。早くおいで」
と、呟《つぶや》いていると、足音が背後から聞こえた。
一足ずつ、しっかりと確かめるような、ゆっくりした足どり。ただ、どこかそのリズムはおかしかった。
振り向くと、女の人が一人、坂を下りて来る。
見かけたことのない女性だった。——三十代だろうか、光の加減を差し引いても青白く、ほっそりと頼りなげである。
この季節にしては肌寒そうな夏物の白いワンピース。デザインは大分古くさい。
そして——何となく妙だと思えたのは、その女性が左の足を軽く引きずっていたからだった。この坂を下るのは少々厄介かもしれない。
その女性は、郁子のわきを通り過ぎて行った。郁子の方へは目を向けなかったが、それでも、ほんの一メートルほどの所を通るとき、郁子はその女性が自分のことをじっと見ている——正確に言えば、感じていることに、気付いていた。
その女性のうつむき加減の横顔は、まるで筆で描いたようにくっきりと暗い背景に浮かび上って、白く、透き通るように白かった。
郁子は、声をかけることもできずに、坂を下って行く女性の後ろ姿を見送っていた。左足を引きずる足音が小さくなって行くと、入れ違いにみどりがフウフウ言いながら上って来る。
「——ああ、参った!」
「大丈夫? あと少しだよ」
と、郁子はみどりの後ろへ回ると、背中に手を当てて、「ほれ!」
と、押してやる。
「わあ、楽だ!」
と、みどりが声を上げる。
「——そら、終った」
と、郁子は息をついた。「でも、みどりはやっぱり運動不足だよ」
「うるさい」
と、みどりは言い返して、「うんと食べさせてもらわないとね」
「どうぞどうぞ」
郁子は笑って言った。「さ、入って」
玄関の引き戸を開け、みどりを先に入れる。
「お邪魔します。——でも、あの坂を、いつも歩いて上るの、郁子?」
「いつも必ず、ってわけじゃないけどね。あ、スリッパ出すから」
「ありがとう。人が通らないから、一人だったら、歩く気しないね」
「そうかな。だから〈人恋坂〉なんだけどね」
「あ、そうか」
「あの女の人は、大変だろうね。足が悪いんじゃ」
郁子は、ちょうどやって来た和代に、「ね.山内さんも一緒に夕ご飯食べるから」
「はいはい。人数がはっきりしませんから、各自取り分けるものにしたんですよ、おかずは」
「部屋にいるから、呼んで」
郁子はみどりを誘って階段を上って行った。
「郁子。——『足の悪い人』って誰?」
と、みどりが訊く。
「今、すれ違ったでしょ、坂で」
みどりが目をパチクリさせて、
「あの坂で? 私たちしかいなかったじゃない。誰も、すれ違った人なんていなかったよ」
郁子は振り向いて、
「——そうだったかな。じゃ、自分の影を人だと思ったのかもしれない。ね、制服のままでいい? 何か私のもの、貸してあげようか」
と、勢いよく自分の部屋のドアを開けた。